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幕末・維新の東山を行く

京都を代表する観光地ですが、今回は幕末・維新の時代に特化して歩きました。


 今年は大政奉還から150年の節目。江戸幕府が長く続く間に、欧州では産業革命で工業を始め著しく発達し、アメリカも建国を迎えます。また、蒸気機関の発明により蒸気船の時代を迎え、欧米諸外国はアジアに進出し、我が国においても外国船が来航し、平穏な時代から激動の世となります。
1842年(天保13)アヘン戦争で清国は屈服 南京条約を締結し香港を割譲
1853年(嘉永6) ペリー黒船来航
1858年(安政5) 安政の大獄 近藤正慎自決 月照入水 翌年 梅田雲浜獄死
1860年(安政7) 桜田門外の変以降京都が政争の場
1862年(文久2) 島田左近暗殺天誅というテロ頻発 新撰組の登場
1863年(文久3) 翠紅館で各藩の志士集まり会合 8.18の政変→七卿落ち
1864年(元治元) 池田屋事件→禁門の変→長州征伐
1866年(慶応2) 薩長同盟→第二次長州征伐→家茂死去→孝明天皇崩御 
1867年(慶応3) 御陵衛士結成→薩土密約→10月大政奉還→11月坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺
 →油小路事件→12月王政復古→翌年1月鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)
外国からの脅威に動揺する幕府、国難に攘夷思想の台頭や制圧、天誅の横行、公武合体運動や倒幕、討幕の密約など、混迷する京都の東山を歩き150年前の時代を偲んでみましょう。


  坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像

坂本龍馬は土佐藩の裕福な商家に生まれ、脱藩した後は勤王の志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど幕末時代に活躍、重要な働きをした。大政奉還の1ヶ月後、潜伏先の近江屋で盟友の中岡慎太郎とともに暗殺された。
中岡慎太郎は土佐藩北川郷の庄屋の長男で、武市半平太(瑞山)のもとで土佐勤皇党に加盟して、志士活動を開始する。脱藩後長州藩を拠点に脱藩浪士、七卿落ちの衛士として活躍、禁門の変、下関戦争に参加し、雄藩連合による武力討伐の必要性を訴え、桂小五郎、西郷吉之助、土方久元や坂本龍馬等を説き伏せ薩長同盟を目指す。翌1867年(慶応3)には脱藩の赦免を得て、薩土密約も斡旋締結する。奇兵隊を参考に陸援隊を組織し、自ら隊長となり、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定め、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。

※ 揮毫は吉田茂ですが、彼は土佐宿毛藩士の竹内綱の五男として東京で生まれる。幼くして吉田の養子となるが、衆議院銀では高知選挙区から出馬しました。

  長楽寺



最澄が天台宗寺院として創建するが、鎌倉期に浄土宗、室町期に時宗となる。
建礼門院が剃髪したことで有名だが、頼山陽夫妻、頼三樹三郎の他、京洛で非業の死を遂げた原市之進など水戸藩士87名の尊攘碑は、徳川斉昭による揮毫の碑がある。

頼山陽 江戸後期の歴史家、思想家、儒学者、文化人で、「日本外史」は尊王攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーになった。
頼三樹三郎 儒者で幕末の志士で頼山陽の三男として京都三本木に誕生したことからの命名。攘夷論を唱え、勤王運動に傾注し、上野寛永寺の石灯籠を破壊、1859年(安政6)江戸で斬首刑

原市之進 徳川慶喜の腹心 慶応27月第2次征長中に将軍家茂死亡8月慶喜徳川宗家当主となるが、15代将軍は12月5日と周囲に懇願されて就任…原の策略もあって一時幕藩体制を立て直すが、
慶喜の行動や時代の変化に幕臣が追い付かず、腹心の原へ妬みが募り幕臣により暗殺された。以後雄藩連合に不協和音が発生、討幕へと向かう…山岡鉄舟は原の暗殺に後悔したとか。


  月真院

高台寺の塔頭で本尊は、千体地蔵菩薩、秀吉の妻北の政所(ねね)の従兄久林玄昌が津和野藩主亀井豊前守の庇護を受けて建立。境内の椿は、織田有楽斉邸宅から移したといわれ、有楽椿という。
1864年(元治元)江戸で新撰組の隊士募集に応じて弟の鈴木三樹三郎らとともに上洛した伊東甲子太郎は、隊の参謀として迎えられるが勤皇派の伊東は公武合体派の近藤勇らと意見が合わず、やがて新撰組から分離脱退、泉涌寺塔頭戒光寺長老の湛然の肝煎で、先に崩御した孝明天皇の御陵衛士を拝命する。(慶応3年3月10日)

6月8日、伊東たちの15名は新選組から分離、月真院で禁裏御陵衛士の表札を掲げて、高台寺党と呼ばれた。11月18日夜、新撰組隊長近藤勇らと近藤の妾宅で懇談、痛飲した伊東は、帰宅途上油小路通木津屋橋付近で新撰組により暗殺された。遺体引き取りに駆け付けた高台寺党の
藤堂平助、服部武雄、毛内有之助3名が惨殺、4名は辛うじて薩摩藩亭へ避難したが、屯所は壊滅した。…油小路事件は坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺の三日後の事件でした。
写真は伊藤甲子太郎絶命の石塔


