>
2018.3.18 ウォークの地図

明治維新への道・御所周辺を歩く

明治維新150年を迎え、御所周辺は幕末維新の舞台中心地域であり、各藩の京屋敷もで、当時のエピソードを織り交ぜながら幕末維新の風を感じていただきました。

  小松帯刀寓居跡(近衛家別邸・お花畑)

倒幕、維新の立役者、薩摩藩家老、小松 清廉(きよかど)の屋敷跡。
1858年 島津斉彬没後、製鉄、造船、貨幣造り
1861年 軍艦製作、海軍勉強、破裂弾、水雷、砲術学、海援隊の設立 龍馬の妻 お龍の世話、五代友厚をイギリスに留学させるなどめざましい活躍をした。
案内板によると、徳川時代には、「是より
洛中、荷馬口付きのもの乗るべからず」と刻んだ標石が建てられており、京都(洛中)の北端でした。標石は室町小学校などに移築されています。
この辺りは古くから「室町頭」と呼ばれていました。
薩摩島津家が使用していたのは親戚筋にあたる近衛家別邸で「お花畑お屋敷」の別名を持ちます。鴨川からのご用水を禁裏より先に引き込み泉水、流水として活かしていました。慶応3年(18678/15716日には西郷、大久保らが五山の送り火を見ています。
慶応2年
1月21日(186637日)の薩長同盟に先立ち長州から上洛した木戸孝允(桂小五郎)ら一行が宿泊しています。その後、坂本龍馬も合流し小松、西郷らが木戸と会見。勅許を得た徳川家による長州征伐の対応について合意がなりました。場所を示す資料は未確認ですが、二本松屋敷とともに有力です。一説には、二本松屋敷は御所に近く、警備が厳しく小松邸が最有力だとも言われています。


  上善寺 千松山遍照院

貞観5年(863〉円仁が天台宗教の道場として創建。千本今出川にあったが、秀吉の京都改造によりこの地に移転、浄土宗に改められる。六地蔵巡りの一つ、鞍馬口地蔵がある。
禁門の変で亡くなった長州藩の首塚と碑があります。堺町御門の警備隊長、越前藩桑山十蔵が主君 松平春嶽の許しを得この地に建立。 入江九一、田村育蔵、小橋友之輔、緒方弥左衛門、奈須俊平、無名一人、原道太、半田門吉の八名が碑に名を刻んでいます。

※ 彦根藩邸跡 上善寺の前の通り上御霊神社の東一帯の広大な跡地です。彦根13代井伊直中の14男 井伊直弼京都藩邸。勅許を得ないまま日米修好条約に調印、安政の大獄、桜田門外の変、維新へと歯車が急回転していった時の人です。


  薩摩藩士の墓

幕末の蛤御門の変や鳥羽・伏見の戦いの犠牲になった72人の慰霊碑と戦死者の墓があります。
蛤御門では幕府軍の薩摩、会津、桑名と長州藩が
衝突した。長州の大敗であった。「甲子役」があった年が「甲子(きのえね)」だったことからこのように呼ばれています。。また戊辰戦争は(鳥羽伏見の戦いから翌年の函館戦争)新政府軍と旧幕府軍の戦いを意味しています。
大正4年10月に合葬 墓の下には警護隊長 野村勘兵衛などの名が書かれています。        


  長州藩士の墓

相国寺内にあり、禁門の変の後、薩摩藩士が長州藩20名あまりの首をこの地に葬り首塚を建てました。
明治
39年(1906)山口県人の桂半助が偶然にこの塔棟を見つけ長州藩主の子孫に報告。翌年お墓が建てられました。
 参考文献の石碑の文字を見比べるとほぼ同じものであることが解ります。湯川庄蔵、有川常槌の2名のみが判明。


  養源院

室町時代に寺内常徳院内に曇仲の隠居所として養源軒を建てる。曇仲が亡くなり長生軒に(東山百万遍)に移され、珍蔵軒、養源院と名を変えた。相国寺79世、横川が曇仲33回忌に相国寺内に移した。
1868年鳥羽・伏見の戦いの薩摩藩の負傷者は院内の野戦病院、薩摩病院に収容された。治療にあたったのはイギリス人外科医、ウィリアム・ウィリスと通訳アーネスト・サトウであった。ウィリアムはアイルランド人で江戸駐在英国公使館の補助官兼事務官として着任。大阪副領事代理を兼任。
のちに1870年イギリス外務省を辞し、西郷らの招きで鹿児島医学校長、付属病院に就任した。鹿児島で江夏八重と結婚。


  藤井右門宅跡

尊王論者、藤井 大和守直明(右門)の居宅跡。播磨赤穂藩 遺臣の子。
竹内式部と関わり皇学所教授で、公家らに尊皇論を説いた。幕府から弾圧さ
れ江戸に逃げる。山縣大弍(やまがた だいに)のもと(江戸八丁堀=蜻早jに身を寄せ、兵学、尊皇、を講議。1766年、上野甘楽郡、(現在の群馬県)小幡藩の内紛に巻き込まれ藤井,山縣とも処刑された。100年後、尊王論は多くの志士の心をとらえ明治維新の思想の主流となり、この屋敷は志士たちの会議や連絡場所として活用されました。

小幡藩は信長の子孫嫡孫の三法師、緒田秀信が絶えた後、次男の信雄が嫡流として大名家として残る。小藩ながら国主格を与えられていた。家老と山縣が親交があり、のち過激な尊皇論、幕政批判をし謀反の疑いで山縣大弐事件の関わりを咎められ特別待遇を剥奪され、出羽へ転封されました。




