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鉾町の古社を訪ねて


京都祇園祭の山鉾を出す町、室町、新町界隈には小さいもののいくつかの祠が存在します。そんな小さな祠ですが、鉾町から今も変わらず大切にされている古社を訪ねます。






  月鉾会所


鉾頭に新月型(みかづき)をつけているので、この名で呼ばれる。

真木のなかほどの「天王座」には月読尊(イザナギ尊が左目を洗った時に生まれた神様が天照大神、右目を洗った時に生まれたのが月読神で夜の国を支配する。ちなみに素蓋鳴尊は鼻から生まれた)が祠られていることに由来する。

軒裏には有職柄金箔押屋根の鳥衾(とりぶすま)に雲の浮彫を背景に、3本足の黒烏が丸彫で立体的に表現されている3本足の烏は太陽の象徴といわ れ、月の兎に対比する。軒桁には貝尽しの錺(かざり)金具で飾られ、下絵は松村景文作。大錺屋勘右衛門が造る飾金具が見事。柱は漆塗りに「風車文柱飾金具」破風に左甚五郎作といわれる兎が、その下で亀が兎を見ている。軒先まで花菱金具で飾られ金具類下絵は全て松村景文。屋根裏の絵は円山応挙の「金地彩色草木図(1784)天井周囲は皆川月華作金地着彩源 氏五十四帖扇面散図

天水引は「双鸞花鳥図「霊獸図刺繍で円山応震(孫)作。皆川月華作 黎明図湖で遊ぶ鳥の姿を描く。前?後掛はインドムガール段通。胴掛は18世紀のインド緞通。皆川月華作「四季草花図J文化13年西村楠亭の下絵「蘭亭曲水宴図

※天明の大火で町は焼けたが、人々の努力で鉾は無事であった。また元治元年に鉄砲焼けの戦火に見舞われたが、真木1本失っただけで、数多くの懸装品が焼失をまぬがれた。




大船鉾

後祭の籤取らずとして殿をつとめ、前祭の船鉾が出陣船鉾と称されるのに対し凱旋船鉾といわれ、500年余りの歴史を持ち、江戸時代の再三の大火に被災するも復興を繰り返してきた。幕末の元治元年(1864) 「蛤御門の変の大火にて木組や車輪を焼失し、それ以来巡行に参加することはなかった。

しかし幸いにもご神体人形や船を飾る大金幣、織物?刺繍の技術を使った大舵 や水引、前懸?後懸等の懸装品が焼失を免れ「居祭」として宵山飾りを続けてきた。近年町内で復興の機運が高まり、2012年より御神面の唐櫃を担い、囃子を伴い約140数年ぶりに巡行参加した。さらに各方面の援助により胴組木部? 車輪の復元が出来、屋根や装飾品を復元し、焼失より150年目にあたる平成267月、後祭り巡行への復帰を果たした。
御神体の神功皇后は仲哀天皇の后で応神天皇の母、応神天皇を身ごもりながら海を渡り、新羅高句麗百済を平定したといわれ、祇園祭では占出山? 船鉾・大船鉾が神功皇后を祭神としています。戦のゆくえを占うために鮎を釣られた姿を表しているのが占出山、戦に出陣する船を表しているのが船鉾、戦に勝って凱旋する船を表しているのが大船鉢です。そのため船鉾の御祭神は鎧姿ですが、大船鉾の御祭神は鎧を脱ぎ狩衣をまとったお姿です。また、船鉾には渡海の無事を守るために住吉明神鹿島明神・安曇磯良の三神がお供されている。


  郭巨山

中国の史話二十四孝の一人郭巨釜掘りの故事にちなんで造られ「釜掘り山」ともいわれる。山に飾る御神体(人形)の郭巨と童子は寛政元年(1789)全勝亭九右衛門利恭の作で前懸は天明(1785)年製の唐美人遊楽図の絽刺、胴懸は石田幽汀(1721?86)の下絵による呉道子描龍図と陳平飼虎図の刺繍で天明5年松屋源兵衛の作、見送は文化12(1815)年製で円山応震(1790?1838)の下絵による山水仙人図であったが、昭和58年から新しく上村松篁原画による秋草図前懸、花の汀図及び春雪図胴懸、都の春図見送りの綴織を順次新調した。後懸は阿国歌舞伎図綴織と古後懸に天明5年改修の黒ビロード地福禄寿図刺繍ある。この山に限って桐桜菊の欄縁の下に金地彩色宝相華文様の乳隠しが用いられ,また屋根覆いをかけている。

