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ウォークの地図

かつての賑わいを偲びつつ巡る岩倉

岩倉は、古くは愛宕郡小野郷に属し、賀茂の神領地であったが、のち禁裏・仙洞の御領地となり、中世以降は貴紳が山荘を営むもの多く、幾多の詩歌にうたわれる。岩倉、長谷、中、花園、木野、枝の六ケ村に分かれていたが、明治22年(1889)合併、岩倉村として、昭和24年(1949)京都市に編入されて、左京区岩倉町となる。空気清澄にして静養地にふさわしいことから、古くより皇室関係者の静養、幼子の里親の地として知られた。



  紫雲山心光寺



浄土宗の尼寺江戸時代正保二年(1645)創建、開基は唯称房知空大徳本堂には阿弥陀三尊仏(重文)を安置。

太田垣蓮月の門人垂水文子は13世勝月法尼の母であることから、蓮華尼の遺物もわずかながら残されている。





  十王堂橋



昔、岩倉では、葬列は、岩倉川を三途の川に見立てて十王堂橋を渡って十王堂の前を通る時、死者は十王堂の奪衣婆(だつえば)に衣を剥ぎ取られ十王の裁きを受け、その後惣墓(共同墓地)へ行くと閻魔王の本来の姿(本地仏)である地蔵菩薩が待っていると考えられていた。





  山住神社


桓武天皇が平安京を囲む東西南北の磐座(いわくら)に魔界封じとして配した平安四岩倉(磐座)の一つ。
巨大な自然石(チャートとよばれる。微粒の石英から出来ていて珪質推石岩でとても堅い石)を神々の降倫の場とする古代信仰の貴重な遺跡。
もとは、石座神社の鎮座地と伝える。大雲寺が創建するにあたり、長徳二年(996)現在の石座神社の地に遷座し、その後は山住の神として、石座神社の御旅所となっている。




  道標

「いわくらかんぜおんみち」の古い道標 天保六年(1835
かつてこの道は、岩倉村のメインストリートで、眼病、脳障害の治療祈願へ大雲寺のお参りの道であった。
近年の下水工事の際、発見されたもの。
如元という隔夜聖(かくやひじり)が、大雲寺に一夜籠り、翌日は鞍馬寺に泊まるという修行を繰り返し、ついに享保十二年(1727)三月、千日満行を達成し、それを記念して道標を建てた様である。

※ 隔夜とは、一晩おきに、定期間、神仏へ参詣する修行のこと。


  岩倉具視旧居

幕末公武合体を進め、明治維新に功績のあった元勲・岩倉具視が文久2年(186238才の9月から慶応3年(186711月までの5年余り幽棲していた住居跡。国の重要文化財登録。茅葺平屋2棟。庭に具視の遺髪塚、遺愛の老松。
敷地内に「対岳文庫」(国の重要文化財登録)を設け、具視の書簡や愛用品、木戸孝允、坂本龍馬、三条実美等の史料
2000点に及び収納保存されている。
「対岳文庫」 昭和3年の建設。設計は京都市役所の設計にも携わった武田五一設計による鉄筋コンクリート造り。比叡山に対する位置にあることから「対岳文庫」と名付けられた。
岩倉具視は参議正三位堀川康親の次男に生まれ、のちに公卿岩倉具慶の養子となる。幕末の動乱に際して、公武合体のため尽力したが、このことが倒幕急進派の誤解をうけ、官職を辞し剃髪し、洛北の岩倉村に隠れ住み刺客の目を逃れた。
しかし、この邸には明治維新の志士たち、大久保利通、中岡慎太郎、坂本龍馬らが来訪し、王政復古の密議を行い維新の大業が達成された。

皇女和宮降嫁問題では天皇に進言し、これを推進して親幕の巨頭と見られるようになる。

慶応
312月、再び表に出てきて、新政府樹立、大久保利通と結んで開論を近代化の方向に導き政界で力を発揮した。明治1659歳で死去。
岩倉の地名と岩倉具視との関係については、具視の先祖の内に岩倉に山荘を持ち、岩倉大臣とも称された人にちなんで
11代前の先祖が家号を岩倉と改称した。


  目無地蔵



岩倉周辺には、昔から庶民信仰の対象とされてきた地蔵さんや道祖が随所に残されている。

目無地蔵といわれているが、阿弥陀座像と思われる。鎌倉時代のものとされ、表面が磨滅して、目、鼻、口が分からないので目無地蔵と呼ばれている。

傍らに
13基の小石仏が安置されている。



  万理小路藤房遺髪塔

旧岩倉村にとって貴重な歴史的遺跡の一つ。南北朝時代の典型的な遺品とされている。塔身四方には阿弥陀三尊をあらわした梵字を刻む。
中納言藤原藤房は、後醍醐天皇に仕えた建武中興の功臣の一人。朝廷の腐敗に失望して離反する者が多く、これを阻止すべく、しばしば直訴したが、聴き入れられず官位を捨てて、岩倉の不二房に入り髪をおろし僧となる。驚いた天皇は、父・宣房に訪ねさせたところ、諸国修行の旅に出た後で、庵室の障子に「住みすつる山を浮世の人問わばあらしや庭の松に答へん」と、一首残されていた。その後、藤房は、どこで、いつ死んだかは不明である。

