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ウォークの地図

幕末維新 激動の京都

−四条大宮から二条城界隈を歩く―

今年は、「大政奉還」からちょうど150年の節目の年にあたります。今回の史跡ウオークは、幕末維新の時代の京都、徳川幕府の中心地であった四条大宮から二条城界隈を巡り、150年前、維新の改革に思いをはせ、維新の風を感じながらぶらぶらと歩きました。


  高槻藩邸京屋敷(譜代)

この京屋敷は江戸初期の1645 (正保2)年頃、幕府からこの地を賜りとある。1686(貞享3)頃の古地図では高槻藩永井家と記されている。
現在は石碑もなく、この辺りは洛中小学校である。二条城周辺は幕府の京都警護の中核であり、そのため譜代大名で固めている。

さて、幕末期の高槻藩の動きである。1867 (慶応3)1228日〜29日に、泉涌寺で行われた、孝明天皇一周忌の小祥忌祭(しょうしょうき)の警備を高松藩と合同で行っている。また、1223日には京都の火元見役を命ぜられるなど、幕府の命令を忠実に守っている。この時期の京都は、10月に大政奉還、続いて129日に王政復古の大号令が発せられ、新政府(明治政府)樹立の宣言のあった、まさに激動のさなかであった。
翌年、鳥羽伏見戦争勃発時の高槻藩の動きである。元々幕府の命により京都洞ケ峠の警衛の任についていたが、明治元年16日、わずか2キロ先で展開した戦闘に対して、警衛の高槻兵は幕府と新政府側のいずれにも加担することなく、その推移を見守っていた。その同じ日、新政府軍は高槻藩にたいし、藩地と城を「王事勤労」のために「堅固に守備」するように命じていた。そして、翌7日、これを受諾したことを伝える上書を提出した。ここにおいて、傍観者然とした態度から朝廷への帰順が確定した一瞬であった。その後の高槻藩は、戊辰の戦線に藩兵が出軍することはなかった。
居城 高槻市 石高 36,000石 開戦時の藩主 永井直諒(なおまさ)


  六角獄舎跡(三条新地牢家敷)

  平安時代に建設されたものであり、たびたび火災にあう。1788(天明8)年の大火で焼失、再建され、1794 (寛政6)年に修復工事が行われた。再建後も規模はほぼ同じである。この場所は六角通りに面していたため「六角獄舎」と呼ばれていた。
<六角獄舎の悲劇>
この悲劇は、蛤御門の変 (禁門の変)のあとの大火のなかで始まった。719日に発した火は(どんどん焼け)20日になっても治まらず、ついには六角獄舎まで迫ろうとしていた。幕府側はこの機会を逃さず入牢していた志士33名を斬首したのである。理由は破獄を企てたというのであったが、平野国
臣・古高俊太郎・長尾郁三郎・横田友次・古東領左衛門など、池田屋事件・大和蜂起・足利将軍木像梟首事件・生野の変等の関係者であった。
この時の様子は村井政礼(まさのり)が手記『縲史(るいし)』として書き記されている。

720日、六角獄舎内でも鐘が鳴り響き空は銅色に染まっていた。そうこうしているうちに獄舎内が慌ただしくなり、生野の変、天誅組の関係者が連れ出されている。その内の一人、平野国臣が朗々と辞世の句を詠み、一刀のもとに首を切り落とされ、その音は場内に響き渡り、茫然としたとある。その後も次々と斬られ、大声をあげているものも多く、結局処刑は午後2時から3時間に渡った。これは六角獄舎史上最大の処刑であった。これらの事を命じたのは京都町奉行の滝川具挙(ともあき)である。この様子を聞いた松平容保も驚いたようで、「囚人を取り扱う役人が破獄と事実を捻じ曲げたのではないか。町奉行らは反省せよ」と申し述べた(『京都守護職始末記』からの口語訳)と伝えている。
しかしながら滝川の判断ミスはあるものの、これらの志士たちはいずれ処刑する予定であり、滝川の責任問題には発展しなかった。

