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渡来人・秦氏の足跡を追って

朝鮮半島から渡来人のもたらした先進技術による歴史と文化が、その後の京都の発展に大きく影響を及ぼしました。 今回はその先進技術によって最も早く進化していった京都市の西北部、特に「秦氏」の本拠地である「太秦地区」を中心として渡来人の足跡を辿ってみました。




  蚕の社(かいこのやしろ)

 おおよそ1600年前、秦氏がこの地に渡来し最初に始めたのが「養蚕」と言われる。付随してと製糸・染色・機織の技術が発展、やがて全国に広まった。近世には世界有数の生糸生産国に発展、明治維新の近代化は、生糸・絹布の輸出が支えたと言われる。
 神社の正式名は、木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)、略して「木島神社(このしまじんじゃ)」という。境内には鬱蒼と木々が茂り遠方より眺めれば、木の島のように見えるので社名となった。一般には境内摂社の「蚕養神社(こかいじんじ)」に因んで「蚕の社」として親しまれている。

蚕養神社(こかいじんじゃ)境内摂社
 保食神(うけもちのかみ)を祀る。保食神は日本書紀に、牛・五穀・蚕などを生んだ神として現れる。養蚕・機織・染色・製糸等の技術によって繁栄した秦氏一族の氏神として創祀。養蚕・製糸・織物業者からの信仰厚く、参道脇に信者によって建立された末社や奉納碑が建つ。三井家(越後屋)の祖を祀る顕名神社(あきなじんじゃ)はその一つ。

三柱鳥居(みはしらとりい)
 本殿西の森の中に、三つ組み鳥居が建ち、その中央は宇宙の中心とされ、御幣を立てて三方から遥拝できるようになっている。
 三角形の頂点は、秦氏の聖地と云われる「稲荷山」「松尾山」「双ヶ丘」を指している。この地が秦氏一族繁栄の中心地であったことを物語っている。


  大酒神社(おおさけじんじゃ)

 秦氏一族の祖「秦始皇帝」・「弓月王」・「秦酒公」を祀る。以前は、広隆寺桂宮院の鎮守として広隆寺内にあったが、明治の神仏分離令によって現在の場所に遷された。

◆秦始皇帝(BC250頃)と秦氏の渡来時期とは500年ほどの年代差があるが、『新撰姓氏録』に秦氏は始皇帝の子孫と記されている。

◆弓月王(ゆづきのおう) 『日本書紀』応神天皇14年の条に、応神天皇の代に百済から12718670余人を導いて渡来とある。

◆秦酒公(はたのさけきみ) 弓月王の孫。『日本書紀』雄略天皇15年条(450頃)に、秦酒公が雄略天皇に献上した絹布や絹糸が「うず高く、さながら山の如く積み重ねてあった」ので、「禹都万佐(ウズマサ)」の号を賜り、この地を「うずまさ(太秦)」と呼ぶようになったと言われている。


  広隆寺(こうりゅうじ)

 日本書記の推古11603)年条に、聖徳太子(574622年)が家臣を集めて「尊像を祀る者はいないか」と聞いた時、泰河勝が進み出て仏像をもらい受け、建立したのが蜂岡寺(広隆寺)であるという。京都府下における最古の寺。

宝冠・弥勒菩薩半跏思惟像(ほうかん・みろくぼさつはんかしいぞう)
 国宝第1号で、「宝冠弥勒」で知られる。この宝冠弥勒像(像高84.2cm、材質赤松)は韓国中央博物館所蔵の弥勒菩薩像と作様が類似していることから、同一の作風を持つ仏師により造像されたと推定されている。ドイツの哲学者カール・ヤスパースは、この宝冠弥勒像の美しさを、「清らかさと円満さに満ちた、永遠の美の神」と表現している。

◆宝髻・弥勒菩薩半跏思惟像(ほうけい・みろくぼさつはんかしいぞう)国宝「泣き弥勒」で知られる。木像(材質樟、像高66.4cm)、聖徳太子の没後1年目の623年に、新羅から太子の供養として献上されたと伝わる。

◆講堂 重要文化財
1165(永万元)年に再建の寺内では最も古い建物。俗に「赤堂」とも呼ばれ、朱塗りの柱が残る。堂内中央に西方極楽浄土で説法している中品中生印を結ぶ国宝の阿弥陀如来像が安置され、脇侍として重要文化財の地蔵菩薩像と虚空蔵菩薩像を安置。 

◆上宮王院(じょうくうおういん)太子殿(本堂)
1730(享保15)年再建。本尊に聖徳太子像を祀る。この太子像は太子33歳の姿を写したとされている。歴代天皇が即位大礼でご着用になられた御束帯は、即位後に広隆寺に下賜される慣わしで聖徳太子像はこの御束帯を各天皇の御一代を通して羽織られている。
※御火焚祭 聖徳太子の忌日(1122日)に行われる祭。本堂で法要後、僧が総
出して護摩供を執り行い所願成就を祈る。当日は秘仏の聖徳太子像が開帳される。

