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鳥羽・伏見戦と幕末を訪ねる

鳥羽・伏見の戦いの戦跡だけでなく、伏見を舞台に新撰組の土方歳三・永倉新八、薩摩の大山弥助、土佐の坂本龍馬などの足跡を紹介したい。


  龍雲寺

信州善光寺の「一光三尊仏阿弥陀如来像」(中尊と両脇侍が一つの光背を負っている)の摸刻があるため、別名「桃山善光寺」と称する。秀吉健在の頃は大亀谷敦賀町に在ったが、家康の代に三河に移設され、後、明治御陵建設の為に現在地に移設された。
鳥羽伏見戦では、当寺からやや西北の台地に陣を構える薩長軍の大砲から伏見奉行所へ砲撃が行われた。此の付近から伏見奉行所が一望出来たという。


  御香宮神社

主祭神 神功皇后 仲哀天皇 応神天皇
社歴 境内に湧く水に因む社伝説と、筑紫から勧請した香椎宮に因む勧請説。
慶応3年(1867)12月9日王政復古。12月17日御香宮の表門に「徳川陣営」の木札が掲げられた為に神社側は直ちに薩摩藩に連絡。12月18日薩摩藩「吉井孝助」が札を取り替え、薩摩部隊を駐屯させた。
慶応4年(1868)1月3日鳥羽伏見戦開始。伏見でも伏見奉行所の幕府軍と御香宮の薩摩軍との戦いが始まる。戦いは幕府軍は土方歳三が指揮。永倉新八は薩摩軍に背後から攻撃すべく行動したが、途中で薩摩軍と遭遇、失敗。当時、旧幕府軍は一万五千人、対する政府軍は四千五百人だが、兵数のみの戦いから武器の優劣の時代に変わっていた。


  伏見奉行所跡

江戸時代初期、徳川幕府が伏見の民政・京都御所の警護・西国大名の往来の監視などを目的に設置した。敷地は組屋敷を含め3万坪。後で行く寺田屋に滞在していた坂本龍馬の捕縛にもここから役人が出動。明治になって陸軍工兵隊の兵舎、終戦後は駐留軍の駐屯地となり、現在は市営桃陵団地と桃陵中学になっている。
新撰組局長近藤勇は前年末墨染で襲撃を受け負傷。その後千葉流山で捕縛され、板橋で斬首。新撰組きっての剣士沖田総司は労咳で近藤とともに大阪で療養中。その後江戸で病死。土方は最後まで戦い函館五稜郭で戦死。永倉は出身の松前藩に帰参し小樽で天寿を全う。一方薩摩の砲兵隊を率いた大山弥助(巌)は出世し、日清・日露戦争では陸軍大将。ただ会津戦争では山本(新島)八重(弟三郎は鳥羽伏見戦で戦死)に鉄砲で右股を撃ち抜かれたと言われる。


  魚三郎の弾痕跡





鳥羽伏見の戦いでは、薩摩軍の兵糧炊き出し(炊事方)を努めた。正面右の格子戸に残る弾痕跡は幸いにも焼け残り激戦を今に伝えている。


  大黒寺

通称は薩摩寺(さつまでら)。初めは「長福寺」という名前だったが、元和元年(1615年)薩摩藩主島津義弘の守り本尊「出生大黒天」に因み、大黒天を本尊に寺名を改名した。本尊の大黒天は秘仏。
「金運清水」は、出世大黒天のパワーで金運アップ・資産増加のご利益。
西郷隆盛や大久保利通もこのお寺を訪れたそうで、二人が会談した部屋も保存されている。屋根瓦は、大黒天を模した像と、丸に十字の紋。
平田靱負(ゆきえ)の墓…平田は薩摩藩家老で、1753年(宝暦3年)幕府が薩摩藩に命じた木曽三川の分流工事を指揮した。この工事は財力を蓄える薩摩藩を恐れた幕府の弾圧政策による。大坂豪商から多大の借金を重ね、工事に派遣された藩士達の過労・伝染病による死亡や、幕府に抗議して切腹する藩士達が相次いだ。13ヶ月ほどで完成したが、平田は藩への多大な負担の責任を取り自害。享年50
寺田屋事件で犠牲となった薩摩藩勤王党有馬新七ら九士の墓がある。墓石の碑文は、西郷隆盛筆。天明の伏見義民(文殊九助ら7名)の遺髪塔もある。