<山脇東洋解剖事始め>
山脇東洋は官許による人体解剖を日本で最初に行った。


  来迎寺(らいごうじ)




幕末 慶喜のもとで働いた江戸の町火消 新門辰五郎の宿舎があった。江戸から連れてきた部下200人を守護や人足とする他、20人ほどに洋式歩兵の訓練をさせている。

禁門の変では辰五郎の部下44人が死亡し、その冥福を祈るため、明治になり再訪した辰五郎が境内に写真の石碑を建立した。
また辰五郎の娘「芳」は、慶喜の愛妾でした。






  若狭酒井屋敷跡

京都所司代を三代、21年の長きにわたって務めた譜代名門小浜藩酒井家(酒井忠義)122千石の京都藩邸跡である。また、この屋敷はのちに徳川15代将軍となった慶喜が1863 (文久3)12月から使用し、1867 (慶応3)921日二条城に移るまでの310ヶ月京都における幕府の活動拠点になり、この間ここで4賢候会議を始め、京都守護職、老中、所司代ら幕閣要人等と協議を重ね、大政奉還の腹案を持って、二条城に入り、慶応31014日の布告となった。(4賢候とは宇和島、伊達宗城(むねなり)土佐 山内容堂 薩摩 島津斉彬 死後 久光、 越前 松平春嶽)。
この屋敷が幕末わが国にとって重要な役割を演じ、その決断が下された場所である。


  東町奉行所跡

 東側は神泉苑通り、西側は美福通りに至る一帯に、東町奉行所があった。
京都の奉行所は、東と西があり、東町奉行所の始まりは、かっての代官奉行五味備前守の屋敷に建てられていた。(総5327坪)
京都奉行所は1600(慶長5)年、に初めておかれ,1618(寛文8)年からは、常設の職になった。その後西町と東町奉行所に分けられ、隔月で担当した。老中の支配に属し、京都畿内及び近江、丹波、播磨など八か国の幕府領の租税徴収、市街の訴訟の裁断、また社寺のことなど管理した。奉行所には、それぞれ与力20騎、同心50名の職員がいた。

文久2年、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞達4名の町奉行所与力が長野主膳、島田左近の浪士弾圧にくみし、国を憂い嘆くものをことごとく無実の罪におとしたとして浪士団に襲われ首をはねられた。


  西町奉行所跡

現在の中京中学校の辺りで、付属地6000余坪あり、三条屋敷及び古屋敷と呼ばれた。構成や職務は東町奉行所と同じで隔月交代で担当した。処理中の事件については、当番月でなくても作業をしていた。
両奉行所とも人員が少ないため、市政に関しては5人組、町役など、各町の自治組織を利用するところが多かった。両奉行所共に、本来の業務の他、禁裏の警固、皇室会計の検査、所司代参府の際の代役なども果たした。
文久3年、天誅組の中村徳次郎は熊野で捕まり、西町奉行所に送られたが、知られていなかったので村預けとして富田林に帰郷を許されたという。
また、元治元年、禁門の変の際、六角獄舎では西町の滝川播磨守の判断により平野國臣や古高俊太郎などが惨殺されている。



  京都代官家敷跡

京都代官所」は、1634(寛永11)年新築された二条城の西側に設けられた徳川幕府組織のひとつで「京都郡代」とも称した。
現在の千本通二条付近「中京区小堀町」で平安宮の朱雀門があったあたりです。千本通の東側に「京都代官屋敷」が、西側に「京都代官下屋敷」があったと考えられる。
寛永11年、五味豊直の代官奉行任命にさかのぼるが、「京都代官」として独立の役職となったのは、1664(寛文4)年に鈴木重辰が就任した以降とみられる。
1680(延宝8)年に小堀正憲が任命されたのちは、幕末まで小堀家子孫が代々世襲した。
「京都代官所」の職務内容は、約20名の所員(最多でも約60名位)によって執行された。

