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太平記の道を行く
〜北白川から西坂本へ〜

今回は、『太平記』の中でも、足利尊氏軍が京都を占拠し、後醍醐天皇方が比叡山に拠る延元元年(建武3年、1336)にたびたび登場する北白川から西坂本の地を訪ねたいと思います。

 

  後二条天皇跡北白河陵・邦良親王墓

文保2年(1318)、第二皇子の尊治(たかはる)親王(後醍醐天皇)を践祚させると同時に、大覚寺統の分裂を防ぐべく、鎌倉幕府の承認を取り付け、後二条天皇の皇子の邦良(くによし)親王を後醍醐天皇の皇太子とされました。
邦良親王(13001326)は幼少、かつ病弱(小児麻痺)であったようで、とりあえず尊治親王(後醍醐天皇)の践祚となりましたが、後宇多法皇にとって次男にあたる後醍醐天皇は、あくまで嫡孫である邦良親王の成長を待つまでの中継ぎ、すなわち「一代の主」(一代限りの主)であり、後宇多法皇は後醍醐天皇に対し、今後の大覚寺統の皇位は後二条天皇の御子孫に継承させるという厳しい制約をつけられました。
しかし正中元年(1324)、後宇多法皇は皇太子邦良親王の行く末を案じながら御年58歳で崩御。
さらに邦良親王も践祚することなく、嘉暦元年(1326)、27歳で亡くなりました。


  神楽岡(吉田山)

神楽岡は、京都から近江国へと抜ける志賀越道(今路)に面し、京・白川と近江国とを結ぶ交通の要地であると同時に、比叡山に対して白川を守備する前線基地でもありました。
建武3年(13361月、諸国の武士たちの不満を背景に、建武政権に反旗を翻した足利尊氏が京都に迫ると、後醍醐天皇は延暦寺を頼りにされ東坂本(現在の大津市坂本)へ行幸、官軍の軍勢も比叡山に拠りました。京都を占拠した足利軍から京都を奪還すべく、官軍の軍勢は比叡山の西麓に布陣(北畠顕家は山科に布陣)。これを迎える足利軍は鴨河原に馬を並べました。
 戦闘開始は建武3年(1336127日の辰の刻(午前8時頃)と決められていましたが、延暦寺の若い僧兵たちは、武士に先を越されまいと思ってか、卯の刻(午前5時頃)から神楽岡(吉田山)へ攻め寄せました。ここには足利方の宇都宮氏と紀清両党が城を築いて守っていました。
延暦寺の僧兵たちが鹿ヶ谷から神楽岡へ攻め寄せると、洛中にいる総大将の足利尊氏(『太平記』は尊氏のことを「将軍」と記しています)は、すぐに後詰めに向かえと今川・細川の一族に三万余騎を与え遣わしましたが、城はすでに攻め落とされ、城の中には敵が入っていたので、後詰めの軍勢もむなしく洛中へ帰っていった、と伝えています。


  子安観音(北白川石仏)

「志賀の山越」は平安時代前期の『古今和歌集』などに詠まれ、近江の歌枕のひとつとして知られています。荒神口を京都側の起点とし、現在の京都大学の構内を通り、北白川から山道に入ります。山中越ともいい、京都と志賀里や坂本(東坂本)を結ぶ輸送路として栄えたようです。この道は『太平記』には「今路(今道)」という名で出てきます。
旧白川村(北白川)の入口、志賀越道に面する子安観世音は鎌倉時代中期の作といい、この道で繰り返される戦乱の様子をこの石仏は見続けたことでしょう。戦いに赴く武士たちも、この石仏に手を合わせたかもしれません。弥勒石仏とも阿弥陀仏ともいい、古くから地域の信仰を集めてきました。
 豊臣時代、いたく気に入った秀吉がこの石仏を聚楽第に移したところ、夜な夜な声を発して白川へ戻りたいと鳴動。このため元の場所へ戻された、というエピソードもあります。
今も白川女は、この子安観世音に花を供えて商いに向かうそうです。


