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木幡の里・藤原氏の遺跡を訪ねてU

藤原道長が平安中期に宇治に浄妙寺を建立して依頼大いに発展した宇治界隈を歩きました。

  櫃川橋跡




櫃川の名は現山科川の古名で、名の由来は不明ですが、山科区には西野櫃川町という町名があります。
櫃川橋は、六地蔵橋から上流の
JRの鉄橋付近に在ったとされ、橋は六地蔵村の東の山科川に架かり、旧大和街道の一部となり、この橋をもって紀伊郡と宇治郡の境とされた。


  六地蔵宿

京都と奈良を結ぶ大和街道の宿場町。旧六地蔵村時代から、交通の要衝として重視されてきた。旧村は宇治市と伏見区にまたがるが、宿場町は宇治市側。なお、「六地蔵」と俗称される大善寺=法雲山浄妙院=は伏見区。
江戸時代には宿場、立場、高札場、馬借所などが設けられ、奈良街道筋の宿驛として機能。水運の港津としても賑わった。人足(※)詰所や伝馬所も置かれ、最盛期には100頭近くの馬を常備。札の辻町に「六地蔵宿 立場 高札場跡」の碑が立つ。
『宇治市史4』(林屋辰三郎、 藤岡謙二郎編、1978年)に「明治維新とともに、街道筋の封建的遺制がとりのぞかれると、南北に走るこの二街道(大和街道、奈良街道)にも荷車・人力車・馬車・牛車、そしてやや遅れて自転車・自動車が走り始め、その状況に応じた道路の新設や改修そして架橋も少しずつ進められた。明治5年(18726月に京都建仁寺町通五条から、伏見街道藤ノ森を経て六地蔵を通り宇治橋にいたる馬車の運行が始まっているが、これは旧来のままの道路ではできえないことであった」とあり、明治7年には六地蔵街道と大和街道が1等道路に指定されている。また、古い街並みとして「六地蔵の札の辻・柿木・紺屋町あたりがあった」とも。
(※)新聞、出版、放送界では「人足」は職業上の差別・侮蔑語として禁忌され、「労働者」「作業員」と言い換えているが、ここでは時代背景の明確化を期するため、敢えて往時の常用語をあてた。


  正行寺(しょうぎょうじ)

正行は楠木正成の嫡男である。“大楠公”と尊称された正成に対して“小楠公”と呼ばれている。
生年は分からない。「太平記」によると父・正成との“桜井の別れ”の当時は11歳であったとされるが他の資料では20歳前後とされている。“湊川の戦い”(1336年)で戦死した亡父・正成の意思を継いで楠木家棟梁となり南朝方として戦った。
正平3年(貞和41348)“四条畷の戦い”で足利側の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の正時と共に自害して果てた。
この戦いに赴く際、後醍醐天皇の御廟に参り、その時、一族郎党143名の名前を如意輪堂の壁板に記し、辞世を書き付け(矢じりで彫った)たことは有名である。
 かへらじと かねて思へば 梓弓
 なき数にいる 名をそとどむる
 (梓弓で放たれた矢のように私たちは帰ってくることは無い。死者の仲間に入りますが私たちの名は残します)この“私たち”とは、一族郎党、この戦に赴く壁板に記した143名の事である。
さて、その下の弟・正儀は兄たち(正行・正時)が討死した後、楠木家の家督を継ぎ南朝方の先鋒として戦い、京を奪還したこともありました。その後、細川頼之を頼って北朝方へ投降しますが細川頼之の死後、北朝内での自分の形勢が悪くなり南朝に帰参します。その後、元中8年(明徳21391822日赤坂で討死したと伝わっていますが正確なことは分かっていません。
※ 嵯峨野宝筐院も正行の菩提寺となっております。詳しくはわかりませんがこちらは胴塚かもしれませんね。


  浄妙寺跡




平安中期から中世にかけて、宇治市木幡、木幡小学校付近にあった寺院。
この付近は藤原一門の陵墓群(宇治陵墓群)が有り、藤原道長が藤原一門の供養のために創建したもので、寛弘2年(1005)完成された。
三昧堂(ざんまいどう)・多宝塔・客殿・鐘楼・南門・西門などが建立されていたが火災などで廃絶した。
平成2年の調査で土壇の一部などが明らかになり、瓦・青磁・建築部材などが出土された。
宇治陵墓群は現在は宮内庁管理となり1号から37号まで区分されているがそれぞれの被葬者は特定することができない。35号は藤原時平、36号は藤原基経と言われているがはっきりしたことは分からない。
平安後期に藤原氏の墓所は法性寺(京都市東山区)周辺に移りこの地は荒廃した。


  陸軍宇治火薬製造所木幡分工場鉄道引込線跡

明治39年(1906)に完成した宇治火薬製造所木幡分工場へ物資を運ぶ為に昭和16年(1941)に敷設された。
このことより東宇治一帯は、増々陸軍の広大な火薬製造、貯蔵の拠点となり、ここで製造された火薬は、大阪砲兵工廠や祝園、枚方などの火薬庫へ運ばれ砲弾が製造された。
また、度々事故も発生し特に昭和12年(1937)8月16日夜間に起きた爆発は猛烈な爆風と炎で宇治川を超え左岸にまで達し全壊、半壊合わせて300戸以上という大惨事となった。
この火薬庫は大東亜戦争終結まで使用されていた。
引き込み線跡は後世に残すべき貴重な戦争遺跡ですね。


