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徳川将軍家と南禅寺・知恩院

今年は、徳川家康没後、400年。長期政権樹立の陰で、どのような制度や規制があったのか、京都に残る大寺院を歩いてみましょう。


徳川家康は、信長、秀吉が亡くなった後、長期政権樹立に向かい、権限を徳川中心の中央集権体制にするため、二代将軍秀忠に「武家諸法度」という通達を発布して、これを遵守させました。
その後、三代将軍家光が諸大名から妻子を人質に出させて、これを江戸に拘束する参勤交代というルールを作り、諸大名は1年ごとに江戸に出頭して公務に服することになりました。
また、家康は京都の天皇や貴族に対して「禁中並びに公事諸法度」なる通達を発布して、これを統制し、朝廷がこれに違反すると、幕府は、直ちに介入して罰を与えたのであります。(紫衣事件、宝暦事件)
さらに、宗教の世界にも統制を加えました。下克上の要因の一つが、「信仰の自由」にあることを看破していた家康は、切支丹禁止令に続き、定まった呼称はありませんが、仏教教団に対し、「寺院諸法度」を定めました。そして「寺請制度」や「檀家制」を創出したのです。
すなわち、全国の寺社を幕府の統制管理下に置き、そして国民全てをその地域の寺社の所轄内に位置づけたのです。こうした統制政策によって管理分断された宗教界は、政治権力(幕府)に対抗しうる牙を失ったのです。
こうして、強権的な統制政策が可能となり、大名も朝廷も寺社も、全てが徳川幕府の統制管理下に置かれました。
言い換えれば、織田、豊臣の短期政権の弱点を見て、補強したのが徳川家康であり、260年余りにわたり、長期政権を樹立出来た根源が、これらの政策のよるものと考えます。
徳川幕府は江戸で開かれたものの、当初、家康、秀忠、家光の三代将軍は拠点を京都に置き、寺院は豊臣色をなくすために東本願寺、智積院や、寄進や多大な援助をした清水寺、東寺、御香宮。綱吉の母、桂昌院が復興した今宮神社、善峰寺などありますが、本年の徳川家康没後400年に際し、長期政権を維持できた政策の内、徳川幕府の寺院政策を考えながら、深くかかわりのある南禅寺、知恩院を訪れてみます。


  金地院

 臨済宗南禅寺派の寺院で、当初、室町時代に足利義持が鷹ヶ峰に創建したものを、慶長10年(1605)、徳川家康の信任が篤く、江戸幕府の幕政に参与して「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝(以心崇伝、金地院崇伝)によって現在地に移された。
寛永年間には大造営が行われ、本堂(方丈)の襖絵は狩野派、茶室八窓席の襖絵は長谷川等伯筆「猿猴捉月図」及び「老松」はいずれも重要文化財に指定され、小堀遠州作の「鶴亀の庭」(国の特別名勝)とともに有名である。

東照宮 
 社殿は寛永5年(1628)に造営され、小堀遠州の作で重要文化財。

徳川家康の遺言で建てられ、家康の遺髪と念持仏を祀っている。


  南禅寺

臨済宗南禅寺派の大本山。正応4年(1291)亀山法皇の離宮を賜り、無関普門(大明国師)が開山。室町時代は隆盛を極め、「五山之上」に列せられた。
応仁の乱で焼失した伽藍を‘黒衣の宰相’といわれた以心崇伝によって復興。
境内には勅使門、三門、法堂、方丈の伽藍が一直線に、その周辺には12の塔頭が並ぶ。

南禅寺 方丈(国宝)
大方丈は天正年間建設の旧御所の建物を慶長年間に下賜されたもので、六間間取りで、仏間を除く各室に桃山時代、狩野派の障壁画があり、計124面(附指定4面を含む)が重文に指定されている。
大方丈の前庭は伝小堀遠州作といわれ、「虎の子渡しの庭」と呼ばれ、江戸初期の代表的な枯山水庭園として知られる。小方丈の襖絵は狩野探幽筆「水呑の虎」は名高い。

南禅寺 三門(重文)
開創当時のものは永仁3年(1295)西園寺実兼の寄進により創立され、現在の三門は寛永5年(1628) 藤堂高虎が大坂夏の陣で倒れた家来を弔うために再建したものである。
石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな、」で有名であるが、これは作り話である。


  知恩院

宗祖「法然上人」が安永元年(1175)吉水の地に草庵を結んたことを起源にして、入寂した遺跡に建つ華頂山と号する浄土宗の総本山である。
伽藍が本格的に整備され始めたのは室町時代後期からで、十五代将軍足利義昭に対し、信長が知恩院に布陣。この時のお礼として、銀やコメなどを知恩院に寄進している。
その後も、豊臣秀吉に寺領を安堵され念仏の根本道場として法然上人の教えを引き継いた。
秀吉死後には、熱心な浄土宗信者であった徳川将軍家は、特に、家康の庇護は厚く、慶長8年(1603母君である於大の方(伝通院)の永代菩提寺に定めた。
これに伴って寺領が大幅に拡張され、土地の高低により、上段、中段、下段に分れ、それぞれが石段でつながるようになった。
上段の地の勢至堂(本地堂)にお祀りされていた御影像が今の御影堂に遷座されることになった。
中段の地に御影堂、集会場、大小方丈、大小庫裏など諸堂。
下段の地
には三門や塔頭寺院など三段の大境内に、徳川家康、秀忠、家光時代に現在の壮大な伽藍が形成された
が、寛永10年(1633)に火災が発生し、勢至堂、経蔵、三門以外ことごとく焼失した。
現在、我々が見ている伽藍は寛政18年(1641)に再建された姿である。