  青龍寺

舌切茶屋ゆかりの近藤正慎の墓(圓與観山向禅定門)
丹波桑田郡篠村山本の出身、僧籍に入り忍向上人(月照)と共に修行に励み、成就院末寺の金蔵院の住職と、成就院の役僧を兼任していたが、ある問題から責任を取り僧籍を離れ還俗したものの、彼の誠実な人柄、功績を惜しんだ月照は、成就院の寺侍として引き立てると共に深く信頼をした。
1858(安政5)、日米通商条約無断調印に関する幕府と朝廷の紛争時、朝廷関係者と有志らとの斡旋連絡に奔走した月照は、幕府の追及を避けて、西郷隆盛と共に薩摩へ逃避するが、ついに西郷と相擁して錦江湾に入水自殺をする。(西郷のみ助かる)
月照は、下向に際して後事の全てを近藤に託しており、近藤も証拠書類の始末や逮捕された後も自白強要に応ぜず拷問にも耐え、十日あまりの絶食後、自らの舌を噛み切り自害した。遺骸は妻子によって青龍寺に葬られたが、その志に感動した清水寺では、路頭に迷う妻子のために、茶店を出すことを許可する。茶店には田中光顕によって「舌切り茶屋」と命名され、その後もご子孫により営業している。

青龍寺様には、ウォークの企画から練習、本番まで快く境内を開放、ご協力を戴き厚く感謝申し上げます。


  翠紅館跡

西本願寺の別荘であったが、後に鷲尾侍従邸、福羽美静邸、沢野氏別荘として変遷し、最近まで料理旅館「京大和」だったが、現在更地にしてパーク・フャイアットホテルを建設中で見学不能。
文久3年1月27日、長州藩世子毛利定広が臨席する中で、在京各藩(長州、土佐、肥後、対馬、津和野、水戸など)の有志が出席して時勢に関して会合が開かれた。内容は攘夷決行に熱意を示さない幕府に対する具体策で、これが発展して天皇の賀茂行幸、石清水八幡宮への攘夷祈願が行われ、さらに6月17日に、長州の桂小五郎、久留米の真木和泉、土佐の平井収二郎、肥後の轟武兵衛らの多くの有志が再度会合して、天皇の大和・伊勢への行幸により攘夷親征の軍を進めることが決定され、攘夷派公家の斡旋によって勅命が下された。

しかし、このような攘夷派の強硬な手段に孝明天皇は危惧を持たれ、天皇は中川宮を中心に、会津・薩摩両藩の協力を得て、8・18政変によって長州藩及び尊王攘夷派公家の追放が断行された。…七卿の都落ち、この2回の会合を翠紅館会議という。


  京都霊山護国神社

霊山は正しくは霊鷲山(りょうじゅせん)といい、足利義輝が東海道と渋谷越えの交通路を押さえる目的で築城した霊山城の跡とされる。文久のころ、霊山中腹にあった正法寺の境内に勤皇の志士有志が、尊王のために死んだ仲間に対して、祝詩を上げて弔ったことから、次第に志士の墳墓の地となった。
慶応3年11月15日、坂本竜馬、中岡慎太郎両名が遭難したとき、同士がここに集まり二人を埋葬、桂小五郎が墓標に題してから一層志士との繋がりが深まり、明治元年に1853年(嘉永6)以降に志半ばで倒れた幕末維新の志士を祀るために創建された日本最初の官祭招魂社である。明治5年太政官告示によって安政5年以来の殉難者の祭祀が奉られることとなった。各諸藩は招魂社を建てて亡き藩士を祀った。

当初は「霊山官祭招魂社」と称し、維新に功績のあった549柱の祭神であったが、明治41年までの勤皇の祭神数は1356柱となった。昭和4年に斎殿と拝殿を建立し、昭和11年に着工された新社殿と境内拡張工事によって壮麗な社殿が完成された。昭和14年に京都霊山護国神社と改称され、日清、日露、満州、中国、大東亜の各戦役で戦没者を祀り今日に至っている。

霊山歴史館 明治100年記念として松下幸之助ら関西財界の協力を得て「霊山顕彰会」が昭和45年に建立した幕末維新専門の博物館である。


  明保野亭跡

元治元年6月10日、池田屋事変の残党捜査を命じられた会津藩士柴司らは、新選組と共に通報のあった産寧坂の料亭明保野亭へ踏み込み、別段異常はなかったものの、二階で飲食していた一人の武士が逃げ出そうとして、悶着となり逃げ出そうとした相手に、柴が槍で相手の腹を刺し捕らえ、詰問すると土佐藩士麻田時太郎と名乗った。
当時、土佐藩、会津藩は公武合体派として共に協力関係にあり、結果を憂えた藩主松平容保は、土佐藩に謝罪するも解決に至らず、責任を感じた柴は兄の介錯で自刃、土佐藩も士道に悖るとして、麻田を自決させたことでようやく解決する。柴司の墓は、黒谷会津墓地に、麻田の墓は、裏寺町常楽寺にある。