  滋賀越道(今路、今道)

建武3年(13361月、足利尊氏の軍勢が京都に迫ると、後醍醐天皇は京都を脱出され、山門(比叡山延暦寺)を頼みとされて、東坂本(現在の大津市坂本)の日吉山王(日吉大社)へと行幸されました。同月の京合戦で官軍(後醍醐天皇方)が足利軍に勝利、足利尊氏が丹波へ逃れ都を落ちて行くと、後醍醐天皇は京都へ還幸されましたが、『太平記』にはこの行幸・還幸の道がどのルートであったかは記していません。九州に逃れた足利尊氏は再び京都をめざします。
延元元年(建武3年、13365月、兵庫の湊川の戦いで新田義貞や楠木正成らが足利方に敗れると、同月、主上(後醍醐天皇)は「三種の神器」を先頭に山門(延暦寺)へと再び行幸されました。
今回は、公家も武家も天皇にお供する者多く、武家の人々では、新田義貞を筆頭に、名和長年その他を中心として、合計六万余騎、鳳輦(天皇の御乗物)をかこんで、今路越(今道越、志賀越、山中越)を通って東坂本(現在の大津市坂本)へと都を落ちて行った、と『太平記』は伝えています。


  北白川山・勝軍地蔵旧跡

建武3年(1336127日の足利攻めが決定されると、新田兄弟(新田義貞、脇屋義助)は、今路(志賀越道)より京へ向かい北白川に布陣しました。官軍は大手・搦手都合十万三千余騎、敵に布陣を知られまいとわざと篝火を焚きませんでした。
この道を登った北白川山(丸山。標高130m程度。現在は北白川幼稚園があります)の上に、近年まで勝軍地蔵が祀られていました。元は南北朝時代以来、このやや東の瓜生山(301m)の山上に祀られていましたが、参拝が困難ということで、江戸時代中期の宝暦12年(1762)、聖護院宮忠誉(ちゅうよ)法親王によってこの小山に移されたそうです。しかし近年、地蔵堂の老朽化が進んだため、この山の地主である禅法寺の境内に移されています。
新田義貞が北白川のどのあたりに布陣したかは不明ですが、見晴らしのよいこの小山は、陣を布くにはちょうどよかったかもしれません。


  禅法寺

南北朝時代に瓜生山頂に祀られたという石造の地蔵菩薩(勝軍地蔵)像は甲冑を身に着け、左手に軍旗、右手に剣を持って馬にまたがっているそうです。これは敵軍を降伏させた姿といわれています。
勝軍地蔵は近年まで北白川山の山頂(現在の北白川幼稚園のある場所)に祀られていましたが、禅法寺ご住職の話によると、地蔵堂が老朽化して危険であるため、寺の境内にお移り願ったとのこと。現在は禅法寺の門をくぐった左手の地蔵堂に祀られていますが、御開帳等は一切していないとのことです。
ちなみに勝軍地蔵は愛宕山・清水寺・禅法寺の3か所にのみ伝わる地蔵尊だそうです。


  大楠公戦陣跡

奥州の北畠顕家軍の到着で官軍は息を吹き返し、合戦は正月二十七日と決定されました。その日になったので楠木正成・結城(親光はすでに討死)・名和長年の軍勢は三千余騎で西坂(雲母坂)を下って下り松に陣を取りました。北畠顕家は三万余騎で大津を通って山科に陣を取りました。洞院実世は二万余騎で赤山に布陣、延暦寺の僧兵たちは一万余騎にて龍華越(途中越)を回って鹿ヶ谷に布陣しました。新田義貞・脇屋義助兄弟は、Dの「北白川山」の説明のとおり、二万余騎で今路(志賀越、山中越)から下りて北白川に布陣しました。
大手・搦手都合十万三千余騎の官軍オールスターで、いよいよ足利尊氏を京都から追い落とす作戦の開始ですが、後醍醐天皇方にとってはこれが最後の栄光でした。


