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平安京・朱雀大路を歩くーク U

昨春『朱雀大路を歩くT』で「大内裏」から千本通りを五条通りまで歩きました。今回はその続きで、東鴻臚館から羅城門まで歩きます 

1222年前に平安京が建設された当初は、北端には大内裏が、南端には羅城門が正面玄関として設置された。「大内裏」と「羅城門」の間は、約3.5kmあり、道幅は(28丈)84mもある広い朱雀大路が通っていました。
西鴻臚館の駒札が七条千本に設置されていましたが、
JRが新駅を工事中のために見ることが出来ず残念です。実際に発掘されて確認されているのは西鴻臚館跡です。
平安京は長安城の都城制の仕組みを上手に取り入れて都市づくりの参考にしたと言われています。
その計画とは@南北を軸とした都市計画。A原則左右対称ということは、朱雀大路という中心軸があったこと。B城壁(羅城)があったこと。
しかし長安城との大きな違いは、城壁は羅城門沿いの南面だけにあったことです。というのは、長安のように絶えず異民族の侵入の心配がなかったためと考えられます。


  東鴻臚館碑(西鴻臚館)

島国の日本は海外との交流は、欠くことのできない重要な政策であった。
外国との交流が盛んになるにつれて、海外からの使節を迎えるための施設が必要になってきました。
このために平安京内に宿泊や饗宴を目的とした施設として鴻臚館が設置された。
鴻臚館は唐風の呼び名で、今風に言えば迎賓館と同様な施設です。運営は玄蕃寮(げんばりょう)が担当しました
この時代に正式に交流があったのは、渤海国で国のつかいである渤海使は、延喜8年(908)まで続いたそうです。施設を維持するための財政的な負担もあり、東鴻臚館は承和6年(839)に廃止されて、それ以後は西鴻臚館だけになった。
東西の鴻臚館は朱雀大路を挟んで左京と右京に対称的に位置していました。
実際に発掘調査が行われたのは、西鴻臚館です。それからの推測で東鴻臚館はこの辺りという碑が立てられています


  東市(西市)

管制の「市」は、平城京や長岡京、平安京においても、東西に2つの市が置かれた。桓武天皇が平安京を造営した時に、朱雀大路を挟んで東西に管制の市を設け、「東西市」と称されて平安時代の400年間続いた。
この東西の両市場には、市司
(いちつかさ)という役所が置かれて、財貨の交易、器物の真偽、度量の軽重、売買価格などを取り締まった。
「東市」は現在の北正面通り、南七條通り、東堀川通り、西大宮通り(現在の西本願寺、興正寺辺り)に囲まれた地域であった。
東西の市は半月交代(前半は東市、後半は西市)で開かれていたとのこと。

「市」は正午に開かれ、日没になると太鼓を三度鳴らして閉める合図としたとのこと。
『延喜式』(
927年完成)には、東市に51店舗、西市には32店舗あるとの記載。
市の内部は分割されていて、小さな店舗が並んでいた。米、塩、魚、油などは両市で売られていた。
それ以外の布、麦、木綿、馬、馬具などは東市で、西市では土器、牛、絹、味噌などが売られて、品物の棲み分けをして、両市の繁栄が保たれていた。
「西市」は現在の北正面通り、南七條通り、東御前通り、西大路通りに囲まれた地域で、その周囲には外町(築地場外市場)として、貴族たちの物資を仕入れる出張所のような建物が存在していたようです。
西市は地勢の悪い低湿地に設置されたこともあり、
10世紀には衰退し始め、東市の役割が大きくなっていった。それに伴い、規制が弱まり市の運営も官営から市人中心に移り変わっていった。

