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地図

五条通から高瀬川を下る
(高瀬川の変遷と崇仁の町を歩く)

高瀬川は、方広寺大仏殿建立の用材を運ぶため開削され、その後、荷揚げの場所、遊興の場として賑わう一方で、鴨川の六条河原には刑場としての歴史があり、それにかかわる人々の居住する場所でもあった関係で、不当な身分差別との戦いの場でもあった。この間高瀬川の流路は必要に応じ何度も付け替えられた。そして時を経て今から5年後、当地に京都芸術大学が移転してくる。

  河原院(かわらのいん)跡

この付近に、嵯峨天皇皇子で源氏物語の主人公 光源氏のモデルのひとりとされる左大臣源融(みなもととおる 822895)の別荘 河原院があった。東西は現在地から萬里小路(現柳馬場通)まで、南北は六条坊門小路(現五条通)から七条坊門小路(現正面通)までが敷地の、平安京屈指の大邸宅であった。
邸内に陸奥塩竈の風景を写した庭園を造り、難波の浦から運ばせた海水で塩を焼く煙を見て楽しんだという(河原町五条の西に、塩竈町、本塩竈町の地名が残る)。この榎の大樹は邸内にあった森の名残とも言われる。源氏物語でも、光源氏の邸宅
六条院として栄華を謳歌する舞台となっている。
融の没後、子の湛が宇多上皇に献上、その仙洞御所(東六条院)となり、上皇没後天台宗の寺に改められた。しかし水難の地であったため、創建者仁康は上京に寺を興し、河原院は廃絶した。



  旧五条楽園

江戸時代中期、河原の畑地を開墾して煮物を売る茶屋を開いたことが遊廓の始まりと言われ、五条橋下(五条新地)、六条新地、七条新地という隣接する複数の遊廓がそれぞれ繁栄した。大正時代に合併し、長らく七条新地の名で親しまれた。戦後はいわゆる赤線に移行したが、昭和33年(1958)売春防止法施行後、芸妓一本の花街として五条楽園と名を替え、営業を続けた。一見さんでもお茶屋へあげてくれること、芸はギター・アコーディオン・歌謡曲などを仕込んでいることなどが特徴であった。お茶屋84軒・置屋16軒・芸妓100人程度という。
最近の訪日外国人の増加により、外国人向けのゲストハウスが増えている。



  開化堂




明治8年創業の日本で一番古い手作り茶筒の老舗。ロンドン・パリなど世界10か国でも販売する、日本を代表する伝統工芸の老舗。テレビでもよく取材。銅製・ブリキ製・真鍮性の3種類。1000015000程度。
また、近くには看板の銅筒を見ながらまったりできる『開化堂カフェー』もある。







  菊浜(船廻し場跡・旧六条村跡)

高瀬舟は、水深の浅い川でも船底の平らな船で荷を積んで乗り切れるよう、高背、即ち船べりが高く造られていた。このような船を56隻一度に繋いで、145人の船頭たちが両岸の普通の道より一段低く作られた綱場を、ホーイホーイと掛け声を掛けながら、背に掛けた綱で引いて登ってきた。この辺りに架かる橋は、人が橋の下を綱を引いて通れるよう、高く作られていた(高橋)ため、人は渡れても車が渡るのは難しい坂や階段となっていた 当時この辺り(鴨川西岸、五条〜七条)は菊浜と呼ばれ、川幅は9m余りあり、岸は砂場のようになっていて船廻し場となっていた。また、ひと・まち交流館の東南角には回漕店があり、ここから五条通にかけての船繋ぎ場には、いつも何艘かの高瀬舟が繋がれていたと言われる。高瀬川の舟運は、明治28年の京都電気鉄道(京電)の開通によって衰退、さらに明治43年京阪電鉄が五条まで開通すると全く利用されなくなり、大正9年廃止。
江戸時代、この辺りやや東に、六条村があった。しかし、
1713年六条村は、七条南の柳原庄に移転した。


  元和キリシタン殉教の石碑(六条河原刑場跡)

元和6年(1620)徳川秀忠は牢内に切支丹がいることを聞き、板倉勝重に命じて六条河原で火あぶりの刑を執行させた。幼児を含む男女52名が、9台の大八車で市中引き回しの上27本の十字架に縛られて、夕方執行された。秀忠が上洛中だったので、多くの大名・家臣が集められ、また大群衆が見物した。刑場を設営し、薪を集め点火したのは、六条村の河原者と呼ばれる人たちと思われる。
そもそも、古代から近世の初めまで、六条河原(五条大橋〜正面橋の間)は死刑執行の地であった。政治犯が多く処刑されている。保元の乱の源為義・平忠正、平治の乱の源義平(義朝の庶子)、治承・寿永の乱(源平合戦)の藤原忠清、本能寺の変の斎藤利三、関ヶ原の戦いの石田三成・小西行長・安国寺恵瓊、大坂の陣の長宗我部盛親・豊臣国松らがここで処刑された。処刑後彼らの首はすべて三条大橋のたもとに晒された。