なお、産寧坂頂上付近の石碑よりやや北東にあった。また北側にあった霊鷲山荘は、料亭阪口になっていたが、近年料亭を縮小し青龍苑としてようじや、西利、くろちく、八橋、イノダコーヒーと観光関連の店舗で東山の賑わいスポットとなっている。


  清水寺

・ 西門を上がると左側二つに島田左近寄進の石灯籠
島田左近は、正辰または龍章ともいい、先頃まで関白の要職にあった九条尚忠の家士で、九条尚忠は幕府が条約調印に勅許を求めてきた際に最初に賛意を表した関白であった。安政時代に奉行所の目明しの文吉(猿の文吉とも後日暗殺される)らを使い、強権的な手法で尊王攘夷派を一掃、賄賂で大儲け、町人には高利貸しをして恨まれていたが、大老暗殺以降は政情が激変して身の危険を感じて洛南に隠棲していた。

しかし、1862年(文久2)7月21日、妾宅に上京していたところを襲撃され、木屋町通二条善導寺(一の舟入付近)の壁を越えて逃げるおり、尻を切られて落下、惨殺される。体は高瀬川に、首は四条大橋上流河原に晒された。この暗殺以降京都では天誅事件が始まることとなった。切ったのは薩摩藩田中新兵衛らであった。
顕彰碑
◎左 信海辞世歌…近衛忠煕の書

西の海 あずまのそらと かわれども こころはおなじ 君が代のため
◎中 忍向翁書歌…久邇宮朝彦親王の書

大君の ためにはなにか おしからん 薩摩の迫門(瀬戸)に 実は沈むとも
◎右 西郷隆盛公記念碑…鹿児島で月照17回忌法要時の漢詩を参列した大槻重助に託した。

相約して淵に投ず、後先無し。豈図(あにはか)らんや波上再生の縁。

頭(こうべ)を回らせば十有余年の夢。空しく幽明を隔てて墓前に哭す。                    月照和尚の忌日に賦す。南州
忍向信海上人 兄弟でともに14歳、12歳で成就院に入る。二人は尊皇攘夷に傾倒して公家と関係を持ち、将軍継嗣問題では一橋派に与したため、井伊大老の幕府から危険人物と見なされた。当時の清水寺は檀家もなく門跡大寺院、檀那(だんな)もなく、百三十三石であって財政難。諸院は借金だらけ。塔頭の中には無住職状態が続出する有様で経済的に困窮し、長老たちは勝手に御開帳、灯籠を売る、賽銭をとるなど規律も乱れていた。彼らは改革を図るが長老達の反対に会い頓挫、忍向は境外隠居(春光院)となり安政の大獄で薩摩へ逃げるが藩は島津斉彬から久光へと移り、西郷嫌いの久光から日向送りを言い渡され悲観して入水する。寺では月照の命日11月16日を「落葉忌」として法要を行う。信海も住職を外され、後日安政の大獄により江戸伝馬町牢獄で病死。
近藤正慎(舌切茶屋)
大槻重助(忠僕茶屋)
月照の下男大槻重助は、綾部農家出身で21歳のとき清水成就院の下男となり、住職月照に従い伴や使い走りをしており、月照が西郷と共に薩摩へ落ち延びる際も供として同行した。
西郷、月照が入水の時も平野国臣と共に同船しており、平野は巧みに逃れたが、重助は捕えられ京都へ送還、町奉行所の取り調べで、京都から鹿児島までの旅程は口述するが、月照の活動内容等は拷問をうけるも口をわらず半年後に釈放。月照の墓を守護し供養をおこたらなかった。その後は寺の許可を得て、茶店を営み今日に至る。藤棚は留守中に妻のイサが植えた。30年ほど前に引越ししたときの藤棚のままですが、150前かは判らないとの現ご主人の言。


  安祥院



安祥寺の地蔵尊に安置する「日限さん」と称し、日を限って祈願すれば諸願成就すると言われている。ちなみに当院は朱雀天皇の勅願によって942年(天慶5)乙訓郡に創建された天台宗寺院が始まりと言われている。その後、荒廃と復興を繰り返した後、1725年(享保10)木食養阿(もくじきようあ)上人によりこの地に再興。現在は阿弥陀如来をご本尊とする浄土宗の寺院で京都六阿弥陀(*)の一つ。
梅田雲浜
若狭小浜藩の勤皇攘夷派の志士。安政の大獄で捕えられ、安政6年獄中において江戸で病死した。49歳。

この墓は、梅田雲浜の姪の矢部登美子が先妻・上原信子の墓を探し当て、その場所に雲浜元服のときの前髪を埋葬して墓とした。墓は、浅草海禅寺、小浜の松源寺にもある。


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