>
このウォークの地図

足利義満の北山新都心・北山・北野を歩く

京都有数の観光スポットの鹿苑寺(通称金閣寺)が足利義満(13581408・以下義満と略す)の山荘を、その没後に寺院としたことは有名です。その北山山荘=北山殿は、1397(応永4)年の着工、翌年に一応の完成を見て、義満は1399(応永6)年の4月までに移住しました。
室町幕府第三代将軍の義満は、将軍権威の強化に努め、室町幕府の最盛期を築き上げましたが、北山殿造営の直前、1394(応永元年)の暮れには、わずか37歳の若さで、将軍職を子の足利義持にゆずりました。ついで、公家最高の職である太政大臣に任命されましたが、これも約6ヶ月で辞退し、翌年出家しました。
北山殿は一切の公職を退いた義満の隠居所として造営されたのですが、義満の将軍辞退は政治の場からの引退を意味せず、その死にいたるまで政治の実権が義満の手に握られていたので、北山殿は義満の単なる隠居所ではありませんでした。
北山殿に関する歴史研究で、北山殿は義満政権の「国家の中心的な政庁であり、宮殿」あるいは「天下支配の本拠」と定義されることがあります。
北山殿を中心とする地域については、「中世京都を構成する衛星都市のひとつ」「公武寺社の邸宅・住坊などが密集する、諸権門の一大拠点」などと定義づけ、「北山新都心」と表現する都市・歴史研究もあります。
今回の史跡ウォークは、義満造営の北山殿とその隣接地域=北山新都心の領域の広さを参加者の方々が実感されることに重点をおきました。義満の足跡を辿りながら、早春の北山・北野を歩きました。


  幻の七重の大塔




義満造営の「七重大塔」は、北山殿に造営される以前に相国寺に造営されており、1399(応永6)年に義満は北山殿から相国寺に完成なった大塔の供養に出向いています。

しかし、1403(応永10)年に落雷で焼失してしまい、その後、北山殿に再建されることになりました。しかし、この大塔も、完成途上にあった1416(応永23)年、またもや落雷により焼失しました。昨年の7月に金閣寺の駐車場西側で七重大塔の相輪のかけらが発見され、話題となりました。



  義満の北山殿概観



    義満が北山殿以前に造営した花の御所の規模は東西約120m、南北は約250m、北山殿の規模は、安民沢の北から惣門までの距離は約400mで、鏡湖池の西から紙屋川までの距離は約600m、単純に比較すると北山殿は花の御所より約8倍の広さがありました。
現在、鏡湖池に姿を写すのは金閣だけですが、義満時代の金閣は単独で建っていたのではなく、天鏡閣と呼ばれた建物と対になっていた可能性が指摘されています。



  南御所推定地(白河天皇火葬塚)

◆衣笠馬場町地図には、惣門から四脚門まで点線で「馬場」と示されています。
衣笠馬場町」の町
名は北山殿の馬場に由来があるのでしょう。

◆南御所推定地(白河天皇火葬塚)
北山殿は義満が居住した「北御所」、 義満の夫人日野康子13691419)の居住した「南御所」、義満の生母の紀良子(きのよしこ)の姉妹である崇賢門院(すうけんもんいん)の「崇賢門院御所」の3つの御所で構成されていました。この白河天皇火葬塚辺りが、「南御所」の推定地とされています。

  敷地神社(わら天神)

   安産の神として有名な神社です。神社の授ける藁の護符に節があれば男児、なければ女児が生まれるといわれており、わら天神の通称はそのことが由来です。祭神は豊穣守護の神・木華咲耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)で、旧大北山村の産土神でした。祭祀時期は不明ですが、828(天長5)年に、淳和天皇(786840・在位823833)が勅使を遣わせて止雨を祈願したと伝えられています。
古くは、北山天神の丘(今の鹿苑寺あたり)に祀られていましたが、義満が北山殿を造営した際に、現在地に移したと伝えられています。


  高橋



地図上の右側に紙屋川に架かる「高橋」という橋が記されています。そしてわれわれが今いる通は「高橋通」と記されています。現在では「廬山寺通」と呼ばれています。
義満は
1399(応永6)年に北山殿から完成なった七重大塔の供養に出向いています。義満は高橋を通って相国寺に向かいました。
「高橋」の地名は、義満の愛妾で「高橋殿」という女性がこの辺りに住んでいたから、紙屋川にかかる高い橋からきたとか、地名をめぐる諸説があります。


