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樫原周辺の史跡を巡る

樫原は南北に通る物集女街道、東西にのびる山陰街道の結節点にあたり、物集女街道は北摂から京都市域に入る幹線道路で、嵐山に通じています。山陰街道は大江山方面から丹波地方にのびる幹線道路です。このような交通の要衝であることから、古くから街道町として栄えました。

   松尾大明神・大宮社

松尾大社の祭神・大山咋神(オオヤマグイノカミ)を祭神とする産土鎮護のお宮さん。年3回、松尾大社より宮司を迎え、五穀豊穣と氏子の御加護を祈願する祭礼が行われる。
平安時代末、松尾山麓(御陵嶺ヶ堂町辺り)にあった谷ヶ堂(最福寺)が平治の乱で焼失した際、堂内の観音像三十三体が分散し、その一体が当地(常楽寺)に安置されたものと伝わる。
明治の廃仏毀釈により、常楽寺の鎮守社(大宮社)だけが存続して当地の産土神となる。昭和9年(1932)の大台風で社殿が大破したが、地元有志と氏子及び近在市民の献金で昭和15年(1940)に新築再興されたが現在の社殿。
大宮社の社務所内に千手観音像・薬師如来像・地蔵像を安置、本堂は無いが往年の常楽寺信仰が守られている。洛西三十三観音霊場の二十二番霊場となっている。


  西河島三宮神社

西京区周辺に複数存在する三宮神社(さんのみやじんじゃ)のひとつ。 祭神は本社に鵜鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、末社・白山神社に白山姫大神(しらやまひめのおおかみ)、岩神大明神社に岩神大明神(いわかみだいみょうじん)を祀る。縁結び、安産、母乳の出、子育て、入学、就職、厄除け、延命、開運などの信仰を集めている。
 創建の詳細、変遷は不明だが、 800年頃(1200年前)、現在の地を神域として祭神・鵜草葺不合尊を祀ったものという。以後、末社とともに地域の産土神になる。昭和43年(1968)、社殿造営、境内の整備が始まり、翌年整備が完了し、社殿が再建された。


  革島春日神社

清和源氏佐竹氏の流れを汲む名家革島氏が、その邸内に代々守り伝えてきた鎮守府跡と伝えられている。神社の由緒によると革島春日神社は古来山城国葛野郡川島荘に祀られた神社で春日大神、伊波比(いわひ)主命、天児屋根(あめのこやね)命,比売神(ひめかみ)を祭神としている。 西京区川島一帯は平安時代末期左大臣藤原頼長の荘園で、保元の乱で頼長が没した後は、七条院(後鳥羽天皇の生母)の所領となり、その後、鎌倉時代に南北に分割され、南部は近衛家の所領となり革島南荘と呼ばれた。近衛家の荘を荘官として代々管理してきたのが革島家で、革島氏は元々源氏の流れを汲む佐竹氏の一族で、近衛家の荘官・地頭となり、この地を領有するようになった。
このため近衛家の祖、藤原氏の氏神としての春日神社を守護神としたと考えられる。鎌倉代以降現代まで土着している歴史的に稀な一族である。革島家に伝わる古文書類1630点は府立総合資料館に寄贈され平成15年(2003)重要文化財に指定されている。
革島氏は三好時代に一時所領を没収され丹波へ逃れた時代もあったが戦国時代信長に仕え安堵された。しかし、本能寺の変で明智光秀に味方したのが災いして没収された。徳川政権では再度領主として格式を取り戻し、この地に居館をかまえた現在遺構は確認されていないが、唯一革島春日神社の守護を革島氏が務めていたことが記されている。ちなみに境内に刻まれている「丸の内五本骨扇に月」は革島氏の家紋である。


  冷聲院

山号は知足山(ちそくさん)。浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。安土・桃山時代に、領主・革島一(かわしまかずのぶ)、秀誉上人を開山として創建した。近代、国定教科書「修身」で紹介された「孝子儀兵衛」と称えられた農民・儀兵衛の墓がある。
 
