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山科の古代から近世の史跡を訪れる

山科の南部椥辻の字名は、昔、この辺りに梛(なぎ)木の大樹があったことが「椥辻」の地名の由来とされている。区民誇りの木(梛木)が山科総合庁舎前(外環状線と新十条通の角)にある。この木は昭和51年(1976)、山科区が誕生した記念に植樹された。



  中臣遺跡

 石器時代後期(約2万年前)から室町時代(5百年前)までの集落遺跡で、古墳や竪穴住居跡が認められ、古墳跡からは須恵器等が出土、また出土した甕は百済地域作成であることから、古くから朝鮮半島との交流があったことが解る。
 中臣群衆墳は12基の横穴式石室であったといわれ、宅地開発によって現在2基だけが現存する。

 中臣の地名は、中臣鎌足に由来するもので、興福寺伽藍記にも「山階寺は斉明3年(
658)、始め鎌足内大臣山城国宇治郡山階の里に建立・・・」とある。
 古墳の一部は宮道古墳、稲荷塚古墳などの名称でよばれ、中臣十三塚古墳として現存しています。


  坂上田村麻呂墓

 平安初期の武将で、当時の平安京最大の課題であった蝦夷地平定に延暦20年(801)征夷大将軍として平定するなど、功績を挙げる。また弘仁元年(810)薬子の変の制圧にも寄与した。
 当時の嵯峨天皇から清水寺の地所を下賜されて、当寺の建立に当たった。晩年は粟田口に住まいしたが、没後、来栖野へ葬られた。遺骸には甲冑、弓矢をもたせ、平安京に向かって立ったままの姿勢で埋葬されたと伝える。
 田村麻呂は天平宝字2年(758)大納言苅田麻呂の二男として生まれた。
 桓武天皇に軍事的才能が認められ、延暦16年(797)鎮守府将軍征夷大将軍に任命され、4万の軍を率いて陸奥の兵乱の鎮定に功があった。文武の要官を歴任し、のちには大納言・右近衛大将となり、弘仁2年(811)5月23日、54歳で粟田の別壮において没した。


  宮道列子墓

平安時代初期の宇治郡郡司であった宮道弥益の娘列子は、狩りの途中に雨に遭い、宿を貸した藤原高藤との間に娘の胤子(たねこ)を出生した。後年高藤に引き取られた胤子は、成長して宇多天皇の皇后となり、醍醐天皇を出産した。
 醍醐天皇の時代は藤原時平、菅原道真を左右大臣として延喜の聖代とよばれ、 日本最初の勅撰和歌集、古今和歌集が生まれ、文学等が花開き、母の胤子は宮道弥益の居宅を寺としたといわれ、今の勧修寺がその場所である。
 宮道弥益は醍醐天皇の外祖父となり、内大臣となった。またその後、藤原高藤と列子の間に生まれた息子定方の子孫は、真言宗勧修寺派の流祖となる。


  中臣神社

この社は西野中臣町にある。稲荷神と中臣氏(藤原氏)の祖神天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神とする無格社で現在は山科神社のお旅所になっている。
 中臣鎌足の「かりもがり」【死人を埋葬する前、しばらくその死骸を棺にいれて安置する】跡とも伝えられ、俗に「鎌足塚」【約12個の小円墳が群集し、祭器土器などが出土した。世に13塚と称し、鎌足嬪車の址とつたえる。昭和46年発掘の際、周濠と横穴式石室の基底部のみを残す小円墳を検出し、石室内から7世紀前半代の須恵器数点が出土した。今は宅地。】よばれる古墳群の遥拝所を神社化したものと思われる。古墳はすべて消滅し、神社だけが残った一例である。


  山科神社

 祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)・稚武王(わかたけおう)を祀る。社伝によれば、寛平9年(897)宇多天皇の勅願によって創建されたという。  以後、この地の豪族宮道氏の祖神となる。社殿も大きかったがたびたびの兵火によって焼失し、江戸時代には「西岩屋大明神」「山科一の宮」とよばれており、延喜式明神大社山科神社との説もある。明治維新後に「山科神社」と改称された。
 三間社流造、檜皮葺の本殿は江戸時代初期の造営で京都市指おお定有形文化財。万治3年(1660)に建立された鳥居には「山城国宇治郡山科郷西山村」と刻まれている。大石良雄が当社に大願成就を祈願したと伝える。
 例祭は「山科祭」と呼ばれ10月10日に行われる。