  平野桜木町付近


   地図上の高橋通(廬山寺通)と左井通りが交差する地点にきました。この辺りに北山殿の惣門がありました。ここより少し西側に衣笠総門町がありますが、町名は北山殿の惣門に由来しているのでしょう。高橋通りは、義満が1399(応永6)年に相国寺塔供養へ赴く際に通った道ですが、1408(応永15)年に後小松天皇が北山殿に行幸した際にも、高橋通から惣門へ向かいました。このことから、高橋通は「重要な国内行事」の折に、洛中と北山殿とを結びつける道として機能していました。


  平野上八町柳町

現在の町名は「平野上八丁柳町」ですが、町名の由来は「八町柳」に由来しています。「北山新都心」の南の境界は、一条大路にあった「一条大門」です。この大門の所在地は、現在の一条通と佐井通が交差する地点です。 そして、この大門から八町分(約970m)北へ上がると北山殿の惣門に着き、一条大門から惣門にかけての八町分の道は「八町柳」とよばれていました。「八町柳」という名は、その名の通り、柳が植えられていたことから、平安京の朱雀大路になぞらえられていたのかもしれません。
義満は明との間に国交を開き、日明貿易を開始した人物であることはよく知られています。1402(応永9)年、95日、義満を「日本国王源道義(にほんこくおうげんどうぎ)」と称する明国皇帝(建文帝)の詔書を携えた使節は、八町柳の両側に武士が並び立つなか、北山殿へと向かっていきました。義満は法服を着て、四脚門に出て、使節を迎えました。 現在の八丁柳町は閑静な住宅街ですが、かつては外交使節の通る道でした。


  真如寺(しんにょじ)

萬年山・真如寺は、鹿苑寺・慈照寺とともに臨済宗大本山・相国寺の山外塔頭で、室町時代には「五山十刹」の十番目に数えられていました。
勧請・開山は、仏光国師(無学祖元・むがくそげん・12261286)の弟子の無外如大尼(むがいにょだいに・生没年不詳・京都で最初に尼になった女性で宝鏡寺の前身の景愛寺の住職と伝えられている)が仏光国師の没後、1286(弘安9)年に遺髪や爪を祀るために、この地に開いたのが始まりとされています。
仏光国師の法を継ぐ夢窓疎石(むそうそせき・12751351)が足利尊氏の執事であった高師直(こうのもろなお・?〜1351)の外護を受けて大伽藍を整えた。


  六請神社(ろくしょうじんじゃ)

    古来、衣笠山(201m)麓に鎮座していたので、衣笠御霊(きぬがさごりょう)とも、衣笠岳御霊(きぬがさおかごりょう)とも呼ばれています。
室町時代になると、1399(応永6)年、義満によって等持院(足利家の菩提寺)の鎮守として六座の大神を境内に勧請され、近世以降は近辺の小松原村・等持院門前町の産土神として崇敬され、また等持院・真如寺の鎮守社ともなっていました。その後、明治期には神仏分離令により等持院の東側(現在地)に移転しました。毎年1028日に「神幸祭」が行われ、神輿が一基、氏子町内を巡行します。


  等持院

山号は萬年山、臨済宗天龍寺派、本尊は釈迦牟尼仏、開基は足利尊氏。元は仁和寺の一院でした。1341(暦応4)年、足利尊氏は現在の中京区柳馬場通御池付近に等持寺を建立し、この仁和寺の一院に別院北等持寺を建立しました。1358(延文3)年に尊氏が死去すると別院北等持寺に葬られ、その寺名を「等持院」に改称しました。
柳馬場にあった等持寺は応仁・文明の乱で焼け、等持院が本寺になり、足利家の菩提寺として、歴代将軍は毎年715日に参詣することが恒例となりました。室町幕府の権勢が衰微するとともに荒廃しましたが、豊臣秀頼が1606(慶長12)年に寺を改装して復興させました。


距離や時間、場所など説明があればここに書いてください

Copyright (C) 2000 KYOTO SHISEKIGUIDE VOLUNTEER KYOKAI and KAMO SQUARE. All RightsReserved