公卿辞典によれば、永和元年(137885才で没す、と伝える。


  三面石仏



土地の人は、「大日さん」と呼んで大日如来像としている。が、阿弥陀三面仏で、右に、十一面観音、左に、地蔵菩薩像が刻まれている。鎌倉時代のもの。






  石座神社


旧岩倉村の産土神としていつ頃、創祀されたか明らかでないが、古い史料「三代実録」に元慶
4年(880)にその名がある。
本殿は二つに分かれ、右には天照大神外七柱(八所明神)を、左に天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)外十一柱(十二所明神)を祀る。大雲寺が建立され(971年)、その鎮守社となった。
境内に一言だけきいてくれるという「一言社」には、付近に幽棲していた岩倉具視も収穫米を献上したといわれている。



  冷泉天皇皇后岩倉陵


朱雀天皇の皇女昌子内親王岩倉
夫の冷泉天皇は病弱で、幼いころから精神の安定を欠いていた。皇太子時代、宮中での異常(鞠をつき天井まで蹴り上げることに夢中になるなど)な行動があり、寂しい一生を送った皇后。子供もなく、深く仏法に帰依し、大雲寺の観音を信仰し、多くの堂宇を有する観音院を建立。崩御の後は法華堂に葬られた。観音院は、中世以降衰退した。御陵も明治になって、ここに治定された。


  大雲院跡

紫雲山大雲寺は、平安中期天録二年(971)円融天皇の勅願により日野中納言文範が真覚上人を開山として建立した天台宗園城寺(三井寺)の別院。本尊は、十一面観音
冷泉天皇皇后昌子内親王は、大雲寺の観音に深く帰依し、永観三年(
985)寺内に観音院を建立。智弁僧正を住職とした。最盛期には数十の堂舎と千有余人の僧を擁した洛北屈指の名刹であった。中世以降は、兵乱などでまったくその姿をうしなった。江戸時代寛永年間(16241644)に実相院門跡義尊によって再建されたが観音院は再建に至らなかった。
 日野文範の35代後が岩倉具視にあたる。
 昭和60年大雲寺本堂解体。「紫雲苑」介護療養施設に。かつて大雲寺にあった国宝の梵鐘(天安二年の銘)は、変遷をたどり現在、滋賀県の佐川美術館所蔵となっている。

観音水
 別名「智弁水」といわれ、智弁僧正が自ら設けた井戸と伝える。
 冷泉天皇皇后昌子内親王は、この井水を飲み病気平癒を祈願した。
後三条天皇(71代)の第皇女佳子内親王が精神的な病気になり、大雲寺に祈願し、霊泉を日毎飲み治ったと伝承される。江戸時代以降、大雲寺に参詣する人が多くなり、周辺には、茶屋や宿屋ができるようになり、心の病の人たちが宿屋を保養所として滞在するようになり、病院が建てられた。

不動滝
 不動滝は眼病によいと信仰がある。


  実相院

天台宗寺門派(三井寺)に属する門跡寺院であったが、現在は単立寺院。本尊不動明王
現在では単立寺院であるが、かつては皇子や皇族が門主を務める格式の高い門跡寺院であった。鎌倉時代、寛喜元年(1229)藤原(鷹司)兼基の子・静基(じょうき)僧正の開基。はじめ北区紫野に創建された。現在地には室町時代応永18年(1411)に移った。
江戸時代寛永年間(
16241644)に足利義昭の孫にあたる義尊僧正(三位局が、足利義昭の子義広(高山)に嫁しもうけた子)が、門主となり、大雲寺を兼帯、のち後西天皇皇子義延法親王が入寺し、寺運は隆昌した。
四脚門、御車寄、客殿は東山天皇の中宮承秋門院の旧殿を賜って移建したもの。現存する数少ない女院御所と言われている。

近年には江戸時代中期から明治期まで約
260年にわたって書き継がれてきた日記200冊以上にものぼる「実相院日記」が発見された(1998年)。
新緑や紅葉の季節、床に映るもみじは「床紅葉」といわれ有名。



天候に恵まれ、参加者一四〇名、会員二六名で、初参加者は六名でした。歩く距離は少しもの足りなかったようですが、途上の史跡を含め、遠い昔の隠れ里との雰囲気や別業地としての賑わいを感じて頂けましたでしょうか。

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