京都歴史ウォーク

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日本の原風景 嵯峨路を歩く

嵯峨地域の隠れた史跡を訪ねつつ、緑豊かな小山、池や田植えの季節感あふれる嵯峨路をゆっくりと歩きました。



  油掛地蔵(あぶらかあけじぞう)

嵯峨天竜寺油掛町の辻堂に安置されている石造阿弥陀坐像です。油をかけて、祈願する風習があるために油で像の容体が知られず、近世から地蔵尊とみなされていましたが、1978(昭和53)年の調査で阿弥陀坐像であることが判明しました。この地蔵について、近世京都の代表的な地誌「雍州府志」の著者である黒川道祐(くろかわどうゆう・16231691)が17世紀後半、嵯峨に立ち寄ったときに油商人が地蔵に油をそそいでいることを記述しており、江戸初期には油商人が地蔵に油をかけ、商売繁盛を祈願する風習があったことがわかります。その風習が、油をそそいで祈れば霊験があると、一般庶民にも広がったのではないでしょうか。伏見の西岸寺(せいがんじ)の油掛地蔵とともに異風な地蔵信仰です。




  安堵の塔と安堵橋

・安堵の塔
      安堵の塔は日蓮の高弟の日像(にちぞう・12691342)が京の七口に建立した「題目石塔婆(だいもくいしとうば)」のひとつであるといわれています。古墳の石塊で作られていて、表面には「南無妙法蓮華経」の七文字が刻まれています。

  
・安堵橋
      安堵橋は通称で現在は「甲塚橋(かぶとつかばし)」と呼ばれています。
   
その昔清凉寺(せいりょうじ)付近で火事があり、清凉寺の赤栴檀(しゃくせんだん)の香木で作られた釈迦像の焼ける匂いが比叡山まで届き、一大事と比叡山の宗徒は清凉寺方面に駆けつけましたが、この橋付近まで来た時に、釈迦像は無事だと聞き、安堵したので「安堵橋」という名がついたというのが、橋名の由来と伝えられています。







  甲塚古墳(かぶとつかこふん)

直径が約38mの大型円墳です。南に向かって開口する両袖(りょうそで)式の横穴式石室が良好に残っていますが、副葬品などの遺物は全く残されていません。現在は民有地の中にあり、石室の開口部には鳥居が設けられ、内部には祠が祀られています。
鎌倉時代末期〜南北朝期の日蓮宗の僧の日像が比叡山の宗徒からの弾圧を逃れるために甲塚古墳に身を隠して難を逃れたとの伝説があります。








  阿刀神社(あとじんじゃ)

 阿刀神社は、代々天皇の侍講(じこう)を務めていた阿刀家が、平安遷都のとき河内の国(現在の八尾市)から嵯峨に移住し、阿刀家の祖神を祀ったのが始まりと伝えられています。神社の由緒に係る資料は保管されてなく、唯一信憑性のある資料は「延喜式神名帳」に記載されているということだけです。
阿刀家は空海の母方の里と伝えられています。空海の出家宣言の書とされる「三教指帰(さんごうしいき)」は、嵯峨の阿刀家で初稿したと言われています。






  遍照寺(へんじょうじ)

山号は広沢山。真言宗御室派。開基は989(永祚元)年、花山法皇の勅願により寛朝僧正(かんちょうそうじょう・918998)の山荘を改めて寺院としました。
 朝原山を映す広沢池を庭とし、池畔に多宝塔、釣殿、八角堂などの伽藍を持つ大寺院でしたが、寛朝僧正没後に寺運は次第に衰退し、応仁・文明の乱(14671477)で、廃墟と化し、江戸時代の1830(文政13)年、舜乗律師(しゅんじょうりっし)が現在地に再興しました。
 同寺所有の赤不動明王坐像、十一面観世音菩薩像は重要文化財に指定され、ともに藤原時代(一般的に894年の遣唐使廃止以後の約3世紀、政治史的時代区分では平安時代に含まれる)の作です。