  許波多神社(木幡)

祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)。天照大神の子で、瓊瓊杵尊の父。
社伝によると、皇極天皇が夢の中で「私は天神だから下界に住む所がない。私の霊を祀りなさい」とのお告げを受け、藤原鎌足に命じて、大化元年(645)木幡荘(柳山)に神殿を造営し、式内許波多神社と呼ばれた。天智天皇10年(670)大海人皇子は天智天皇と意見の相違が生じ、大津宮から吉野に向かう途中、当神社前で馬が進まなくなったので,皇子が柳の枝を奉納して瑞籬そばの土中に突き刺し、「自分が戦いに勝ち、皇位に就くことができれば、この柳の枝は必ず芽を吹くだろう」と祈願したところ、馬が急に進み、無事吉野に着いた。このあと大海人皇子は壬申の乱に勝利し、白鳳2年(673)即位(天武天皇)した。天下はよく治まるとともに、柳は繁茂したので、神社は正一位を寄進され、柳大明神と呼ばれた。応保元年(1161)現在地に遷座した。
明治
41年旧河原村の田中神社を合祀したため、田中神社の祭神(天照大神・天津日子根命)も祭神となった。
境内に宇治陵
36号陵があり、狐塚と呼ばれる。藤原基経の墓と伝えられている。
なお、この近く(五ヶ庄)に、同じ天忍穂耳尊を祭神とする式内許波多神社がある。社伝は異なるが、元の社地が柳山で、ともに大海人皇子の逸話があり、柳大明神と呼ばれた。延喜式には、名神ミョウジン大社として
3座の許波多神社が記載されているが、この記載に関連して、木幡社2座と五ヶ庄社1座に分かれたのか、五ヶ庄社から木幡社が分祀されたのかの議論があります。


  能化院

寺伝によれば、もとは多聞山観音院本願寺と称し、延暦21年(802)坂上田村麻呂が本願開基となり、延鎮が開創。その後藤原道長の崇敬を受けて諸堂が整備され、道長の命で比叡山横川の僧恵心僧都(源信)が自ら彫刻した高さ2.12mの本尊地蔵菩薩坐像(通称不焼ヤケン地蔵)を安置して、寺は中興された。その後平治の乱(1159年)で諸堂ことごとく焼けたが、地蔵菩薩像だけは兵火を免れ、これを近衛基実が二条天皇に奏上したところ、不焼山能化院地蔵寺の寺号を賜った。後源頼朝によって再建されるが、承久の乱(1221年)で再び兵火に見舞われ諸堂は焼ける。しかしこの時も地蔵はまたまた難を免れた。現在の本堂は寛文4年(1664)の再興で、庫裡玄関には「不焼山」の額がかかっている。また現在地蔵菩薩像は、鉄筋コンクリート製の収蔵庫に移されている。
このほか、藤原頼通の夫人がこの地蔵に安産祈願したことにより、「子安地蔵」の信仰がある。

なお、庫裡の庭に常磐御前の腰掛石と称する庭石がある。平治の乱後、今若・乙若・牛若を連れて大和に落延びる途中ここに立寄ったと言われる。


  宇治陵

宇治陵は、木幡地区とその周辺一帯に散在する陵墓群の総称である。一帯は、古墳時代から埋葬地とされ、多くの円墳・前方後円墳が存在している。そして、藤原冬嗣、基経をはじめ、藤原氏一門の墓地となり、とくに摂関政治の最盛期にあたる藤原道長がこの近くに浄妙寺を創建して以来、藤原氏の子孫の墓地として大いに利用された。しかし、藤原氏一門の衰退(院政開始)、分裂(五摂家の成立など)とともに、ここに埋葬されることが少なくなり、院政後半期の関白であった藤原忠通は、木幡に葬られることなく、法性寺山、すなわち今の泉涌寺あたりに埋葬されたほか、五摂家成立後は、各家の子孫は、家祖の墓を中心に埋葬され、それらの墓地が整備されるようになった。このため、平安京からかなり離れた藤原氏一門の埋葬の地、木幡は次第に荒廃していった。
宮内省(宮内庁)は、明治
10年頃から、大小320あると言われるこれらの墳墓群を調査して、藤原氏出身の皇室関係者(天皇の皇后・中宮・女御など)を中心とする20名の陵墓として37カ所を選抜し、国有化するとともに、墳・塚を整備した。1号から37号までの番号を付し、このうち1号陵(ここ)を総遥拝所に位置付けているが、具体的にどの号の陵が誰の墓かということは分かっていない〔※〕。また、各陵墓の前に立っても、一部を除き何号の陵墓であるかの表示すらない(「宇治陵」とのみ表示)。これらの中には、藤原冬嗣や基経、道長のように、本来宮内庁の陵墓整備の対象外である筈の「民間人」の墓も含まれているが、宮内庁では、同じ内容の管理が行われている。


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