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維新の徒花「新選組」を語る
不動堂屯所から西本願寺屯所を経て壬生屯所へ

新撰組は約270年続いた徳川幕府や会津藩に忠義を尽くし、五稜郭までの長い道のりを「誠」の旗印のもとに、死力を尽くして戦った。隊士達は歴史の流れに上手に乗ることができなかったが、決して悪人ではなく、隣人ならば仲良く語り合える優しく、勇気のある若者達であったかもしれない。今回のウオークでは不動堂から壬生までを、彼らが何を思い、何に涙し、またどんな恋をしたかなどに想いをはせながら歩いていただけたらと思います。


  不動堂村屯所跡の名前

この屯所跡は、1867(慶応3)6月から12月まで、わずか6ヶ月という短いものだった。この屯所の移転について、史料によると、西本願寺屯所は、寺側から費用は全額持つから退去してもらいたいとのことで、当地に自前の屯所が持てた。新築と言われているが、中古との説もあり実際にはよくわからない。屯所の広さは1万u。表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見、中間と小者の部屋、大風呂は30人が一度に入れた。大名屋敷と比べても遜色ない構えだったと言われている。しかし1216日に伏見奉行所に移転することになり、この立派な屯所もわずか半年間利用されただけだった。



  近藤勇妾宅跡

隊員4名で旅館に突入し、勤王派浪士13名を捕殺した池田屋事件は、同時代人の新撰組への認識をますます強めるものであった。「新撰組の長近藤勇は頗る勇士壬生浪士組六十人の長…」(風雪書)と記載されており、慶喜直属の軍隊ともいうべき地位を確保するまでになった。そして慶応3(1867)6153番目の屯所を不動堂に設営した。隊員の伍長以上の者は、屯所近くに家を借りて「休息所」と称し、身の回りの世話をする女性を住まわせ、そこから通勤することが許された。局長近藤勇も新屯所の北側に接して休息所を設けた。醒ヶ井木津屋橋下ル御方紺屋町494、現在は拡張された堀川通りの真ん中あたり、陸橋の真下と思われる。大阪の置屋織屋の深雪太夫を落籍させて住まわせた。容姿端麗であったが病弱であり、すぐに亡くなってしまい、妹のお考(コウ)を住まわせた。(二人一緒に住まわせていた…との別説もあり)御陵衛士伊東甲子太郎は、この休息所を訪れた帰路に暗殺された。訪問の用件には諸説がある。不動堂屯所を引き払った後も、沖田総司がこの休息所で療養していると聞きつけた御陵衛士の残党が襲撃したり、近藤勇が二条城に立ち寄った帰りにこの休息所に立ち寄ったりと、長期間使用されていた。






  本光寺の名前

高台寺党に潜り込んでいたスパイ(同調者として離脱した斎藤一)は、高台寺党に、「新撰組壊滅の計画」ありの情報を持って屯所へ帰ってきた。そこで、近藤等は伊東暗殺計画を実行に移す事となる。伊東を誘い出す理由には、「斎藤が金を盗んで去った為、捕縛と立会、返済する」(阿部十郎談)や近藤が「国事を談合したい」ということで妾宅に招いたともいう。これを受けた伊東は、皆の止めるのも聞かず、醒ケ井通木津屋橋にある近藤の妾宅に出向いた。
1118日午後10時頃、飲み過ぎて酩酊状態のままで伊東は妾宅を辞す。その際に駕籠を断り、醒ケ井通から木津屋橋通を東に入ると、南側は禁門の変で焼けた民家跡が板塀で囲ってあった。突然その内側から槍が繰り出され喉を突き通された。伊東も、抜き合わせて戦ったが多勢に無勢で瀕死の重傷を負い、油小路に入った東側にある本光寺門前の碑石に腰を下ろし「奸賊ばら」と叫んで絶命した。襲撃したのは大石鍬次郎、宮川信吉、横倉甚五郎らであった。
更に大石たちは、死骸を七条油小路の辻まで運び路上に遺棄、町役人を起こし死骸の引き取りを「高台寺党の月真院」へ知らせるように指示した。

油小路事件
新撰組によって惨殺された伊東甲子太郎の死骸は、七条通油小路の辻まで運ばれ放置されていた。町役人から知らせを受けた高台寺党の面々は、遺体引き取りのため駕籠を用意して、7人(篠原泰之進、鈴木三樹三郎、服部武雄、藤堂平助、毛内(もない)有之助、加納道之助、富山弥兵衛)で現場まで赴いたところ、待ち伏せしていた新撰組により、藤堂・毛内・服部の3人が惨殺された。