「市姫神社」は平安京の管制市場である東西両市の守護神として勧請された。
795(延暦14)年5月に宗像大神を東市場に勧請して、市姫大明神と号した。


  西八条邸跡

梅小路公園とJR東海道線と山陰線の敷地にあたりで、往時を偲ぶものは何もありません。栄華を誇った平家、そして滅び去った平家、まさに諸行無常の跡です。平清盛の邸宅は六波羅邸とは別に西八条邸がありました。この西八条邸には仁安元年(1166)に移ってきました。方六町(59,500u)という広大な敷地に清盛の邸宅だけでなく、平家一門の幹部クラス50余が住んでいました。ここでは、清盛は蓬(よもぎ)が好きで邸内に植え、清盛の邸は「蓬壺(ほうこ)」とも呼ばれていました。
平家物語で描かれている清盛は、この邸で愛妾の祇王
(ぎおう)・祇女(ぎじょ)・仏御前が世をはかなんで奥嵯峨に尼となる話がでてきます。どうもフイクションめいたエピソードのようですが、後白河院の持仏堂長講堂の過去帳に祇王・祇女・仏御前・祇王の母の四人の名が記されていることから実話だったようです。その他、山槐記(さんかいき・平安時代末期の貴族中山忠親の日記)によると、治承3(1179)1216日条に、清盛が2歳の孫(後の安徳天皇)をみて、頬がゆるみ障子に穴をあけ戯れ感涙に咽んだ話は有名です。尚、清盛は摂津福原の居住が多くなり、西八条邸は妻の時子が守っていました。
西八条邸は清盛の死から二日後に放火焼亡するも再建されましたが、二年後、平家が都落ちのとき自らの手で火をかけ焼き払われてしまいました。これは寿永27(1183)のことでした


  綜芸種智院跡

天長5年(829123日)、空海が庶民教育や各種学芸の総合的教育を目的として、藤原三守の左京九条の邸宅を譲り受け設置した私立学校といわれている。綜芸とは、各種の学芸を綜合するという意味です。
この時代、原則的には中央の教育機関の大学は主に貴族や地方の郡司の子弟を対象とする教育機関で身分制限があった。運用面において庶民にも全く開放されていなかったわけではなかったが、極めて狭き門でした。

大学・国学では主に儒教を専門に教育しており、仏教・道教などは扱っていなかった。寺院では仏教を専門に教育しており、儒教などの世俗の学問は基本的に扱っていなかった。

空海は、こうした現状を打破しようと、天長5年に全学生・教員への給食制を完備した身分貧富に関わりなく学ぶことのできる教育施設を造りました。


  六孫王神社




清和源氏の祖と仰がれている六孫王経基(貞純親の王子)を祭神としている。
基経は清和天皇の第六皇子である貞純親王であったことから六孫王と称しました。
経基の邸宅「八条亭」の跡地と伝えられています。
嫡男義仲(多田源氏)が応和3年(963)に、ここに葬り社殿を造営したと言われている。本堂の後ろに新廟があり、石の基壇だけの墓があります。
また、基経は天慶・祥平の乱で藤原純友を鎮定したそうです。
   六尊王誕生水  弁天堂内にあり、義仲の誕生水とも言われている。
   宝永祭  毎年1011日に行われる祭礼。宝永年間に再興された。この祭りには青龍、白虎、玄武、朱雀の4鬼が出るので珍しいと言われている。
★ 児の水  井戸の傍に不動明王を祀り、古来眼病に霊験ありと言われている。


  東寺

桓武天皇が平安京造営に際し,国家鎮護のため、羅城門を挟み朱雀大路の東に建立された官寺で,大路の東(左京)にあったから東寺といい、左大寺ともいう。
延暦16年(797)頃から造営が始まり、弘仁6年(815)僧侶を別当とずる造寺所が設けられた。弘法大師は天長2年(825)教王護国寺と称し真言密教の根本道場とした。以来、朝野の崇敬あつく、天下に事あるごとに当寺においてご祈祷をおこない、延暦寺とならんで顕蜜二教といわれ、わが国の宗教界に君臨した。初期は金堂のみだったが、講堂が建設され慶長年間(877884)に完成する。
特筆すべきことは、東寺の北総門と北大門間の250mは平安時代のままの道幅であるということです。それが櫛笥小路(櫛笥通り)です。
兜抜毘沙門天立像は、中国・唐時代に作られた名作です。威風堂々たる体躯、頭上には宝冠と輪宝をいただき、足下には小鬼を踏みつけている。もともとは、羅城門の楼上に安置されていたものだと言われている。


