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六勝寺と近代京都の原点岡崎白川を辿る

平安時代後期の院政時代に六勝寺が造営され、明治初頭に衰退する京都はここ岡崎から京都再生に立ち向かいました。平成最後の歴史ウォークとして辿ってみました。

  1 白河院跡

白河大臣と呼ばれた藤原良房の別業で、当初、白川殿と称した。その後、子孫に代々伝領され、藤原氏出身の后妃の御所ともなり、上東門院(一条天皇中宮)も居住し、白河院と称された。
白川の水を取り入れ苑池のほとりには、壮麗な寝殿造り風の殿舎が東山を借景と相俟って建てられ、白河院は素晴らしい景勝に恵まれたところであった。

白河院は藤原師実の時に白河天皇に献上され、天皇は承保2年(1075)、白河院を改めて法勝寺を造営するに至った。


2 法勝寺跡

白河天皇が承保3年(1076)、六勝寺の中で最初に建立され、翌年には落慶法要が行われた。
筆頭寺院として最大の規模を誇る。北は冷泉小路(夷川)、南は押小路、西は岡崎広道で、東の端は南流する白川に沿う総面積63,500u、二町四方の広大な敷地にあったと考えられる。

現在の京都市動物園とその北の法勝寺町、また南御所町のうち冷泉通南部にあたる。

創建当初は金堂、講堂、五大堂、阿弥陀堂、法華堂など造営され、奈良仏教、平安密教、浄土信仰を総合する寺院であった。特に金堂は74面の瓦葺で、本尊は金色32尺(9.6m…丈六仏の2倍)の昆
遮那如来であった。
その後に、多くの諸堂が建てられ、中でも八角堂は高さ81mという巨大さで極めて目立った。

法勝寺の堂宇は鎌倉時代には地震や落雷の被害に度々会い、室町時代には応仁の乱の兵火により
焼失し、末期には廃滅した。法脈は大津坂本の西教寺に伝えられている。
(八角九重塔)
建物は金堂の南の池の中島にそびえ建つ塔で、高さ27丈(81m)の巨大な八角九重塔は形式では他に例がない。高さは現在の2027階のビルに相当。平安京に住む人々に白河上皇の権勢を誇り、都に入る旅人の目にも真っ先に飛び込むシンボルタワーと言えよう。
壮麗極めた塔も平安末期の二度の大地震で損傷し承元2(1208)落雷のため焼失。
再建するも暦応5年(1342)の火事で焼失後、二度と再建されることはなかった。
(京都市動物園)
大正天皇のご成婚を記念して、明治36(1903)4月に開園し、東京の上野動物園に次ぐ日本
2番目に古い動物園である。開園当初の動物はラクダ、猿、鳩、うずら、雁、フクロウ、馬、鹿だけの宮内省御下賜されたものであった。
4万uの敷地には約300種類、1500点の動物が飼育され、展示されていて、現在、市民の
レクレーションや自然科学教育の場として大きな役割を果たしている。
園内の中央近くにある「塔の壇」と呼ばれる低い丘は、法勝寺の八角九重塔址と伝えられ、開園工
事の際、出土した長大な6個の石は、噴水塔の池中や腰かけように使われている。
高さ12mの小さな観覧車は本州で現存する最古のもので、同地に建てられていた八角九重塔は観覧車の7倍近い高さを誇り、いかに法勝寺の塔が高かったかが伺える。


3 最勝寺跡




鳥羽天皇の御願所で、元永元年(1118)、六勝寺3番目に創建された。
寺域は方一町と推定され、二条大路末に面し法勝寺と尊勝寺の間に位置し、現在の岡崎グラウンドにあたる。

塔が三基、金堂、薬師堂、五大堂、南大門などの堂宇が建っていたが、災害等で度々破壊され、その都度再興される。
鎌倉末期には青蓮門院が管理するところとなったが、その後荒廃し、応仁の乱で廃寺になったと伝わる。




4 平安神宮と第4回内国勧業博覧会会場跡

六勝寺の旧地を京都府が買収し、明治28年(1895)第4回内国勧業博覧会と平安遷都千百年記念祭が同時に開催され、近代京都の発展や圧倒的な文化度を内外にアピールする絶好の場となった。
当時の岡崎は、水田とかぶら畑が広がる所だそうで、その地に工業館、農林館、器械館、水族
館、美術館、動物館と各府県の売店、飲食店などパピリオンが設けられ、奉祝の行事として時代祭が挙行された。博覧会の入場者は41日から4か月で113万人を越える盛況であった。
開催に合わせて、京都電気鉄道が開業し、日本最初の路面電車が走り、21日には七条停車場〜京都駅〜伏見油掛間。41日には七条停車場から木屋町通り〜博覧会場を経て、疎水ほとりの南禅寺船溜まりを結ぶ7qを時速10qで走ったとのことである。当時の路面電車の車体が今も平安神宮南神苑に展示されている。

