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法然上人・親鸞聖人の足跡を辿る

何人も阿弥陀様に縋れば、浄土へと導いてくれると庶民の救済を説いた法然上人と親鸞聖人は庶民階級を中心に、浄土宗、浄土真宗として、爆発的に広まっていきます。今回は、東山山麓を辿りながら、二人の足跡を偲びたいと思います



  安養寺

山号は慈円山、院号は大乗寺といい、境内に良い水が湧いていることから吉水の別称があり、現在は時宗寺院である。創建は約1200年前の延暦年間のころ、伝教大師最澄により創建され、後に法然上人が庵を結び吉水草庵として宗教上重要な寺となった。

法然上人は比叡山で修業後、念仏道場としてこの地に庵を結び30数年間こもる。

親鸞聖人も同じように比叡山で修業後下山し、六角堂へ参籠95日目に、法然上人が住していた吉水草庵を訪れ、教えを乞う


吉水弁財天堂 安養寺の飛び地境内にあり、安養寺の鎮守比叡山から弁財天尊を勧請したと伝わる。
弁財天の周辺には法然上人も使ったといわれる閼伽の水や円光大師伝法の地の碑柱があり、特に、高さ244センチの慈円和尚宝塔は鎌倉初期の名品として重要文化財に指定されている。

☆ 慈円大僧正 関白九条兼実の実弟で安養寺の中興の祖と言われ、親鸞聖人9歳、青蓮院入寺時、才能を見出して得度に導く。山号の慈円山は彼の名からきており、円山公園の名のもとになっている。

☆ 九条兼実 藤原忠通の六男(諸説あり)、九条家の祖、慈円は同母弟。鎌倉時代当初、関白として権勢を誇るが後鳥羽天皇との対立、源頼朝からの支援減少で政界から離れて浄土宗の法然に帰依する。 しかし、疑いの念もあり、俗人や破戒僧も本当に浄土へ往生できるのか、法然に確かめるため門弟の綽空(後の親鸞で、兼実の弟慈円の弟子でもあった)に娘を嫁がせて安心したという。兼実は、法然に帰依し法然流罪の時、土佐から讃岐(自領)へ減刑に奔走する。

  法垂窟(ほうたれのいわや)

安養寺の北東、知恩院の鐘楼を経て将軍塚に至る途中にある。
・比叡山を降りた法然は、ここ吉水で庵を結び、この洞窟で中国唐の僧善導大師と夢の中で出会い、専修念仏に辿り着いたという。(ひたすら念仏を唱えると阿弥陀様に救われる)
・「法然上人・親鸞聖人御旧跡」こうして親鸞も、自力修行の道から他力本願こそが唯一の道であると信じて教えを広めてゆく。親鸞は、たとえ法然上人にだまされて、念仏のため地獄に落ちても決して後悔はしません。(歎異抄訳)
「圓光大師 善導大師 真葛ケ原御対面之図」と法然と親鸞の出会いの場所ともいう。
 善導 中国唐の時代の僧・善導(ぜんどう、613-681)。『観無量寿経』を新たに解釈し、道綽(どうしゃく)に学び、声を出す念仏により往生するという中国浄土教を大成。法然、親鸞に多大な影響を与えた。





  知恩院

宗祖「法然上人」が1175年吉水の地に草庵を結んだことを起源にして、入寂した遺跡に建つ華頂山と号する浄土宗の総本山である。
嘉禄3年(1227)延暦寺によって破壊され、再建後も火災、応仁の乱などで焼失。
江戸時代に入り、徳川将軍家の庇護は厚く、徳川家康は熱心な浄土宗信者であり、慶長8年(1603)母君である於大の方(伝通院)の永代菩提寺に定めた。
これに伴って寺領が大幅に拡張され、諸堂が完成したが、三門、勢至堂、経堂以外ことごとく焼失した。中でも、知恩院で一番古い建物である勢至堂(重要文化財)は本地堂とも呼ばれ、法然上人の住坊があったとされている。なお、8年間を費やした国宝「御影堂(みえいどう)」は本年12月末に完成予定。


  崇泰院

・弘長2年(1262)入滅した親鸞の遺骨は、鳥辺野に葬られるが、聖人の娘覚信尼が夫の小野宮禅念より廟堂の土地提供を受け、関東の門弟らの協力によりこの地に改葬し「大谷廟堂」を建立。娘の覚恵→長男の覚如によって「本願寺」が成立する。
・本堂東敷地内に聖人の墓塔が今も残っており、聖人使用の杉の杖を突きさすとやがて大木になったといわれる杉の二代目も残る。本尊の阿弥陀如来立像は、源信作で九条兼実から親鸞へ、また覚信尼へと伝わった。応永22年(1415)存如の長男蓮如が誕生、境内に産湯の井戸が残る。
しかし、本堂は三間四方の質素な建物であり、蓮如が幼少期は寂れており、同じく浄土真宗の一派であり繁栄していた仏光寺に比べて参拝者も少なく浄土真宗の中心寺院としての格もなく、青蓮院の末寺扱いであった。
・蓮如上人が八世法主となり、精力的に布教活動を行い、急速に勢力を拡大するものの、圧倒的強力な叡山宗徒の襲撃により本願寺は破壊される。<寛正(かんしょう)の法難〓寛正6年(1465)>
・蓮如はその後堅田や大津から北国、関東で布教した後、越前吉崎御坊を経て畿内に入り、文明15年(1483)山科本願寺が落成。
明応8年(1499山科本願寺で入滅。(享年85歳)浄土真宗の中興の祖として崇められる。

