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ウォークの地図

悲喜こもごも 鴨の川が見てきた400年

         三条大橋から祇園を経て四条大橋へ


  加茂川三条付近


天正18年(1590)、豊臣秀吉の命により奉行の増田長盛は石柱の橋に改修、木造の欄干と、擬宝珠が残り、東海道五十三次の終点。橋西詰には、庶民を取り締まる高札場があった。また、三条河原、六条河原は、刑場として知られ、特に幕末には多くの尊王攘夷者の首が晒され、幕末以前では関ヶ原の敗北により、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が六条河原で処刑され、三条河原で首が晒され、秀吉時代に、石川五右衛門が子供と共々釜ゆでの刑に処せられたのもこの場所である。


  先斗町歌舞練場 


江戸後期に公前の遊里となり、文化10年(1813)に公認され、安政6年(1859)になって芸者嫁業の公許が下り、祇園と並ぶ花街として有名になった。
春と秋の「鴨川をどり」は、明治5年(1872)東京遷都後の京都の衰退を危ぶみ開かれた第1回京都博覧会の余興として、「都をどり」と共に観光客誘致の一助として創演されたのが始まり。
現在は51日〜24日まで春1回だけで、振り付けは尾上流。
先斗町歌舞練場は大正14年(1925)に着工、昭和2年(1027)に完成し、歌舞練場の屋根には中国の蘭陵王(らんりょうおう)の舞楽面を型取った鬼瓦が、先斗町の繁栄を祈念して守り神として据えてある。


  彦根藩邸跡





彦根藩は、徳川家康四天王である井伊直政が初代藩主、譜代大名の筆頭格。彦根城は国宝です。石高は35万石。幕末、井伊直弼が大老として、諸国と条約締結局面の打開に当るが、桜田門外に倒れた。その後、藩は勤王派に転じ、大政奉還後は新政府支持を表明。維新後は、エトロフ島を彦根藩が廃藩置県まで管轄していた。



  瑞泉寺

浄土宗西山禅林寺派で山号は慈舟山。豊臣秀吉から関白を譲られた秀次だが、秀頼が生まれ、実子を盲愛する秀吉に謀反の疑いで高野山において切腹。後日、秀次の首は三条河原に移され、秀次の子供5名と妻妾、侍女34名の計39三条河原で処刑。今も「引導地蔵尊」が祀っている。最上義光の愛娘、駒姫は15歳で秀次に嫁ぐ予定も、秀次はすでに亡く、家臣の助命嘆願もむなしく、駒姫は処刑。後、角倉了以が高瀬川開削時に新たに墓域を整備、墓碑を立て一宇を建立し慈舟山瑞泉寺と号した。


  元三縁寺の名前5

元治(げんじ)元年(1864)6月5日池田屋で新撰組隊士に襲われ死亡した宮部鼎蔵、吉田稔麿、北添佶摩、望月亀弥太などの志士達が京阪三条駅前東にあった浄土宗法輪山三縁寺墓地に葬られたが、昭和54年に京阪三条駅前開発にともない,左京区岩倉花園町に移転し,死没者の墓と碑も同所に移された。
現在は、元三縁寺跡地に「池田屋事変殉難志士墓所跡」の石碑がある。
京阪三条駅南側に小川亭の石碑があります。女将の「てい女」は宮部鼎蔵、桂小五郎、平野国臣などの世話をしており、池田屋事件では、犠牲者を三縁寺に埋葬したという。


  パークス襲撃事件




鳥羽伏見の戦いの約三か月前後(149年前)、英国公使パークス一行は、明治天皇謁見のため知恩院から御所へ向かう。大和大路通古門前付近で、突如2名の刺客が護衛の英国公使館付騎兵を襲う。護衛兵10名ほどが負傷したが、パークスは無傷、刺客1名は護衛の後藤象二郎と中井広によって斬殺され、もう1名は捕縛後斬首された。この事件で新政府は、英国との関係悪化を恐れたが、襲撃関係者の厳罰と賠償金支払いを約束した結果、無事解決、英国ビクトリア女王から後藤、中井は宝刀を授与されている。




  祇園白川界隈

祇園新橋は、紅柄格子のお茶屋が軒を連ねる「伝統的建物保存地域」に指定され、約300年前、知恩院の山門から西へ縄手通まで道が作られ、白川の下流に橋を架け、祇園白川又は祇園新橋と呼ぶようになった。
辰巳稲荷> 
御所より辰巳(南東)に位置し、辰巳の方向を守る神社でしたが、祇園の人々の信仰が厚く、特に芸舞妓が芸事の上達を祈って訪れる。また、その昔、辰巳橋に住んでいた狸が人を化かし、川を渡らせていたそうで、困った祇園の人々が、この狸を祀ったところいたずらが収まったといわれる。稲荷の狐ではなく狸とは面白い。
<かにかくに碑>
昭和30年、吉井勇、谷崎潤一郎らにより建立、吉井勇の「かにかくに 祇園はこいし寝る時も 枕の下を水のながるる」
「かにかくに祭」は7、毎年11月8日に芸妓、舞子が参列する。吉井勇は京都に移り住み、祇園をこよなく愛した風流人でした。