  西寺跡

延暦13(794)平安京造営の際、羅城門の西に創建された官寺です。
左右対称に建てられた東寺とほぼ同規模で、東西に約250メートル、南北に約510メートルもある広大なもので、東寺と同様に、五重塔がありました。
“国家・王城鎮護”を目的として創建された東寺と西寺は、ともに弘仁11年(820)年頃までには完成し、西寺にも、東寺と同じように、南から南大門、中門、金堂、講堂、食堂の順に伽藍が並び、金堂や講堂の周りには僧坊が置かれていました。
弘仁14(823)に嵯峨天皇は東寺の管理を空海(弘法大師)に、西寺の管理を守敏(しゅびん)に委ねました。
東寺は真言密教の根本道場として発展するのに対して、西寺は、全国の寺院や僧尼を統括する施設「僧綱所(そうごうしょ)」が置かれ、天皇の国忌を行う官寺として発展しました。
醍醐寺縁起には906年に聖宝が西寺別当となったという記述があり、西寺の整備を行ったとあります。これ以降、他寺出身者が西寺の別当となることが始まりました。
しかし、990年に起きた落雷による火災によって、焼失、ほどなく再建されたと見られます。 1190年には文覚(もんがく)が塔の修理を行い、この建築作業を明恵が見物しています。その後荒廃し、鎌倉時代の1233年に五重塔が焼け、それ以降に廃寺になったと考えられています。
西寺の衰退原因は立地である右京の水はけが悪く、平安後期には住民がいなくなったために環境が悪化したことや、朝廷の支援を受けられなくなったことも指摘されています。
西寺跡は大正10(1921)に国の史跡「西寺跡」(さいじあと)に指定されました。昭和34年からの発掘調査により、金堂・廻廊・僧坊・食堂院・南大門等の遺構が確認され、当初の未指定部分が昭和41年に追加指定されました。
西寺の主な伽藍があった場所は、現在の唐橋児童公園と唐橋小学校の辺りで、昭和34年から行われた発掘調査で判明した講堂跡には「史跡西寺址」の石碑が、そして、金堂跡には疎石が3つ、ひっそりと置かれています。


  羅城門跡

平安京の正門として、朱雀大路の南端に建ち、朱雀門に相対していました。門は、重層、瓦葺、棟の両端に金色の鵠尾を上げ、門前に幅1丈(3m)の溝があり、橋が架かっていました。
楼上には兜跋毘沙門天(現在は東寺に収蔵)が安置されており、高層の門であったようで、風当たりが強く、台風により、弘仁7年(8168月と、天元3年(9807月にも倒壊し、その後は再建されることはありませんでした。基礎石は他で活用されたが、一部は江戸時代に残っていたとも言われています。この地は、元々は葛野郡七條村大字唐橋小字来生と称し、市電が走っていた頃、「羅城門町」の電停付近から礎石の一部らしいと物を発掘したとも言われている。


  矢取地蔵(矢負地蔵)

神泉苑での法力争に敗れた守敏が、空海の名声を妬んで、主敏が空海の背に向けて矢を放ったところ、地蔵さんが現れて、空海に当たらずに地蔵さんの背に当たったと言われています。
また、矢負地蔵とも呼ばれているのは、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ石造座像で、背に傷があることが分かったからです。
これらの伝説は、守敏が悪者にされて、西寺が早くに衰退したことにも起因していると伝えられています。



京都駅西側付近の地図を添付しました。

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