  天満屋事件

普通の料理旅館だった。ここで血なまぐさい事件が起こった。
慶応3(1867)年127日、天満屋で酒宴中の紀州藩士の三浦休太郎らを、海援隊の陸奥宗光、陸援隊の岩村精一郎、十津川藩士の中井正五郎ら16名が襲撃した。その理由は4月の竜馬率いる「いろは丸」と紀州藩の明光丸とが瀬戸内海で起こした海難事故と関係がある。龍馬が国際法に基づいて談判した結果、紀州藩に7万両の賠償金を支払させたことに起因し、その恨みから竜馬暗殺の犯人であるとして狙われたとされている。










  西本願寺(屯所跡)

この西本願寺屯所は、壬生の屯所から直線距離にして1.2qで、慶応元年(1865)3月に移転してきた。西本願寺の侍臣西村兼文によると、土方らに暴言、罵言により移転を強要されたとあるが、「九条家国事記録」をみるとスムースに事が運んだ可能性が強いようです。隊士も増え(170)手狭となったこと、反幕的な立場を示す西本願寺であったこと、それと西集会所は500畳の広さがあったことです。
この屯所は、1867(慶応3)6月までの23ヶ月と、長い間屯所を構えていたことになる。この時期、新選組は洋式軍備化を進め、単なる剣客集団から思想集団への転換を図ったのではないかと考えられる。












  島田魁宅付近

島田魁が箱館戦争後、名古屋で謹慎を命じられ、謹慎が解かれると、妻おさとの地元である京都に戻り、妻とともに暮らした家である。ここで剣術道場を開き、明治19 (1886)年から剣術の腕を見込まれ、西本願寺の夜間警備員に採用された。明治33 (1900)年、勤務先の西本願寺で喘息の発作により倒れ、その場で死去、享年73歳。葬儀には函館から、はるばる永倉新八も参列した。
新選組最後の英名録では、二番組の伍長として登録され組長は永倉新八。鳥羽伏見戦争の緒戦では永倉とともに抜刀隊の一人として奮戦。以降、箱館戦争で投降するまで戦った。
島田魁の身長は180p、体重は160sと堂々たる体躯で、新選組の主催した相撲興行でも活躍し「お力さん」との異名も取り、大の甘党で砂糖を大量に入れた「島田汁粉」は隊士のだれもが、甘すぎて食べられなかったという。
島田は新選組隊士の菩提を弔うため念仏を欠かさず、箱館で戦死した土方歳三の戒名を書いた布を常に懐にしまっていた。また、後世に残る記録として『島田魁日記』を残しており、新選組研究の貴重な記録となっている。







  角屋

角屋は寛永181641)年に創業。揚屋の遺構としては唯一のものとして国の重要文化財に指定、現在は「角屋もてなしの文化美術館」として公開されている。また、円山応挙、石田幽汀などの襖絵、重要文化財に指定されている蕪村の「紅白梅図」を所有。
幕末には西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤皇志士たちが、豪商を招いて会議を行った場所であり、また、新撰組が遊興を楽しんだ場所でもあった。店の前には「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」「新撰組刀傷の角屋」の石碑がある。
芹沢鴨はここで、文久31863)年6月に暴挙をはたらいた。水口藩公用方が会津藩邸にて新選組の所業の悪さを訴えたことに始まり、和解のため角屋にて宴席が設けられるが、その席で鉄扇を振り回し膳、食器をたたき割るなどした。そのことが、芹沢一派の処分へとつながる。また、芹沢は殺害される直前にここで酒宴を開いている。
角屋では刀は玄関で預けるが、新選組は会津藩、預かりの「御用改め」の役割から、帯刀が許されていた。







  壬生寺の名前

律宗の別格本山で、通称を壬生地蔵、地蔵院、宝幢三昧院(ほうとうさんまいいん)という。白河天皇(平安中期)から地蔵院の寺号を賜り、地蔵菩薩を本尊とする名刹である。また、国の重要無形文化財「壬生狂言」が春と秋に行われることで有名である。