祇園東芸妓組合事務所> 歌舞練場がないため、舞妓、芸妓等の稽古場として使用されている。


  観亀稲荷神社

花街・祇園東の氏神として「観亀(かんき)さん」と親しまれている。江戸時代は膳所藩屋敷があり、境内付近は中庭があった。創建時は竹薮で、伐り開く際に亀が出て歓んだとされ、観亀、歓亀、歓喜神社とも。祭神、加具都智命(かぐつちのみこと)、宇賀御魂命(うかのみたまのみこと)を祀る。火伏せの信仰。
<膳所本多屋敷―幕末>
江戸時代、御所警衛の膳所藩2代藩主・本多俊次は、膳所藩京屋敷4350坪を有し、後に郡山、淀、 亀山(亀岡)藩と共に、将軍から御所火の番の京詰を命じられる。幕末の膳所藩は、尊攘、佐幕の対立が激しく、長州再征に備え将軍・徳川家茂は膳所城での宿泊を予定するも藩内に「将軍暗殺を企んでいる」との噂などのため膳所宿泊は中止、疑われた者11名が切腹・斬首の処分を受けるという事件が起こった。
<花街 祇園東>
八坂神社、清水寺への参拝客を相手として営業された水茶屋が花街の始まり。明治14年、甲部と乙部に分かれ、膳所藩の屋敷近辺のお茶屋乙部と指定され、戦後「祇園東」に。かつて膳所藩屋敷が存在していたことから地元では「膳所裏」と呼ばれていた。秋になると祇園会館で「祇園をどり」が開催、舞踊は篠塚流井上流を経て現在は藤間流


  祇園甲部

寛永年間(162444)祇園社門前から大和大路に至るまでの道沿いに水茶屋などが建ったのが始まり。
その後に四条大和大路の南側に茶屋町「祇園外六町」、後に四条通り北に「祇園六町」、祇園新地と呼ばれた。
その後、白川沿いに町地が造成されて、享保17年(1732)、茶屋渡世の営業許可が下りると「祇園内六町」が出現、繁栄。団子を モチーフにした紋章は、祇園甲部と祇園東に使用。規模、格ともに他の花街とは別格とされ、各界の一流といわれる方が集い、遊興文化を育んでいる。
<祇園甲部歌舞練場>
明治6年(1873)、花見小路通西側にあった建仁寺塔頭清住院が歌舞練場として改造され、第2回「都をどり」から使用。大正2年(1913)に現地に新築移転し、都をどりは毎年この歌舞練場で100年以上上演。建物は「有形文化財」登録だが、建物の老朽化による耐震工事のため、本年の「都をどり」は京都造形芸術大学の春秋座で行われる。


  花街 宮川町

「宮川町」の名は鴨川の支流「宮川」からきており、現在は宮川筋二丁目から六丁目までが花街として残る。
寛文6年(1666)、「祇園外六町」と共に栄え、四条河原に櫓を構えた芝居小屋が宮川町の発展に寄与し、役者が多く住んだと言われている。宝暦元年(1751)茶屋営業が許可された。
宮川町歌舞練場
毎年4月に「京おどり」。10月には「みずゑ会」が開催、初演は昭和25年と、「都をどり」や「鴨川をどり」などと比べると歴史は浅いが、若柳流の振付で、観光客や地元の人にも愛好者が結構多い。


  団栗辻子(天明の大火)

天明8(1788)、1月30日におきた京都歴史上最大の火災。鴨川の東,団栗辻子の民家から出火、強風のため火は鴨川を越えて西へ延焼,さらに北と南へも拡大,二昼夜燃え続け、22日朝にようやく鎮火、焼失範囲は,北は鞍馬口通,南は七条通,東は鴨川の東,西は千本通までで、この火災で37000軒の家が焼け,65000世帯がり災、御所や二条城,東西の本願寺を始め大半の寺院など、当時の京都市街地のほぼ全域にわたり約8割が焼失し、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与え、「団栗焼け」、「申年(さるどし)の大火」とよばれた。


  四条大橋界隈

<四条大橋>
架橋は永冶2年(1142)、祇園社参詣路にあたり祇園橋と呼ばれた。鴨川の洪水で、破損・流失を繰り返し、江戸期から明治初期には、祇園氏子から寄付を集めて架けている。幕末に付け替えた木造石柱の大橋を、明治7年(1874)には京都で最初の鉄橋としたため、くろがね橋とも呼ばれた。
橋は昭和10年の京都大洪水でも流出。現在の橋は昭和17年に造られたものである。
歌舞伎発祥の地>
歌舞伎の元祖と言われる出雲の阿国は、慶長8年(1603)、四条河原で伊達男風扮装で「かぶきをどり」を披露。出生不明ながら、出雲大社の巫女で一座を率い勧進のため入洛し、北野天満宮の定舞台で名声を得、各地を巡業、遊女歌舞伎が流行した。江戸時代には、風紀を乱すと女歌舞伎禁止令が出て、若衆歌舞伎を経て、男が女形を演じる今日の歌舞伎に発展した。四条大橋北東角に昭和28年(1953)、阿国歌舞伎発祥地の碑が発祥30年を記念して松竹株式会社により建立された。
<南座>
四条河原は、室町時代から猿楽や田楽の勧進興行が催され、常設の芝居小屋があり、元和年間(16151623)京都所司代によって、四条河原東側に七つの櫓(座)を開くことが認可されたが、幕末には幾多の火災を潜り抜け、四条通りを挟んで、南座と北座の2座が残る。北座は明治26(1893)、に取り壊されたが、日本最古の劇場として現在に至る。明治39年(1906)以後、松竹()が経営し、登録有形文化財となっている。歳末の吉例顔見世興行は、役者の名前を書いた「まねき」が南座正面に上がり、風物詩になっているが、現在、耐震工事のため、臨時休業中。
<祇園祭 神興洗い>
神輿洗は、神輿渡御にそなえ、四条大橋から汲み上げた鴨川(昔は宮川)の神水で、祓い清め、四条大橋で神輿や人々に振りかけ清め、無病息災を祈り、ハ坂神社に戻るとき、同じく神輿を鴨川の水で清め神輿庫に収める。



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