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早春の嵐山から松尾の里へ

嵐山は大堰川の渡月橋両岸一帯を指す地名で、大堰川右岸の嵐山に由来します。今回は嵐山から松尾大社までの山裾を、早春の風を感じながら楽しく歩きましょう。

  渡月橋の名前
<嵐山地区・中島地区・臨川寺地区>桂川左岸の下流は「嵐山東公園」
公園設計のこだわり → 
月へのこだわり
公園入口のスロープに渡月橋を模して月の満ち欠けを表現。(渡月橋→月が渡る)
スロープの石の目地の方向は東南29度方向で設計。観月を主目的として建築した」桂離宮・古書院での観月の方角。
その他入口スロープの左側の組石は、石と石の間から桂川の源流である佐々里峠方面を指す。スロープの敷石は瀬戸内海の大島産と犬島産


  戸難(無)瀬の滝

京都の代表的景勝地である「嵐山」は、古くは平安時代より多くの歌に詠まれ、絵図などにも描かれ、各時代を通じて京都における代表的な景勝地として人々に親しまれてきた。織田信長が上杉謙信に贈ったという国宝『上杉本洛中洛外図屏風』にも「嵐山・渡月橋」として描かれており、江戸後期の1799(寛政11)年に刊行された京都の名園案内書である『都林泉名勝図会』にも「嵐山」として登場する。
江戸時代頃までに描かれた各種の絵図類を丹念に精査してみると、「嵐山」という一つの山(382m)を構成している樹木の種類も現在とは大きく異なり、全山で、松、桜、紅葉などの樹木が大勢を占めている事が推測される。そして、驚く事に、嵐山の山すそを流れている大堰川の右岸で渡月橋より少し上流の嵐山の中腹から「三段に流れ落ちる一本の滝」が大きく描かれているのである。そして各時代を通じて描かれてきた各種の嵐山に関する絵図、そのほとんどに一本の滝が必ず登場して「戸難(無)瀬の滝
(となせのたき)」と呼ばれていたようである。


  櫟谷・宗像神社(いちたに・むなかたじんじゃ)

櫟谷社と宗像社の2社が1殿に祀られており、櫟谷社は式内社で現在は両社合わせて松尾大社の摂社である。
櫟谷社と宗像社はそれぞれ「松尾7社」の一社に数えられ、特に櫟谷社は松尾社・月読社とともに「松尾三社」に数えられる。
主祭神 櫟谷社・奥津島姫命  宗像社・市杵島姫命
本殿の様式 二間社流造
由諸 当社は古くより俗に「嵐山弁天社」と称し奈良時代大宝年間より鎮座されている名社である。社伝では筑紫国・宗像から勧請されたことによるといわれている。
平安時代、葛野に鋳銭所(今の造幣局)があり、新しい鋳銭は必ず当社に奉納せられたという。以来「福徳財宝の神」として人々の尊崇が厚い。又宗像社は河海の女神であることから「水難の守護神」ともされている。古来風光明媚の名勝嵐山に訪れる人は必ず詣でた神社である。


  法輪寺

西京区嵐山虚空蔵山町にある真言宗の寺院。智福山と号し、本尊は虚空蔵菩薩。
713
(和銅6)年、元明天皇の勅願で行基が開いた木上山葛井寺に始まり、829(天長6)年空海の弟子道昌が参籠して虚空蔵法を修し、生身の虚空蔵菩薩を感得して安置、以後、法輪寺と改めた。
874
(貞観16)年伽藍を整備、応仁の乱で焼失したが、後陽成天皇が復興し、智福山の山号を賜った。毎年313日から2ヶ月間、13歳になった子女が参詣する「十三参り」は特に賑わう。(秋の「十三参り」は101日から1130日)。寺宝に持国天立像・多聞天立像(いずれも重要文化財)を持つ。
◆ 法輪寺 葛の井(くずのい)
829(天長6)年、道昌は、たまたまこの寺に参ろうとし、水籠りをしていたところ明星天が衣の神の上に現れ、たちまち虚空蔵菩薩に化身した。道昌はこれを写して一体の像を刻み、本尊として安置した。その、水籠りをした古井戸がこの井戸であり、今も明星天が祀られている。そしてこの水は「明星水」、「落星水」と呼ばれている。一説には秦氏が醸造飲料水に使用した井戸水ではないかとも言われている。


  西行院

 この地は、平安末期の僧で歌人としても知られている西行が出家直後に庵を結んで住んでいた場所と伝えられている。
西行(11181190)は、俗名を佐藤義清
(さとうのりきよ)といい、保延31137)年には、鳥羽上皇の北面の武士となった。そして、保延61140)年に23歳で出家して西行と称した。
その後は、鞍馬や東山山麓、嵯峨等に草庵を結んだと伝えられ、この地もその隠遁地の一つであろうと伝えられている。

この地の西行の庵(いおり)は、その後、西行伝説と共に聖域化して浄土信仰の念仏道場の西光寺へと発展していったと伝えられている。


  蔵泉寺(ぞうせんじ)




山号は宝珠山(ほうしゅうさん)。臨済宗相国寺派の寺院で、室町時代の尼五山の第二位・通玄寺の三子院のひとつ慈受院(じじゅいん)門跡(薄雲御所)の末寺で、現在も尼寺である。本尊は十一面観音菩薩立像で、諸病除けのご利益があるという。



  東光山薬師禅寺(とうこうさんやくじぜんじ)(はしご地蔵)




臨済宗天龍寺派 本尊 薬師如来立像 山号 東光山
創建の詳細、変遷は不明

地蔵堂に安置の地蔵尊は、幼児のおねしょ封じの「梯子地蔵(はしごじぞう)」として知られる。そして、下の病気平癒や下の世話を受ける人の篤い信仰を集めている。


  松尾大社

松尾大社は、701年(大宝元)に秦忌寸都里(はたのいみきとり)が現在地に社殿を営み、その後も一族が社家を務めた。
784年(延暦3)の長岡京遷都の際には、勅使が派遣され、平安京遷都以後は、王城鎮護の社として、東の賀茂社と並び称される大社である。
社殿の背後にある松尾山の大杉谷から湧き出る清泉は霊亀(れいき)の滝となり、その崖下(本殿北東隅)から霊泉「亀ノ井」の水が湧き出ている。この水を醸造の際に酒水(さかみず)に加えると腐敗しないと伝えられる。
このため、松尾大社は中世以来“酒の神”として醸造家の信仰が篤い。


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