  鷲尾家雑掌宅跡

田辺家は元禄年間より雑掌(事務職員)として公家の鷲尾家に仕えていました。鷲尾家は一乗寺村に所領を有し、田辺家にその管理をさせていた他、納米の用務や、時には家臣として宮中出仕もさせていたようです。
 一乗寺村は比叡山への道筋(雲母坂の麓=西坂本)にあたるところから、田辺家が番所を兼ねることもありました。幕末の洛中の騒擾・戦火を避けて、鷲尾家に伝わる古文書等が、田辺家に保管され、今日に至っています。 

 後醍醐天皇などの宸翰(天皇直筆の文書)七巻をはじめ、後水尾天皇修学院離宮御幸御道筋絵図一巻、一休和尚之書等多数の文化財・美術品を保有しています。なかでも徳川三代将軍家光上洛の際の寛永
11年(1634)京都市中に銀五千貫を下付した時の町民代表者の請取覚は重要な史料で、これにより当時の京中の家数が37,313戸であったことがわかります。
 鷲尾家に仕える一方で、田辺家が漬物を製造販売する「穂野出」も元禄2年創業。小茄子を白味噌に漬けたものを「雲母漬」といい、これが比叡山を上り下りする僧たちに好評で、彼らはここの茶店で雲母漬をお茶受けに一服していたそうです。


  鷺森神社

建武3年「正月二十七日合戦」で足利方は敗走しますが、楠木正成の奇策により、新田義貞や楠木正成などの主だった武将が討死した、と嘘のうわさを流したり、かれら後醍醐天皇方の軍勢が京都から逃げ出していく、と見せかけたりして足利方を油断させ、翌々29日、再び戦を挑みます。
そのとき官軍は比叡山西側の西坂(雲母坂)を下って、八瀬・藪里(一乗寺の辺りの古称)・鷺森・下り松に布陣した、と伝えています。
やがて官軍は二条河原へ押し寄せ、足利方に決戦を挑み、これにより尊氏は敗れ、丹波へ、さらに九州へと落ちていくのです。
 鷺森神社の祭神は素戔嗚命。創建は貞観年間(859~877)で、当初は赤山禅院のあたりにあって、応仁の乱で社殿を焼失してからは、今の修学院離宮の建つ山中に祀られていたそうです。離宮造営に伴い、元禄2年(1689)にこの鷺森の地に遷座したといいます。鷺は神使のひとつとされ、このあたりに多く生息していたと思われます。


  千種忠顕遺跡道標

延元元年(2月に改元。北朝では建武3年、13366月、足利軍は、西坂本方面へは高師重(高師直の父)その他を大将として三十万騎、八瀬・藪里(一乗寺あたりの古称)・静原・松崎(松ヶ崎)・赤山・下松(下り松)・修学院・北白河(北白川)に布陣し、音無滝(音羽川の音羽滝の誤りか)・不動堂(修学院の雲母坂の登り口にあった雲母寺不動堂)・白鳥(一乗寺から登る白鳥越か)から攻勢をとりました。
夜が明けたので、三石・松尾(松尾坂)・水飲(雲母坂)より手に分れて、二十万騎が、えいえいの掛声とともに攻め登りました。これに対し宮方(後醍醐天皇方)は、千種忠顕らが、雲母坂で三百余騎をもってこれを防ぎましたが、松尾坂(八瀬から延暦寺西塔へ直接向かう道)より攻め登り、雲母坂に回った敵に背後を断たれ、ことごとく討死しました。
現在、雲母坂のケーブル比叡駅近くに「千種忠顕卿戦死の地」碑が、雲母坂の水飲付近に同じく千種忠顕の事績を伝える「水飲対陣之跡」碑があります。


当日は、天気にも恵まれて、参加者123人と会員で楽しく歩くことができました。

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