  岩屋寺

 曹洞宗の寺で、その昔は山科神社の神宮寺であった。本尊は不動明王で、比叡山智証大師作といわれ大石良雄の念持物と伝えられている。本堂北東付近は大石良雄の隠棲地であった。赤穂城退去後、元禄14年(1701)年7月から翌年9月頃江戸に出発するまでの間、ここに隠れ住んだ。当地出身の赤穂藩士進藤源四郎の縁故により土地を手に入れ屋敷を新築し、ここに永住するようよそおったと伝えられる。
 主君の浅野長矩の位牌、四十七士の像、大石良雄の遺品等を安置しており、12月14日の義士忌には大石良雄らの羽織などの遺品を公開する。境内には大石良雄の遺髪塚や「大石良雄君隠棲旧址」の碑もある。碑筆は北垣国道。
 岩屋寺は西野山桜ノ馬場町の高台地にあり、境内から山科盆地からの見晴らしがよい。常時大石良雄等の遺物・遺品が一般公開される。
大石良雄辞世歌
「あらたのし 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」


  大石神社

 大石良雄を祀る神社で、昭和10年(1935)に浪曲家吉田大和之丞(奈良丸)らによって創建された。
 毎年12月14日「山科義士まつり」があり、山科毘沙門堂からここ大石神社まで義士に扮してパレードが行われる。
 昭和10年(1935)浪曲家吉田大和之丞(奈良丸)の特志により創建された。大石良雄を祭神として創祀された旧府社で、本殿以下拝殿・回廊・神撰所・儀式殿・社務所等の建物があり、末社に天野屋利兵衛を祀った義人社がある。毎年4月14日の春季大祭と12月14日の討ち入りの日には、義挙記念祭が行われる。
 境内は2300坪。稲荷の東麓に位置し、桜・つつじ・もみじ等が多く山上の緑と調和し、風情のある社頭である。


  折神稲荷神社

折上稲荷神社は伏見稲荷の次に稲荷大明神が降臨したといわれる。神社創建は和銅4年(711)【奈良平城京に遷都の翌年】。境内にはおよそ1500年前の古墳が現存し、中臣十三墳の一つとされている。
 倉稲魂神(うがのみたまのかみ)・保食神(うけもちのかみ)・稚産霊神(わかむすびのかみ)を祭神とする旧村社で、一に「来栖野稲荷」または「山科稲荷」ともよばれ、伏見稲荷大社の奥の宮として崇敬されている。とくに社名の「折上」は「織上げ」に通じるとして、近年は西陣の織物業者の信仰が厚い。
 社伝によれば、和銅4年(711)の創祀とつたえるが、あきらかでない。境内には「稲荷塚」と称する高さ約5m、周囲72mにおよぶ古墳【中臣群集墳中のひとつ、「中臣群集墳跡」としるした石碑が建つ】があって、ひとつの森をなしている。当社はこの古墳を信仰形態化したのが起こりであろう。
 孝明天皇は大嘗祭(だいじょうさい)に際し、長橋局をつかわして長命の箸を奉納せられた。これより毎年12月13日には健康長命祭が行なわれ、家内安全・厄除開運の長命箸が授与される。


  朝日神社

 当社は天照大神、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、徳川家康の三柱をお祀りしてある。三柱の神がこの地に祀られたのは、元文5年(1740)申年7月吉日である。
 この地は徳川3代将軍家光の息女、千代姫が取得し乙訓郡大山崎妙音観音寺に寄進され、享保年代に多くの移民によって開拓し、来栖野新田が生まれたと伝えられている。移民は主として、久世郡寺田村・紀井郡富森村・下鳥羽村などから移住し、鎮守の神として当社が創建されたという、以来今日まで275年間地域の平和と天災地変にご加護を祈る氏神として村人が厚く信仰している。
 来栖野(昔は来栖の小野)の朝日神社はこの付近の氏神で、元文5年(1740)に久世郡寺田村、紀伊郡冨森村・下鳥羽の付近の人達が開拓団として移住してきたときに創建された。
 それから275年、今日でも10月の秋祭りには、子供神輿、お稚児さん、屋台等が出て賑わう。小正月にはどんど焼き、9月には放生祭なども行われる。


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