  鳥羽伏見の戦いの激戦地跡(京橋)

伏見は、もともと交通の要衝ではあったが、江戸時代に入り、角倉了以の高瀬川開削後、ますます舟運が盛んとなった(大坂から30石船で伏見へ、伏見から高瀬舟で京へ)。また幕府の命で、参勤交代する西国大名は伏見を通ったので、伏見は賑わった(篤姫も江戸に向かう途中、伏見の薩摩藩邸に滞在)。
京橋〜蓬莱橋の一帯を伏見南浜港という。ここに本陣4軒・脇本陣2軒をはじめ、旅籠、積替・搬送の組織などがあり、伏見の中心であった。
鳥羽伏見戦の前日の12日、大坂を発った旧幕府軍15000名は、陸路を淀に向かう主力の幕府歩兵隊らと、淀川を船で遡って伏見京橋に上陸する会津藩らとに分かれ、会津藩は伏見御堂を宿所とした。翌3日旧幕府軍は薩摩軍と深夜まで戦うが防戦一方。4日旧幕府軍は淀方面に退却。退却時に民家に火をつけたので、多くの民家が被害を受けた。


  長州藩邸跡



長州藩の伏見藩邸は、元禄12年(1699)に当地に出来ている。長州藩は、1月3日〜5日の交戦では、大きな話題を残していない。








  寺田屋


寺田屋は伏見区南浜町にある船宿で江戸時代は大阪・伏見を結ぶ淀川の船旅の客で賑わった。また、薩摩藩の定宿でもあり、そのために幕末この寺田屋を舞台にして大きな二つの事件があった。それは@寺田屋騒動とA坂本龍馬襲撃事件である。
 現在の寺田屋はお龍の入ったという風呂や柱の刀傷の痕等があり、当時のままの建物であるかのように説明されているが実はこの辺りは“鳥羽伏見の戦い”で全焼されていて寺田屋もその時に焼失されているのでこの建物は明治に入ってから建てられたものである。


  土佐藩邸跡

土佐藩邸としては、塩屋町の藩邸の方が役割が高く、この南浜町の藩邸は、「御殿」部分はなくて、家臣の生活・労働の場であったと考えられる。このあたりには、人・物資の輸送を担った伏見伝馬所や、本陣・旅籠が並んでいた。
鳥羽伏見の戦いでは、土佐藩の藩士たちは、この戦いは薩摩・長州藩と会津・桑名藩の私闘であるという藩主の考えから、参戦を禁止されていた。藩主の山内容堂は、山内家は徳川家に恩があるため、幕府と敵対するつもりはなかった。しかし藩の大目付の板垣退助が、戦いが起こった時には薩摩藩に味方するように藩士たちに命じていたため、その一部は、薩摩藩とともに戦った。





  会津藩駐屯地跡(伏見御堂)



本願寺第11代宗主顕如の長男教如は、豊臣秀吉の怒りを買ったため隠居を命じられ、第12代宗主の地位は3男准如が継いだ。しかし教如は布教活動を続け、関ヶ原の戦いの直前、徳川家康から当地の寄進を受け、伏見御堂を創建。本堂は、家康の向島城の殿舎の遺構を改築したもの。その後東本願寺が独立。
鳥羽・伏見の戦では、伏見御堂は会津藩200名の宿所となった。戦では、本堂の畳を楯にして鉄砲の打ち合いがあったと言われる。堂舎は大きな損害を受けたため、明治18年東向きから南向きに縮小して建て替えられた。さらに本堂は平成26年に建替えが完成。
伏見御堂前の「四つ辻の四つ当り」は、城下町の町割りの特徴である。





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