  青蓮院門跡

・天台宗の三門跡寺院(三千院、妙法院)で,江戸期に一時,後桜町上皇の仮御所となり粟田御所とも称す。現住職は東伏見宮家の東伏見慈晃門主。所有の青不動は平安中期作で三井寺黄不動、高野山赤不動と共に三不動(国宝)の一つ。現在は新築された将軍塚青龍殿に安置されている。
また、門前の楠の大木は京都市の天然記念物である。
・治承5年(11819歳の親鸞は、青蓮院において慈鎮和尚(後の天台座主慈円)によって得度する。(範宴・はんねん)… <親鸞聖人>
慈円は、幼い松若丸(親鸞)を見て、得度は明日にもう一度落ち着いてからと諭したところ、松若丸(親鸞)は「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」と詠んだという。


  永観堂

浄土宗西山禅林寺派の総本山。正式には聖衆来迎山無量寿院禅林寺。本尊は(見返り)阿弥陀如来
貞観5年(863)真紹僧都(空海の高弟)より真言密教の道場として創建。(元は藤原関雄の別荘)
以後平安後期まで、約220年間、真言密教の時代が続く。
承暦年間(10771081)に永観(ようかん)律師が本尊を大日如来から阿弥陀如来に変更して、浄土念仏の道場とした。永観が念仏行動中にあらわれ見返りの瑞相を示したという。
鎌倉時代に入り、元真言宗の僧であった静遍(じょうへん)僧都が法然上人に帰依し、宗派を「浄土宗」に改宗した。

法然の高弟の証空(西山上人)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したと伝えられている。証空の門弟の浄音の時代に、禅林寺は浄土宗西山派の有力寺院となった。
明治に入り、浄土宗鎮西派と浄土宗西山派が統一その後分裂し、大正期には、さらに、西山光明寺派、西山禅林寺派、西山深草派(誓願寺)に分裂した。

文化財として、国宝は絹本着色山越阿弥陀図、
金銅蓮華文磬(もんけい)、重要文化財としてみかえり阿弥陀、25菩薩来迎図など50数点ある。


  岡崎草庵跡(岡崎別院)

親鸞聖人は比叡山で修業したが、悩み解消されず29歳で下山。この地に庵を結び、吉水の法然上人のもとに通ったといわれる。また、承元の法難に連座して越後国に流され、赦免後関東での布教後、京へ戻り、最初に住んだのも「親鸞屋敷」と呼ばれていたのがこの草庵である。
・八房の梅は、「鏡池」のさらに西側に位置し、聖人が梅干しの種を植えると、後年、八重の花と八房の実が成ったといわれ、岐阜県関ヶ原の聖連寺や新潟県の梅護寺にもこの伝説が残る。
・石の柵で囲まれた鏡池は「姿見の池」とも呼ばれ、聖人が越後流罪にあたり、その姿を映して名残を惜しんだ池とされる。
・江戸時代後期の享和3年(1801)、東本願寺の20代法主の達如上人が、本堂とともに建立した「翠雲亭」と呼ばれている茶室がある。


  金戒光明寺の名前8

紫雲山と号し浄土宗大本山の一つ(知恩院、清浄華院、知恩寺)で、本尊は阿弥陀如来。
法然上人は、比叡山を降りる決心をして黒谷から下山中、大きな石に腰かけているところ、紫雲全山にみなぎり西の空に金色の光が放たれことから、叡山寺領のこの地に念仏道場を起こし、草庵を結んだのが始まりで、浄土宗最初の寺院となった。その後、発展するも、応仁の乱などで幾度も焼失、再建を繰り返す。
現御影堂は、昭和19年の建立で、戦時中でもあり欄干などの装飾に金属類がほとんど使用されていなく、堂内の光線と音響は素晴らしく、昭和期の模範建造物と言われている。
その他の寺院では、豊臣秀頼が建立した阿弥陀堂、寛政10年建立の文殊堂(三重塔…重要文化財)や大方丈、法然上人御廟所などがある。
また構内には、蓮池院という草庵を結び熊谷堂を建てた源氏の武将、熊谷直実(法力房蓮生)が兜を置いた蓮池を別名「兜之池」があり、鎧を掛けたという松も残っていたが、平成15年に元の松は枯れ、現在の松は平成26年に植えられた3代目である。
江戸初期に知恩院とともに、城郭構造として改修され、幕末には京都守護職の本陣として会津藩が使用した。寺の裏山墓地には戊辰戦争などによる会津藩士戦死者たちを葬った会津墓地が、また会津藩の中間(雑用係)として上京した上坂仙吉(会津小鉄)墓地もある。

第160回ウォーク
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