博物館跡地には、岡崎公園が開設し、その後も幾多の博覧会の会場となり、図書館、美術館、勧
業館など(後ほど説明)様々な文化施設が建てられ、徐々に文化ゾーンが形成された。
岡崎公園では、今も京都を代表するハレのイベント会場になっている。
また、周辺一帯、特に東山山麓では風致保全と合わせた別荘地開発が進められ、疎水の水を利用して、作庭家・小川治兵衛を代表する名庭園群などの景観を観光客などが楽しんでいる。
(平安神宮)

桓武天皇を祀る神社として創祀され、昭和15年には孝明天皇も祭神に加えられた。
建物は平安京の大内裏、朝堂院や大極殿など8分の5に縮小して復元している。
敷地面積は小川治兵衛が作成した1万坪の「平安神宮神苑」を含め、約2万坪ある。

1022日に行われる時代まつりは、京都市民だけでなく内外からの観光客でにぎわう。

(大典記念京都博覧会 門柱…照明台座)
岡崎公園グランドの南西にあるレンガ造の構築物は、大正4年(1915)、大正天皇の即位式を記念して開催された時の大典記念京都博覧会の電灯台座である。


5 円勝寺跡

鳥羽天皇中宮待賢門院璋子の御願所で、大治元年(1126)、三重塔(東塔)を皮切りに五重塔(中塔)、金堂、五大堂など堂宇が、六勝寺4番目に建立され、大治3年落慶法要が行われた。
寺域は
1町四方で法勝寺と最勝寺に隣接する地にあり、現在の京都市美術館・近代美術館・図書館周辺にあった。南境は押小路、北境は二条大路末、東境は広道(現岡崎道)、西境は広道より西1町と推定される。
六勝寺では唯一女院御願寺であったが、実質は白河法皇によって造立された寺院で、以後たびたび災害にみまわれ、再建されるも応仁の乱により廃絶したと伝える。
(京都市美術館)
昭和8(1933)11月、昭和天皇即位の礼を記念して、公立美術館として東京府美術館に次い
で日本で2番目に開館。延床面積は、後にできた別館と合わせると11,000u強で、数多くの美術品を所蔵し、常に展覧会を行うとともに美術団体や作家に対して会場を提供している。現在は改装中で、2019年度中に「京都市京セラ美術館」の名称でリニューアルオープンする。
(府立図書館)
明治6年(1873)に京都府が三条高倉西に開設した「集書院」が前身で、明治42年(1909に現岡崎の地に蔵書5万冊で開館した。設計者は武田五一で、ルネッサンス風レンガ造木造3階建、建築面積2634uであった。重要な資料は昭和38年にできた府立総合資料館に移されている。
本館敷地内には明治の初めに京都に来たドイツ人ゴットフリート・ワグネル博士の顕彰碑がある。博士は工業化学、陶磁器、織物などの分野で日本、特に京都の近代化に貢献した。

また、敷地の南には吉田松陰の「山河襟帯」の詩を刻んだ碑がある。松陰が嘉永6年(ぺリ−来航の年)京都通過時に御所(山河襟帯…自然の城)を拝して読んだ尊王思想の漢詩で、自筆。
その他、岡崎界隈には多くのモニュメントがあり、それだけ巡っても面白い。


6 尊勝寺跡

白河天皇の第二皇子である堀河天皇の御願寺で、創建は2番目に古く、康和4年(1102)である。堀河天皇は天皇在任中に崩御したため院政を行なうことはなかった。
寺域は、南は二条大路から北は現丸太町通りで、ロームシアター京都や京都市武道センターがすっぽり入る2町四方で法勝寺に次ぐ規模であった。当初の堂宇は金堂、講堂、薬師堂、観音堂、阿弥陀堂と東西五重塔などがあったが、鎌倉末期までに災害等で建物が荒廃し間もなく廃絶。
(ロームシアター京都…元京都会館)
50年に渡り京都市民の文化交流の場として親しまれてきた「京都会館」が、平成28(2016)にロームシアター京都に名を変え、リニューアルオープンした。地下2階、地上6階建、鉄筋コンクリート造、建築面積8174uで、大小3ホール、会議室等からなっており、京都の劇場文化を形づくっている。