明治31年(1898)、川島校校長・鈴木岩人は冷聲院境内に草生した儀兵衛の墓を発見した。そして大正12年(1923)に文部省は儀兵衛の逸話を国定教科書に掲載したことから、以後、全国より軍人、各種団体などが墓参に押し寄せた。
昭和2年(1927)、本堂が失火焼失したが、昭和41年(1966)に現在の本堂が再建された。
「孝子儀兵衛」の墓の横には、江戸時代後期の郷士・山口直(やまぐちなおし:1816-1873)の墓がある。山口直は仙洞御所御領の庄家で、西の岡の郷士と呼ばれた幼少より春日潜庵に学び、水戸・鵜飼吉左衛門、小浜・梅田雲浜、京都・頼三樹三郎、長州・吉田松陰、高杉晋作らと交った。安政の大獄(1858-1859)により丹波潜伏、文久3年(1863)、七卿落ちに従う。元治元年(1864)、禁門の変で長州のために尽力した。維新後、長州より里に帰る。すでに妻は亡く、一族離散しており東京に移った。


  札の辻

長州藩士受難の地(三志士殉難地)
元治元年(1864)719日早朝から始まった蛤御門の変では,長州藩は会津,薩摩の両藩を中心とする幕府軍に敗れて,多くの兵士が捕殺された。このとき長州勢に属していた三名の兵士が樫原札の辻まで逃れてきた。そして幕命によってこの地を警備していた小浜藩兵に囲まれて,討たれ殉死した。この三名は,長州藩集義隊 楳本僊之助直政,元下野宇都宮出身の相良頼光,相良新八郎である。相良両人は薩摩藩士と名乗ったとも言われる。
長州藩の集義隊
江戸末期長州藩が他藩に先駆けて編成した近代的軍隊の一隊。高杉晋作が創設。集義隊,八幡隊,遊撃隊など諸隊があった。慶応3年(1867)に諸隊は私兵の性格を持つ騎兵隊に整理されて鋭武隊,整武隊,振武隊,健武隊の4隊に編成された。
泉仁左衛門宅(現ウエストコート コイズミ)

幕末の頃,当地で小泉仁左衛門は長州藩御用達の油商を営んでいた。マンション前の油壷は当時のものと言われている。仁左衛門は,尊王攘夷を論ずる私塾を開き,森田節斎(もりたせっさい)や梅田雲浜などの学者や武士が出入りしていた。
森田節斎(18111868
幕末の文人儒者,志士。大和五条の出身。頼山陽などに学び江戸昌平黌などでも学んだ。備中備後などを流浪し,倉敷では私塾簡塾を開設し,諸国から志士が集まってきた。門下生の天誅組挙兵参加などで幕吏の追及を受け,大和五条,紀伊,淡路と亡命生活を続けた。
梅田雲浜(18151858
幕末の志士。若狭小浜藩士であったが,尊王攘夷論を唱えて藩から追放された。浪人として京都で塾を開き,尊攘派の連絡員として東奔西走して活躍した。安政の大獄で捕らえられ、獄中で病死した。
郷倉
江戸時代に村に設けられた年貢米を収蔵した倉。当時の地名で大岡郷は山陰街道でも有数の物資集積場であった。明治時代にこの郷倉が華頂宮から村に下賜され,村では米麦の集積場として大いに活用された。その後、昭和6年(1931)にこの地が京都市に編入された際に,この郷倉は三宮神社へ寄贈された。現在,地域にあった沢山の郷倉が失われて,この郷倉が残っているだけである。
華頂宮
旧宮家の一つ。明治元年(1868 伏見宮邦家親王第12子博経親王(知恩院門跡)が復飾して創始。大正13(1924)絶。三宮神社と何らかの関係があり,郷倉は三宮神社に寄贈されたらしい。


  樫原陣屋敷(玉村家)