  山内任天堂旧本社

任天堂の創業時代の本社である。明治22年(1889)山内房次郎が下京区正面通鍵屋町(ここ)で任天堂骨牌(こっぱい 山内房次郎商店)を創業し、花札の製造を始める。明治35年日本初のトランプ製造を始める。その後、昭和53年ファミリーコンピュータを発売。同60年ファミコン用ソフト スーパーマリオブラザースを発売。その後も数多くのゲーム機やソフトがヒットを続け、ピーク時(平成21年)の売上高18386億円。しかし同28年の売上高は4890億円。
個人商店である山内房次郎商店は、昭和22年東山区今熊野に株式会社丸福を設立し、何度かの社名変更と住所変更を経て今日(任天堂梶B本社南区上鳥羽)に至るが、当地には少なくとも昭和25年頃までは本部の機能があったと考えられる。現在は、任天堂正面営業所。
なお、任天堂の社名の由来は、「運を天に任せる」。しかしただ「天に任せる」のではなく、「やるべきことを全力でやり遂げたうえで運を天に任せる」のだそうです。その他「任侠の任」「天狗の天」という説もある。


  角倉会所跡

七条通を渡ってすぐの高瀬川沿い川向うの空き地に、高瀬舟の角倉会所と六条村の会所があった。また橋の南には船回しがあった。角倉会所と六条村会所は高瀬川の管理や罪人の管理をするところであり、森鴎外「高瀬舟」に登場する牢屋敷は、ここにあったとされる。鴎外の小説の冒頭には「徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることが許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであった。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心で、この同心は罪人の親類の中で、主だった一人を、大阪まで同船させることを許す慣例であった。」とある。
小説では、知恩院の桜が散る春の夕暮時、同心羽田庄兵衛が、喜助という罪人を乗せて伏見に向け下って行くのだが、同船する親類のない喜助の何故か晴れやかで楽しそうな顔が気になり、身の上話を聞くという筋である。
ここは当時の京都の町のはずれであり、物流中心の高瀬川の中で、創作ではあるが、こういうドラマがあったと考えることも一興である。


  米騒動跡

大正7年(1918)ここに東七条派出所があり、京都市の米騒動がここから始まった。810日一人の主婦が、3月に一度支給された施し米券はどうなっているかと尋ね、巡査が主婦に住所氏名を聞いたところ、通り合わせた住民が我も我もと住所氏名を告げ、ついには400人という群衆になった。施し米券のないことを知った群衆は、前日の新聞報道で富山の米騒動を知っており、誰言うこともなく米屋を叩き潰せと口々に叫び、米屋を襲った。これがその後京都府下、さらに全国に波及した米騒動の始まりとされる。
米屋、倉庫、派出所などが襲撃を受けた。出町柳付近の長徳寺では第16師団が出動する事態となった。この後、全国的な騒ぎの中、寺内正毅内閣は退陣に追い込まれることとなる。
経済的な背景として、好景気や都市住民の増加によって米の需要が増えていた所に、政府のシベリア出兵の宣言で物価高騰の思惑から売り惜しみが増えていたという状況がある。小売価格は年初に比べ11550銭になっていた。また、値下げ要求・供給要求のほか、米の生産県では他県への移出停止要求などもあった。
市は、外米の廉売や救済資金の募集を始めたものの騒動はすぐには収まらず、崇仁地区では、組織的な動きがあった(京都の事件が必ずしも最初の事件でないのに注目されるのは、これが理由か)ためか、東七条町44名・東九条町11名が起訴される事態となった。当局は、指導者らしき者、激しく闘う者の着物に墨で印をつけ、翌日墨のついた着物、洗濯した着物を着た人を軒並み検挙した、と言い伝えられている。このような当局の対応への反感が、数年後の全国水平社の創立という形となって現れる。


  柳原銀行記念資料館

柳原銀行記念資料館は、河原町通塩小路南西角にあった旧柳原銀行の建物を、国道24号線拡幅に伴い移築し、平成9年開館。
柳原銀行は、明治32年(1899)柳原町(崇仁地域)の明石民蔵町長ら地元有志によって設立された。被差別地域の住民によって設立された日本で唯一の銀行であり、当時差別のために資金を得られなかった町内の皮革業者等に融資を行い、産業の育成・振興に大きく貢献したほか、その利子を地元小学校の運営資金や道路建設資金に充てるなど、自力で差別を撤廃していく模範とされた。大正期には山城銀行と改称し、事業を拡大したが、金融恐慌などの影響を受けて、昭和2年(1927)倒産。
建物は明治40年(1907)の竣工。京都に現存する銀行建築物の中では、旧日本銀行京都支店(現京都文化博物館)に次いで2番目に古い。外観は桟瓦葺寄棟造。建物の角を切って切妻造とし、1階に三角破風飾りを置いて内部を玄関とした構造は、明治期の銀行建築の特徴を表わしている。平成6年京都市の登録有形文化財に登録された。