〇皇室関連としては、皇室領の支配、貢租の徴収管理、諸作事など。

〇二条城関連としては、城内の営繕、煤艘掃人足の割り付けなど。

〇社寺関連としては、賀茂社の神車道筋整備、祇園・今宮・御料社などへの神事料米の支給であった。

〇木津川・宇治川・桂川・賀茂川・淀川など大川筋の山城国内の支配、また山城・河内・摂津・丹波などの天領支配を行なった。


  京都所司代跡

京都所司代は、もともと織田信長が京都の監視と治安維持のために置いた職名で、江戸時代にも同様の目的のために所司代が置かれた。
徳川時代の所司代は1600年関ヶ原合戦直後に設けられ、皇室・公家の監視、京都諸役人の統率、京都町方の取り締まり、更に西国33ヶ国の大名の動静監視等、強い権限を持つ行政機関で、幕府の老中に次ぐ最重要役職であった。
初代奥平信昌の後、2代・3代は板倉勝重・重宗父子が、幕末まで58人が任じられ、1862(文久2)年に京都守護職が設けられると、所司代はその管轄下となり、王政復古によって廃止された。
所司代屋敷は二条城北、大宮通辺りまでの広大な一帯にあり、上屋敷・堀川屋敷・千本屋敷等から成っていた。現在はそのほとんどが元待賢小学校用地となっている。
最後の京都所司代は、桑名藩主・松平定敬(さだあき)。幕末の混乱期には所司代だけでは対応できず、京都守護職が上位機関として設けられた。その守護職に任じられたのが、松平定敬の実兄である会津藩主・松平容保(かたもり)であった。
松平定敬は、美濃国高須藩主(岐阜県海津市)・松平義建の八男。松平容保の実弟で桑名藩の養子となった。つまり、実兄の松平容保との関係を重視した人選であった。
桑名藩では、松平定敬の京都所司代就任を予期していなくて、主君の任官に困惑しており、また、この人事は次の2点から特異であった。

@京都所司代は通常は雁間詰か帝鑑間詰(ていかんのまずめ)の譜代大名がなるが、定敬はより上位の溜間詰(たまりのまずめ)であり、また任命の際には、決して辞退すべからず、兄の容保と協力して職務にあたるべしとの内命を受けていたとのこと。
A京都所司代は、通常は大阪城代か寺社奉行を経験した後に任命されるが、松平定敬は、大阪城代や寺社奉行の経験もないなかでの抜擢であった。
この桑名藩主松平定敬の任命により、いわゆる「一会桑政権」が誕生した。

松平 定敬は、桑名藩(三重県)藩主。 1864(元治元)年に京都所司代に任命
兄に尾張藩主・徳川慶勝、一橋家当主・一橋茂栄、会津藩主・松平容保(高須四兄弟の末弟)。


  姫路酒井家敷跡

幕末には藩主酒井忠績 1865年に大老になり、勤皇派の制圧に力を振るったが、1867年に蟄居した。弟の次の藩主になった酒井忠惇は老中となる。
鳥羽伏見の戦いでは、慶喜に随行して大坂退去にも同道した。
戊辰戦争では姫路藩は朝敵の名を受け、官軍に攻撃された。慶喜が江戸城を無血開城して恭順の意を表明したため、忠惇も姫路城を早々に開場して蟄居し、藩主の地位を分家の上野伊勢崎藩酒井家から迎えた忠邦に譲った。


  越前松平屋敷跡

場所は、元京都国際ホテルで現在工事中ですが、表門が残存しております。
藩邸が置かれたのは比較的新しく、1831(天保2)年の「京大絵図」に描かれている。

田安徳川家から養子に入った幕末の藩主・慶永(春嶽)は、橋本佐内らを登用した。また熊本藩から横井小楠を招聘して藩政改革を行った。安政の大獄により隠居を余儀なくされたが、謹慎解除後は公武合体派の重鎮として幕政に参与している。


  古河土井屋敷跡



古河藩土井氏は老中職・京都所司代など江戸幕府の要職を務めた。

最後の藩主利与は、尊王か佐幕か藩内で論議が交わされたが、家老小杉監物の決断により尊王に決した。






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