山陰道樫原は早くから宿場町として、丹波・山陰からの物資の集積地としてにぎわった。
徳川3代将軍徳川家光(16041651:将軍在位:16231651)が、参勤交代制をはじめ
この陣屋は山陰道を行く諸大名が宿舎として利用した所である。
最奥の六畳の間は、上段の間になり、違い棚のある書院造り、また上段の横には隠れの間もある。諸大名が出入りした玄関の門は乳門という。(女性の乳房に似た金具が付いている)玄関の天井には筆太に書かれた「高松少将御宿」「松井伯耆の守御宿」等の宿札がびっしり貼られている。大名の宿帳や関札の古文書も残されている。」
この本陣は、「頼まれ本陣」とも言われ、享保4年(1719)に当地の豪族廣田庄左エ門永張が京都所司代の板倉氏の依頼により営業に従事し、安政2年(1855)松尾下山田の豪族で、足利氏直系の玉村新太郎正継が継承し、今日まで5代維持されている。また、京都市内で唯一残っている本陣屋敷であり、平成4年(199241日、京都市指定有形文化財となった。                         「玉村家の駒札」より


  無量院

浄土宗西山派の松寺で、山号は向陽山という。享和3年(1808)、無量院で伏見宮邦家親王の第12王子である華頂宮の十七回忌の御尊牌(ごそんぱい・位牌)の安置が行われた際に、伏見宮家の紋章である「十六八重表菊花紋」の付いた提灯の使用が許された。
西国街道を通過する大名は、この御紋付きの提灯が門にかかげられている時は、駕籠から降りて頭を下げたと言われる。高録の大名は、駕籠から降りずに、頭を下げて通ったと言う。また、医薬門には、「十六八重裏菊花紋」が彫られている。お供の数が多い大名の参勤交代などでは、樫原宿には脇本陣がなかったため、この無量院が脇本陣の役割を果たすこともあった。
薬医門をくぐると、かわら製の西行法師の立像がある。これは無量院の檀信徒のかわら職人が焼いたという逸話がある。
菊花紋章(菊の御紋)
十六八重表菊花紋(十六弁表菊花紋)は、天皇、皇太子、皇太孫とその配偶者のみが使用できる紋章。
十四表菊花紋は、それ以外の皇族が使用できる紋章。
親王などの皇族は、太政官布告をもって制限され、三笠宮家、秩父宮家、久慈宮家などは、小さな図案に「十六八重表菊花」を用いた紋を、また、有栖川宮家や伏見宮家などは十六表菊花や十四菊花を用いた紋を使用している。
日本では、鎌倉時代後鳥羽上皇が菊を愛して「お印」として、菊花紋を用いたことから、それ以降、皇室の紋として使用されるようになった。


  樫原宿駒札

樫原は昔から山陰街道の京都寄りの一番目の宿場であり、現在では三ノ宮神社の旅所になっている。往時は、この周辺に木屋、柴屋、白酒屋、油屋、うなぎ屋、小物問屋、塩屋等の店が並び、昼間でも三味線の音が聞こえる相当に発展した町であった。
旅人は多く、その足は駕籠で、帳場がこの辺にあった。駕籠は、東の札ノ辻(七条七本松辺り)までとか、西の峠(老の坂)までというように、一里(4キロ)位を往復していた。
明治になると、速さの違いから、駕籠人力車に取って変わられた。暫くすると、乗合馬車が登場し、七条ステーションと樫原ステーションを結ぶ乗合馬車が一番の輸送機関とされた。欧米文化の注入は急速で、明治25年(1892)亀岡財界の有力者・田中源太郎氏が、現在の山陰鉄道を開設し、明治初期の文明は一度に消え去り、樫原の宿場町は火の消えたように寂れ、自然と札場もなくなった。
三志士の墓
樫原の旧山陰街道沿いの小高い丘にある村の共同墓地の入口に、「樫原札ノ辻三士殉難志士墓在此丘上」と書かれた石柱がある。
相良頼元、相良新八郎、楳本(うめもと)遷之助の墓石が並び、「元治元年7月19日戦死」と記されている。禁門の変後、幕命で樫原札ノ辻辺りを警備中の小浜藩兵に討たれ、放置されていたのを村人達が葬った。三志士は長州集議隊に属していたとの説があり。相良兄弟は薩摩藩士と名乗ったとも伝えられている。


  三ノ宮神社


この地が樫原(かたぎはら)と呼ばれたのは、この地域に「樫(かし)の木の森」があったことに由来し、この神社は、「樫(かし)」が転じて、「柏原神社」と呼ばれていた時期もあったという。