7 成勝寺跡

崇徳天皇の御願所として保延5年(1139)に創建され、同年落慶供養が行われた。崇徳上皇は保元の乱で後白河天皇と対立して敗れ、讃岐に配流され怨霊となったと言われている。
敷地は南境が押小路末、北境は二条大路末に面し、方1町で、現在の京都みやこめっせ付近と推定される。創建期の堂宇として金堂・経蔵・鐘楼があり、南大門。東門・西門・北門・回廊がめぐらされているが、塔の建立はなされた形跡はなく、応仁の乱で廃寺となった。
(京都市勧業館みやこめっせ)
昭和12年(1937)建設された京都市勧業館及び京都市伝統産業会館が前身。京都市勧業館みやこめっせは、平安建都1200年の記念事業として平成8年(1996)に建設開館した。建物は鉄筋コンクリート造で延床面積20,364u。地上4階、地下3階で、伝統産業をはじめとしたあらゆる産業界の展示会、イベント、見本市のほか、会議や講演など、多様な用途で利用されている。4,000uの展示場、定員120名の大会議室や美術工芸ギャラリーに加え、地下には、京都の伝統産業を集めた「京都伝統産業ふれあい館」がある。


8 延勝寺跡





近衛天皇の御願所で、久安5(1149)に完成し、落慶法要が営まれた六勝寺最後の寺である。
東西は、みやこめっせ西側より東大路通りのさらに西まで、南北は、押小路末と二条大路末までの範囲で、東西2町、南北1町の敷地にあったと思われる。
建造には清盛の父、平忠盛が担当し、金堂、塔、東西回廊。東西南北には各門を配置するなど堂宇が建立され、後に阿弥陀堂も造立され九体阿弥陀仏像が安置されたが、鎌倉期には次々と災害により焼失。室町期に入りと荒廃が進み、応仁の乱によって廃寺となった。

現在は、細見美術館、妙伝寺寺院など住宅地となっている。





9 得長寿院跡




尊勝寺の西側、白河南殿の東に位置し、寺域は南北2町にわたった。

清盛の父、忠盛が鳥羽上皇のために建立し、平氏が中央政界で躍進するきっかけになった。
上皇の御願所として、長承元年(1132)に完成し、その本堂中央には、丈六の本尊十一面観音が安置され、両側には等身の観音像、計1000体が納められた。現存する東山の三十三間堂(蓮華王院)より先に建立され、ほとんど変わらない規模を有していた。元暦2年(1185)の地震で崩壊し、以後再建に至らぬまま荒廃、廃寺となった。 



10 白河南殿跡

現在左京区聖護院蓮華蔵町を中心とした石原町・吉永町・秋築町一帯がその旧地に当る。白河上皇が法勝寺を建立後に造営された院御所の一つで、白河北殿の南に位置するところから白河南殿と称された。もと覚円大僧正の僧房を嘉保2年(1095)、御所に改められたもので、広大な苑池を挟んで東部に御所があり、「白河泉殿」あるいは「南本御所」とよばれ、その中に阿弥陀堂があったことからまた「白河阿弥陀御所」とも称され、新しい政治「院政」を開始した。
次いで、白河法皇の御願により、白河南殿内に蓮華蔵院が創建され、九体阿弥陀堂は平正盛(清盛の祖父)により寄進。その後、2つの塔を建立、法皇崩御後も三重塔が建立された。

白河南殿は鳥羽殿にもみられるように、御所と御堂が結合したもので、この時期の特徴の一つである。御所は白河法皇の崩後、鳥羽法皇によって維持されたが、鎌倉時代にしばしば災禍にあい、南北朝時代の頃には廃亡したものと考えられている。

(白河北殿跡)

元永元年(1118)、白河法皇が造営された院御所の一つで、白河南殿の北に当たるので、白河北殿と称された。大治4年(1129)白河法皇の崩後は鳥羽上皇の御所となり、この御所が歴史上有名になったのは、保元の乱に新院(崇徳上皇)方の本拠になったということにある。
保元元年(1156)7月2日、鳥羽法皇が崩御されると、崇徳上皇が同月10日、新院軍勢をあつめ、御所を城郭として立てこもり、東門には平忠正・多田頼兼、西門には鎮西八郎為朝が唯一人で固めた。西河原面の門には六条判官源為義、北の春日面の門には平家弘がそれぞれの手兵を以て固めた。その軍勢は凡そ一千余騎に達したが、合戦は10日の朝、鴨河原を中心にして開始され、激戦数刻におよんだが、容易に勝敗は決しなかった。そこで後白河天皇方は源義朝の作戦をとりいれ、夜襲を決行して一挙に新院方を陥れた。ために御所は炎上し、崇徳上皇は逃れるも捕らえられて四国讃岐に配流。首謀者の一人藤原頼長は敗死。源為義、平忠正が斬首に処せられた。
後白河天皇側、平清盛、源義朝が勝利し、これにより、白河北殿は、今まで地下人とされていた武士が、乱後、中央政界にのしあがることとなった事件の舞台となった。
それは豪奢を極めた院政期の衰退と、武士の時代の台頭を感じる出来事であった。


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