  千姫の墓

千姫は徳川二代将軍秀忠とお江の方の長女で家光の姉である。また、家康の孫娘で、豊臣秀頼に嫁ぐが、慶長20年(1615)、大坂夏の陣で豊臣が敗れると徳川家康の命により大坂城から救出された。
その後、姫路城主本多忠政の嫡男忠刻と再婚するが、忠刻の死により江戸へ帰り天樹院と号した。
寛文6年(1666)江戸でなくなった千姫の葬儀は、小石川伝通院で行なわれ、墓所は伝通院と弘経寺(茨城県常総市)にもある。



  勢至堂

 法然上人が終焉を迎えるまでお念仏の教えを広めた大谷の禅房の故地であり、堂内正面の扁額「知恩教院」は後奈良天皇の震翰であり、知恩院の名の起源であり、知恩院発祥の地である。
勢至堂のいわれは法然の幼名が「勢至丸」であるところから付けられたと言われている。

現在の勢至堂は享禄3年(1530)に再建されたもので、知恩院最古の建造物である。

大鐘楼 (重要文化財)
 知恩院の梵鐘は方広寺、奈良の東大寺と並んで「日本三大梵鐘」の一つで、高さ3.3m,直経2.8m、重さ70トンで、寛永13年(1636年)に鋳造され、この大鐘を支える鐘楼は延宝6年(1678)に造営された。

御影堂 (国宝)
法然上人の御影を祀ることから、御影堂(みえいどう)とも呼ばれ知恩院で最大の堂宇であることから、大殿(だいでん)とも呼ばれる。
寛永10年の火災で焼失したが、家光の手で、6年かけ、寛永16年(1639)に再建された。建築様式は唐様を取り入れた和様で、大きさは奥行35m、間口45m、周囲に幅3mの大外縁をめぐらす巨大建造物で、現在、明治末以来の大修理中で、平成30年度末に完成する予定である。


  知恩院山門

元和7年(1621)、徳川秀忠の命を受け建立され、入母屋造本瓦葺で高さ24m、横幅50m、正面の「華頂山」の扁額は畳2畳以上にもなり、その構造規模において、現存する日本最大の二重門である。
幸い、寛永10年(1633)の火災でも、延焼を免れた数少ない建造物の一つである。
楼上には、棟梁「五味金右衛門(ごみきんえもん)」とその妻の木像が入った白木の棺が2つ置かれており、予算オーバーしたため妻と共に自から命を絶ったとの伝説があり、現在、「知恩院の七不思議」の一つとなっている。


  知恩院塔頭

良正院
知恩院の黒門下に建つ塔頭・良正院は、徳川家康の次女・督姫(とくひめ)追善のために創建された。
督姫は最初の夫は徳川家と対立関係にあった北条家の当主北条氏直であった。
豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条家は滅亡し、督姫は一時、徳川家に帰るがその後、池田輝政〔のちの姫路城主〕と結婚。輝政が没した1613年に落飾して、良正院と号し、家康死去の3か月前の1616年に没し知恩院に葬られる

先求院
徳川四天王の一人、家康第一の功臣として称えられている酒井忠次の菩提寺で、墓は知恩院の奥の急斜面にある。忠次は当初家康の父松平広忠に仕え、その妹を妻とし、広忠死後、家康に近侍し、家康が経験した要な合戦のほぼ全てに参加し、優れた部隊揮で勝利を重ね1596年に70歳で死去した。

得浄明院
信州善光寺大本願の京都別院の尼寺として、明治27年(1894)に、当時は信州までお参りするのは大変だったため、誓圓尼(せいえんに)の発願により建立された。
本尊仏は、信州善光寺の一光三尊阿弥陀如来の分身を安置している。

松宿院(松風天満宮)
松風霊巖大僧正が江戸時代初期に天神像を移して創建したものと伝えられ、浄土宗で御本尊は阿弥陀如来で、松風天満宮は天神像を祀ると言う神仏習合時代の風習を残している。
祠前の黄色い陶器製の珍しい狛犬像は、京都府下で一番恐ろしい面構えと言われている。




  知恩院総門・阿闍梨橋

白川にかかる阿闍梨橋は行者橋ともいい、比叡山の阿闍梨修行で千日回峰行を終えた行者が粟田口の尊勝院の元三大師に報告し、京の町に入洛する時、最初に渡る橋である。
その前には、古門前通りから知恩院に通じる桃山期造営の総門がある。
これより西は古門前通り、南より西は新門前通りとして、江戸時代には知恩院の門前町として栄え、
自治が認められ、寺と住民とのトラブルがあっても、奉行所は介入せず、処罰権は知恩院にあった。


約6キロメートル、2時間のコースです。

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