伝説
神社には、源頼光(みなもとのらいこう)の「酒呑童子(しゅてんどうじ)退治」の伝説が関係していると伝わる。
平安時代の中期に、洛西の大枝山(おおえやま)には、京に入洛する旅人を襲って金品を略奪する鬼がいた。その鬼の首領の名は「酒呑童子」で、多くの人々に恐れられていた。そこで、朝廷は、摂津源氏の武将・源頼光に酒呑童子の討伐を命じた。
頼光は、部下の渡辺綱坂田金時卜部季武(うらべのすえたけ)碓井貞光(うすいさだみつ)「頼光の四天王」と共に討伐に向かった。頼光は、その途中のこの樫原の小さな祠に供えられていた神酒を飲んだところ、酔いつぶれてしまった。そこで、頼光らは、この酒を酒呑童子に飲ませて、酔いつぶれたところを退治したといわれている。この伝説は、丹波(福知山市)の大江山にも伝わるが、洛西の大枝塚原には「鬼の首塚(首塚大明神)」がある。
三神(祭神)
鬼を退治することができた「酒の神」」、その武徳から「武勇の神」、場所の大枝山から「山の神」の三神(素盞嗚大神・大山咋(おおやまくい)大神・酒解(さかとけ)大神)を祭神として祀り、その神徳を称えて、三ノ宮神社が創建されたと伝わる
本殿と拝殿
本殿は、昭和49年(1974)の第60回伊勢神宮の式年遷宮で、神宮から下賜された。
また。拝殿は、昭和51年(1976)に造営された。拝殿の天井には「大江山の鬼退治」と「禁門の変の殉難の志士」「八岐大蛇を退治する素戔嗚尊」の3面の絵が描かれている。(だるま商店の作品)
三ノ宮天満宮
元々は、千有余年前にこの地を神域として、祭神・菅原道真を勧請した神社とされ、三ノ宮神社の境内社で産土神、文教の祖神として、地域の崇敬が厚いことから、昭和47(1972)に「三ノ宮天満宮」として創建された。


  樫原廃寺跡

京都市の西部に位置しているここ「樫原」地域は、「太秦」などと同じように渡来人である「秦氏」の勢力圏に位置していた。従って、この樫原廃寺は、山背地方における渡来系氏族であった秦氏によって、7世紀の中頃に建立されたものであろうと考えられている。
従来よりこの近辺から寺院のものと思われる瓦などが多く出土する事から、ここに何らかの建物があったのであろうと推測されていたが
昭和42年(1967)、市営住宅の建設に伴い建物跡が発見され本格的な発掘調査が実施された。この時、花崗岩礎石が見つかり八角塔跡(八角形の瓦積み基壇の塔)の存在が確認された。八角塔を中心に南側には基壇を持つ中門跡が検出され、南面(中門の左右)には回廊、東面・西面には築地が巡っていた跡も確認された。
遺構
の検出状況と現状の地形から、中門・塔・金堂講堂などが一直線上に並ぶ四天王寺と同様の伽藍配置であったと推定されている。
遺存状況が極めて良好で、国内では発見例の極めて少ない八角塔が検出され、建築史上重要な寺院跡として、昭和46年(194631日に史跡に指定された。その際、八角塔の基壇が復元され、周辺一帯が史跡公園として整備保存された。
さらに、平成9年(1997)には、指定地域の北方で民間の宅地開発に伴い発掘調査が実施され、寺域北辺を画する回廊跡と掘立柱建物3棟が検出され、続いて実施された確認調査では塔の北側に建物基壇が検出された。
そして、出土した瓦などを分析する事により「広隆寺」や「北野廃寺」などとの共通点が多く認められる事から、この「樫原廃寺」も、やはり秦氏との深い関連性あったのであろうと考えられている。出土遺物と焼土の混入から、平安時代中期〜後期頃に焼失により廃寺となったのであろうと考えられている。
廃寺となった後の平安時代後期の建築であろうと推測される建物跡が確認され、付近からは輸入陶器である白磁椀などが出土しているが、この建物については当時の荘園関係の遺構であろうと推測されている。



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