※この付近一帯に『京都市立芸術大学移転整備計画』があり、平成32年度着工、平成35年度供用開始予定。教育研究施設に加えて、発信する施設(音楽ホール・ギャラリー・スタジオ等)や、カフェ等の市民・観光客が集い交流する関連施設も整備予定。京都芸大の移転とともに、京都市立銅陀美術工芸高校も移転整備を計画中です。


  崇仁船鉾・崇仁曳山

この地域での船鉾・曳山の巡行は、天保10年(1839)銭座跡村支配人源左衛門らが、妙法院、新日吉神宮、大仏柳原庄の庄屋(今村忠右衛門)らに、「新日吉神宮の祭に、祭の日だけ村内限りで巡行し、決してよそへ持ち出ししないので参加を認めて欲しい」と願い出たのが始まり。最盛期には船鉾2基、だんじり4基が巡行された。
しかし戦後の住宅地区改良事業による人口減少や鉾の老朽化による維持費の高騰などを理由に、昭和30年代を最後に祭への参加が中断、船鉾なども放置されていた。その後、崇仁地区に残る歴史的文化遺産の保存に対する機運が高まり、平成5年(1993)崇仁御囃子会が結成され、平成10年船鉾1基とだんじり(十二燈?)1基が復元された。現在、崇仁まちづくり推進委員会の手により、毎年5月の第2日曜日に、御囃子の音色とともに崇仁地区内を練り歩く賑やかな祭りとなっている。この碇(いかり)組船鉾のほか、西浜組船鉾と巽組だんじりが、柳原銀行記念資料館の道路向かいの保管庫に保管されている。なお、船鉾の飾り金具・装飾品は、平成18年京都市有形民俗文化財に登録された。





  宮本旅館跡(七条通東洞院)

大正11年(192233日岡崎公会堂で、全国水平社創立大会が開かれ、綱領・宣言・則・決議(別紙)が採択されたが、その内容を協議したのが、京都駅前の宮本旅館である。
協議には、崇仁北部青年団長の桜田規矩三も創立メンバーの一人として加わった。また、綱領・宣言は全国水平社が発行主体であるが、則は、京都本部が仮本部として記されている。
宣言は、主として西光万吉によって起草され、過去の同情的な融和運動を拒否して部落民自らが誇りを持ち、自主的集団的解放運動に立ち上がることを述べ、被差別者による世界初の人権宣言として高く評価されている。
平成26年綱領・宣言・則・決議を含む十数点がユネスコ世界記憶遺産として申請された。ユネスコでは2年に1回審議。各国からは2件まで申請できる。水平社宣言は、平成27年・29年の国内委員会で落選。平成29年国内委員会に申請があったものは16件。
宮本旅館は、その後いよや旅館に改称したが、その後廃業し記録に残るのみであり、現在跡地は不動産関連のビルとなっています。廃業の時期・理由は不明。当地は東本願寺の門前であり、参拝者の動向の変化が理由ではないかと考えられる。



高瀬川の流路A (河原院跡の西)
高瀬川は、
1614年開通当時は、ここから西南方向に流れていたが、1643年枳殻邸の造営に合わせ、御土居とともに東へ付け替えられ、現在の流路となった。
高瀬川の流路B (角倉会所のやや下流)
高瀬川の流路は、御土居とともに東へ付け替えられた1643年以降、ここから南西方向に流れていたが、平成14年(2002)国道24号線拡幅のため南へ近道する流路に切り替えられた。
高瀬川の流路C (柳原銀行資料館前)
高瀬川は、
150mほど西を南方向に流れていたが、東海道線の東山トンネル利用ルートの開通(大正10年)に合わせ、線路下の高さを確保し高瀬舟が通行しやすくするため、大正3年(1914)に東へ大きく迂回する流路に変更された。しかし平成14年国道24号線拡幅のための流路変更(南に近道)により、この付近では今は流れていない。
高瀬川の流路D (塩小路河原町のやや西)
《北方向》高瀬川は、@江戸時代初期、現在の枳殻邸の敷地内を流れていたが、A
1643年その流路は御土居とともに東に付け替えられた。その後現七条河原町付近に舟入が設けられ、付け替え前の高瀬川の七条以南部分が舟入への水路となった。舟入は、長さ271m、幅平均6.6mで、御土居の内側に造られたので内浜と呼ばれた。市内最南端の荷揚場となり、明治の末まで存続した(1912年埋立)。目の前の道路は、内浜への水路の痕跡である。
《南方向》@A最初屈曲しながら南へ流れていたが、B東海道線の稲荷駅経由ルートの開通(明治
13年)やC東山トンネル利用ルートの開通(大正10年)に合わせ、線路下の高さを確保し高瀬舟が通行しやすくするため、それぞれ明治11年(1878)と大正3年(1914)に、東へ迂回する流路に変更された。その後D平成14年国道24号線拡幅のための流路変更(南へ近道)により、この付近では今は流れておらず、その痕跡が残る。@A南行していた旧流路は、完全に埋められた。


この度の史跡ウォークですが、天候不順もありまして、参加者68人、会員25人、合計93人の出席でございましたが事故もなく無事に終了できましたことを会員一同感謝申し上げます。


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