  児神社(ちごじんじゃ)

遍照寺の開山である寛朝僧正に仕えた稚児が、寛朝僧正の死後、悲しみのあまり広沢の池に身を投げたという伝説があり、その稚児の霊を弔うために祀られたのが神社の由来で、創設年代は不詳です。
 寛朝僧正が座禅修行をしているときに、その傍らでいつも稚児が座って見ていたという「石椅子」があり、一心に祈願してその椅子に座ると、長寿、安産、良縁、が得られると伝えられています。






  広沢の池

 8世紀頃、すでにこの地を開拓していた先住民(秦氏の一族・朝原氏)が農業灌漑用の池として造成したと考えられています。寛朝僧正が遍照寺を建立した際に造った池との伝承がありますが、実際は既設のため池を寛朝僧正が同寺境内に取り入れたのでしょう。池のほとりに釣殿や月見堂などがあり、池中の観音島へはそり橋が架けられていた。現在、観音島には安山岩で造られた十一面観音菩薩像があります。
 
広沢池は春の桜、秋の観月の名所です。毎年816日夜7時からの遍照寺の「広沢池灯篭流し」は1900基を越える灯火が湖面を彩り、12月の池の水を抜いて行われる12月の「鯉揚げ」も、風物詩になっています。
  
広さ13ha、総貯水量151,000t、堤高3.3m、堤長391mの概要を持つ広沢池の所有権は遍照寺→仁和寺→大覚寺と移り、現在は国有ですが、地元農家でつくる組合が水利権を得て管理しています。




  座禅石

 この岩は、寛朝僧正が日夜厳しい座禅修行に努めた「座禅石」と伝えられています。
 先ほどのの児神社のところで記しましたが、広沢池に身を投げた稚児は座禅修行を行う寛朝僧正の傍らで、「石の椅子」に座って修行が終るまでじっと待っていたといわれています。






  後宇多天皇陵

  生没1267(文永4)年〜1324(元亨4)年
  
在位1274(文永11)年〜1287(弘安10)年
   
後宇多天皇は、大覚寺統亀山天皇の第二皇子。後醍醐天皇(12881339、在位13181339)の父です。亀山院政のもと、8歳で即位した年に北九州へモンゴル軍(元の軍隊)が来襲しました。日本では元寇とよばれている(文永の役・弘安の役)はいずれも後宇多天皇の在職中の出来事です。
 さて当時の皇位継承ですが、後嵯峨天皇(後宇多天皇の祖父)の後、皇位系統は持明院統と大覚寺統の2系列に分裂します。持明院統の後深草上皇の巻き返しと鎌倉幕府の思惑により、後宇多天皇は退位し、伏見天皇(後深草上皇の子)に譲位しました。その後、伏見天皇は後伏見天皇に譲位して院政を敷いたため、長く持明院統の天皇が続きました。後宇多天皇はこれに抗議し、両統迭立(りょうとうてつりつ・持明院統と大覚寺統が交互に皇位に就くこと、後の南北朝の起因となった)に持ち込みました。
 大覚寺統の花園天皇を経て後醍醐天皇が即位すると、再び院政を始めましたが、1321(元亨元)年に白河上皇以来の院政を停止しました。
 現在の御陵は五輪石塔を天皇の墓標とし、左右に父・亀山天皇、皇子・後二条天皇、母、皇后?遊義門院の分骨塔があります。


 嵯峨地域は大きく分けて「奥嵯峨」「北嵯峨」「下嵯峨」などと呼ばれています。そこには「北嵯峨田園風景保存地域」に指定されている地域があり、日本の原風景ともいえる田園風景が残されています。
本日は、「嵐電鹿王院駅」駅を起点として、新丸太町通付近に存在する隠れ
た史跡をご紹介し、悠久の歴史を探りながら広沢池周辺から大覚寺門前まで田植えの季節で緑も一段と映える北嵯峨(上嵯峨)の路の風景をお楽しみください。




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