幕末維新の激動期である文久31863)年、将軍警護、洛中の治安維持のため上洛した後、結成された新撰組の屯所が近くにあり、広い寺の境内が隊士の訓練場として使われたらしいが、寺側は大変迷惑だったようである。
現在、境内の壬生塚には、新撰組局長・近藤勇の胸像や。芹澤鴨、平山五郎、河合耆三郎(かわい きさぶろう)野口健司ら、かつての隊士の墓があり、「新撰組顕彰碑」が有志によって建立されている。また、若き隊士、沖田総司が境内で近所の子供たちと遊んでいたという逸話も伝えられている。


  新徳寺

文久3(1863)222日浪士隊は、京に到着した。壬生付近の民家に宿泊。新徳寺には浪士隊本営として、清河八郎やその他役付幹部が宿泊した。
浪士達が京に到着して間もなく、清河八郎は新徳寺の本堂に全員を集めて、朝廷の警護に当たるということを提案した。これを聞いた鵜殿鳩翁や山岡鉄太郎たちは驚いて、浪士隊の解散、江戸帰国を決定した。これに反対する芹澤派の一部と、近藤中心とした一派の約13名が残留した。その後、新撰組の結成に至ることとなる。


  八木邸

八木家住宅は、新選組が結成された場所であり、最初の屯所である。文久3(1863)年、清川八郎率いる浪士組は、当初、将軍警護を目的として上洛したが、壬生に到着すると、尊王攘夷が真の目的であると公表される。これに反対した、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田左之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名は京都に残留。松平肥後守御領新選組宿の表札を掲げ、ここに新選組が誕生した。なお、芹沢は武士の出自であり、格式の高い部屋が用意され、近藤ら農家出身の隊士には離れが用意された。当時、周囲は田畑が広がり、二条城まで見渡せたという。また、ここは芹沢が暗殺された場所であり、刀傷が残されている。芹沢暗殺後は、近藤が筆頭局長となり隊規も厳しくなった。
現在、邸宅前に八木家が営む御菓子処「京都鶴屋」が立地しており、名物として生地に壬生菜を混ぜた「屯所餅」を販売している。


  旧前川邸

最初の新撰組屯所 屋敷の総坪数(443坪)建坪(273坪)。屋敷は文久31863)年から2年間、新選組の屯所となり、新撰組発祥の地である。浪士組(後の新撰組)が壬生に来たのは前川荘司の本家(京都六角)の影響による。前川本家は掛屋として御所や所司代の公金の出納、奉行所の資金運用の仕事など、色々な公職を兼ねていたため、奉行所や所司代と深い関係があった。上洛する浪士組の宿舎を選定するにあたり、市中情勢にも詳しく、又、役人の信頼も厚かったことから、前川本家が、その任にあたった。
前川本家は、壬生の地が、二条城に近く、物理的条件にかなうことから、自分の身内の前川荘司屋敷を提供し、浪士組は前川邸を中心に八木邸、南部邸(現存していない)、新徳禅寺に分宿した。これが新選組のスタートになった。前川荘司邸では、家族全員が本家への避難生活を余儀なくされた。


  光縁寺

正式には満月山善照院光縁寺と号し、浄土宗知恩院の末寺である。創建は慶長181613)年と伝わり、天明の大火(1788)で焼失したが、本堂は文化21805)年に再建。平成11年より改築。本堂中央に、ご本尊の阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩.右脇に善導大師、法然上人を祀っている。左脇には檀家の位牌が安置され、新撰組隊士および山南敬助の位牌がほぼ中央に置かれている。弘化31846)年に再建された山門の右に「新撰組之墓」の石柱が立つ。
光縁寺と新撰組の縁は、寺の立ち葵紋が山南敬助(18331865年)の家紋と同じで、当時の住職と同い年くらいだったということ、住職が打ち捨てられた遺骸も供養する心暖かい人柄から、屯所で切腹した新撰組隊士の墓所とすることを受け入れた。総長山南敬助は脱走の罪で切腹し、三人目の被葬者になった。なお、江戸で病死した沖田氏の縁者と刻まれた墓石がある、光縁寺の先代の住職が、朽ちた墓碑および過去帳をもとに昭和51年に建立した。
新撰組がいたころの墓域は今より北と西に広がっていて京福電鉄嵐山線が通る場所や隣の民家まで墓碑があり、埋葬された隊士は土葬されていたが、現在の場所に改葬された。
光縁寺には、新撰組在京当時の過去帳『往詣記』が残されていて、埋葬された隊士23名が記されているが、うち9名は墓石がない。住職曰く、京都にある唯一の新撰組墓所であり、維新後は世間から冷たく見られていたが子母澤寛、司馬遼太郎の小説でやっと日が当たるようになった。


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