  薩摩藩屋敷跡

薩摩藩京屋敷は転々とし、1863年、島津久光が上洛後に相国寺の二本松に屋敷を構えた。また、等持院にもかまえている。明治になって錦小路邸(今の大丸)に移った。
薩長同盟の密約は、始め二本松で同盟の相談をしていたが、
見張りが厳しくなり小松邸に移り締結したと言われています。
維新後、会津藩士 山本覚馬の所有地であったがキリスト信仰に目覚
めた覚馬は新島譲の学校建設に理解を示し、格安でこの地を譲りました。
5805坪(19000u)あり77万石の大名にふさわしい広大な土地です。


  二条家邸跡

東南の白壁5mだけが現存しています。同志社の純正館にはキャンバスから発掘された出土品の一部が展示されています。
二条家は藤原氏北家九条流に属し、鎌倉公家、藤原良美が家祖。近衛、
九条、二条、一条、鷹司が五摂家と呼ばれます。1661年から明治まで鴨川西岸(府立医大)に別邸もあった。守護職 松平容保とは信頼関係があり、また会津 松平家とは「両敬の約」と呼ばれる契りを交わした仲である元治元年(18643月家茂が訪れた際、容保は病のため不在であったが一橋慶喜、松平直克など政界の首脳部が一同に会した。
歴史上最後の関白、二条斎敬(なりゆき)は公武合体の立役者です。


  祐井

明治天皇生誕の地。当時の慣習として母、中山忠能(ただやす)の娘、中山慶子(よしこ)の実家で養育されていた。
明治天皇の外祖父、公家の中山忠能(ただやす)は権典侍
として孝明天皇にお仕えしていた。敷地の中で産屋(21坪)を建てたものが現在ものこっている。
この場所で4年間養育され御所に入りました。井戸は一度枯れたが、あ
らたに掘り直しされ祐井と名付けられたと伝えられます。
井戸の横の石碑は明治中頃、京都府知事 北垣国道が井戸の由来につい
て書いたものです。
蛤御門の変のおり
,天皇はあまりの驚きに気を失われたという話があります。


  清水谷家の椋

幹の周囲約4m、樹齢300年。清水谷家という公家の屋敷があったためこの名が付いてます。
1854(元治元年)に蛤御門の変事の際、長州藩士 来島又兵衛がこの木のしたで討ち死にしたと言われています。
来島の急進論に桂小五郎、高杉晋作らの危険と反対したが、聞き
入れず脱藩しても上京すると言い出し、「昔日の英気を忘れたか」と威嚇したというエピソードがあります。
蛤御門の変の折も久坂、宍戸、福原の幹部は躊躇していたが勇猛果敢
な来島に逆に油を注いだ結果になった。乾御門を守っていた西郷隆盛率いる薩摩軍に胸を撃ち抜かれて落馬し、付き添っていた甥に介錯を命じ自害した。

※来島又兵衛 長州藩士。長門国の下級武士、喜多村家の次男に生まれる。血気盛ん20歳で来島家の婿養子となる。筑後柳川藩の大石進に剣術,槍術を学ぶ。馬術の達人で名を馳せた。藩主の側役に取り立てられ、籠奉行を務める。武芸だけでなく算術にも優れ吉田松陰から「胆力人に過ぎ又、精算密思あり」と評される。安政後は江戸方御用所役などの財務会計に携わる役職を歴任。


  蛤御門

焼けて口開く蛤に例えて蛤御門と呼ばれている。普段はずっと閉じられていた門だった。正式には新在家御門なのですが今では、それはどこ?と言われそうです。
政変の緊張ます御所の門は各諸藩が割り振られ警備をしていました。
文久3年
1863818日の政変により京都を追われた長州藩では守護職松平容保の排除を目指し挙兵。1864年公武合体の連携が破れ、池田屋事件により木戸孝允、高杉晋作らの慎重論は来島らの進発論を抑えられなくなった。朝廷は攘夷を主張し続けて鎖港方針が合意されたが幕府内の対立もあり実行されなかった。
各地の尊王攘夷派の間で長州藩の復帰を望む声が高まった。福原元
?(もとたけ)、国司親相(くにし ちかすけ)、益田右衛門介の三家老の積極派は挙兵を決意。益田、久坂らは山崎天王山の宝山に国司、来島らは嵯峨天龍寺、福原は伏見長州屋敷に陣を構えた。久坂は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を奉じた。長州藩に同情した藩士や公家もいたが薩摩、土佐、久留米の各藩が協議し連署を朝廷に建白した。18日夜に有栖川宮親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と松平容保の追放を訴えた。禁裏総御守役 一橋慶喜は、長州藩の退去を呼びかけるも、一貫して会津藩擁護の姿勢を取る孝明天皇に、長州征伐を命じられやむなく強硬姿勢を示した。久坂は朝廷の命令に従おうとするが来島、真木らは聞き入れず、719日伏見と蛤御門、堺町御門で戦闘にはいり、会津、桑名、薩摩藩らに大敗する。この戦いで京都は御所の南、三万件が焼失する「どんどん焼け」と呼ばれる大火になった。朝廷派は約6万、一方長州派は本隊が到着しておらず約2000余り。冷静に考えると初めから無謀な暴挙であった。また、倒したい本命の松平容保はこの時留守であった。慶喜は事態を穏便に処理する意向を示したが全く受け入れられず、幕府は長州藩、三家老・七参謀は切腹、惨殺に処した。


Copyright (C) 2000 KYOTO SHISEKIGUIDE VOLUNTEER KYOKAI and KAMO SQUARE. All RightsReserved