◆桂宮院(けいくういん)八角円堂(国宝)
1251(建長3)年再建。この場所は、聖徳太子が仮宮殿・楓(桂)野別宮を建てられたところと伝えられ、広隆寺の奥の院と称されている。法隆寺夢殿と同型の優美な八角円堂。堂の中央に八角形の春日厨子があり、聖徳太子半跏像(重文)を安置。


  いさら井

 

井戸の石枠に「いさら井」と彫られている。京都民俗志・京都名所図会などに紹介されている古井戸であるが、その謂れは不明。

言語学者の佐伯好郎氏は、「いさらい」は「イスラエル」が訛ったものと言い、秦氏の祖先は古代キリスト教ユダ系民族説を裏付けられると説明している。

しかし、日本語の「いさらい」は、水の少ない井、少しの湧き水の意味で、この井戸はそう言うところからの呼び名と考えられる。

 和泉式部は「いさらい」を詠んだ次の歌を残している。
   “ いさらいのふかくの事はしらねども清水ぞ宿の主なりける ”



  安養寺跡(あんようじあと)





 飛鳥時代の太秦の地に「秦氏」が建立した寺院がもう一つあり、それは「安養寺」として伝えられている。秦氏の氏寺である「広隆寺」の西南に位置し、明治7年まで「安養寺村」があったが、この村の名前は安養寺に由来するという。 

『葛野郡安養寺村由緒』によれば、推古天皇24年に、新羅の王より薬師如来像が推古天皇に献上され、その如来像を秦河勝がこの安養寺を建てて安置したと伝えられている。
今もこの辺りの通り、橋、寄合所などに安養寺の名が残っている。






  蛇塚(へびづか)

 今から1500年余り前(6世紀〜7世紀)に築造の秦氏一族の首長クラスの墓と推測されている。古墳の形式は、横穴式石室「前方後円墳」で、古墳時代後期の古墳である。
 嵯峨野・太秦地区には、大小合わせて200基近い墳墓が確認されていて、その築造時期が秦氏繁栄の時期とほぼ一致していて、この地域が秦氏一族の一大勢力地であったことを物語っている。
 古墳規模は石室に限定すると、奈良県・明日香の石舞台古墳(蘇我馬子の墓)の石室にも匹敵するスケール。全国では、石舞台・三重県高倉山・岡山県こうもり山に次いで4番目、京都府内では最も大きい。昭和52年5月4日、国の史跡に指定。
 古墳の盛り土が全部取り壊されてしまい、後円部の巨石を用いた横穴式石室だけが表面に露出している。古墳の外形は、現在は附近に住宅が出来てわからなくなっているが、古墳全長75mと推測されている。以前は周囲に堀もあったと地元の人は伝えている。
 「蛇塚」の謂れは、露出した石室に蛇が生息し、岩石の間から出入りしていたため、いつからか蛇塚と呼ばれるようになった。土地の人の話では、江戸時代には周囲が竹藪になっていて、蛇がここに沢山いたので、人が近づけなかったという。


  嵯峨野高田町・福田寺

『太秦村誌』と『福田寺駒札』に、高句麗系渡来氏族で「日本書記」にも登場する高田首(たかだのおびと)が部民を率いて居住したのが起こりであるとの記述がある。
 この辺り一帯、秦氏の葛野川治水以前は、川の流れは自然の流れのままであり、耕作も人も住めない不毛の地であったことが想像される。秦氏は葛野川の治水に目をつけ、先ず堤防を築いて川の氾濫を防ぎ、次には、上流に堰を設けて(葛野大堰 )不毛の地に水路を引いて、耕作地を拡大していった。
 そこに、高田首が率いる渡来人の入植も始まり、長い年月をかけ耕作地を拡大して高田村が誕生していったと考えられる。平安京の時代を迎えると、都の一大農産地となり、葛野十二郷へと発展していった。


  罧原堤(ふしはらつつみ)

 渡月橋下流より桂川が南へ大きく流れを変える処に沿って築造されている。現在のような立派な堤の無い頃は恐らく桂川の水は増水すると東に流れ、太秦・西院あたりまで水浸しとなったと思われる。
 桂川の氾濫防止は、平安京維持の重要な課題で、平安時代当初より諸国から多くの役夫を集め修築工事が進められていた。それは「防葛野河使・かどのかし」という役所が設けられていたことでも知られる。現在の罧原堤は昭和39年改修。
*「罧」の字の意味は「柴を水中に積みて魚を集めて捕るしかけ」とあり、この辺りの河原 は川魚の魚場であったことが推測される。


距離や時間、場所など説明があればここに書いてください

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