※膏薬辻子は四条通から中ほどで折れ曲がり綾小路通まで、幅2長さ160の狭い路地の名称である。この地域において、踊念仏で知られた空也上人が、天慶元年(938)、この地に道場を設けて念仏修業を始めた。天慶3(940)年に、天慶の乱により戦死した平将門の首が京都の町でさらされて以後、全国で天変地異が相次ぎ、平将門の怨念の仕業とされたため、各地で平将門の霊を鎮めるために首塚が築かれた。京都でも、空也上人が道場の一角に塚(現在の神田明神)を建てて供養したことから、空也供養の道場と呼ばれた。そして空也供養の発音が訛り、細い道を意味する辻子とあわせて、膏薬社子と呼ばれるようになった。またこの辺り祇園祭りには伯牙山(はくがやま)、郭巨山(かっきょやま)を 出すので多くの人で賑わいます。


  京都神田明神

御祭神は平将門命・大己貴命(おおなむち)?少彦名命(すくなひこな)

「拾遺都名所図会(しゅういみやこめいしょずえ)」は江戸時代、庶民の旅ブ ームにより名所記と呼ばれる、多くの旅行案内書が出されたものの一つです。 それによると、この辺りは天慶3年に平将門の首を晒したところという伝承が

ある。「後世ここに家を建てると祟りがあるというので、空也上人は将門の亡霊を神に祀って神田明神として崇め一宇の堂を建立したとある。

「案内板」によると「前略・・・古来よりこの地に小祠が祀られていたが、 このたび将門公を祀る東京の神田明神より御祭神をお迎えしました・・・後略」 とあるが、これは平成2612月に「社」を建てた時のことを指している。






  杉本家

杉本家は、代々呉服商を営んできた。初代は伊勢国の生まれで幼名を新八といった。14歳のとき京に出て、呉服商奈良屋勘兵衛のもとに奉公。38歳で礒貫新右衛門と改名、40歳の寛保3 (1743)年に奈良屋を引き継ぎ独立した。商圏は奉公先の出店があった常陸国や下総国。

京都の本店で仕入れ出店で販売する方針を取り、奈良屋の経営基盤を築いた。 以後代を重ねるごとに事業は披大し、本店所在地の通り名をとって綾小路の 三井さん」とまで呼ばれた。

杉本家が所在する矢田町は紙園祭の『伯牙山』という山鉢を維持保存してい る。杉本家はまに至るまで代々その中心的役割を果たしている。

当主はいずれも質素な暮らしを旨とした。一方江戸時代、米価高騰の折には難渋者を援けるなど利他の心映えがあった。杉本家は初代以来浄土真宗に深く帰依し、三代から七代までは本山西本願寺の直門徒となり、本山勘定役を務めた。また文化、文政、天保の世に生きた四代目、五代目は文雅な教養を身につけ、その伝統は八代目及び現当主の九代目にも引き継がれている。

初代が現在地を購入したのは明和元年1764)。現存の屋敷は明治3 (1870) 年の再建で、平成22 (2010)年、国の重要文化財に指定された。また翌年、庭園が名勝の指定を受けている.

奈良屋は八代目の昭和59 (1984)年に経営権を三越に移譲し、約240年にわたる事業の幕を閉じた。平成4(1992)年、財団法人奈良屋記念杉本家保存会が設立され、以来杉本家に伝わる膨大な帳簿や古文書の整理、研究が進められている。なかでも寛政2 (1790)年以来書き記された『歳中覚』(さいちゅうおぼえ)は中京区の商家のくらしやしきたり、年中行事の実態を知る上で大変貴重な資料といえる。



  伯牙山

伯牙山の旧名は琴破山。山?巡行は、かつては前祭後祭といって回に分けて行なわれていた。昭和41(1966)年、社会の大きな変化に対応するために前祭の日に統一されたが、平成26 (2014)年からまた元のように前祭?後祭に戻った。『歳中覚』の月を見ると、旧暦月に入ってすぐに巡行の準備をしている。それはここの矢田町が前祭だった。琴破山というのは、矢田町の山、伯牙山の古い名前で、矢田町には応仁の乱まで地蔵鉾という鉾があった。それ が戦乱で焼け、祇園祭も一時中断され、約30年後に再開されたとき、当時の町衆が中国の琴にかかわる故事にあやかり琴破山をつくった。ところが明治になって、新政府は山鉾の名前を音読みの漢字面に改めさせた。各町内は苦労して知恵を絞った。例えば花盗人山が保昌山、悪しゆう候山が浄妙山、というふうに。そのとき琴破山は伯牙山となった。戦後の一時期、杉本家では伯牙山の部材やご神体、山を飾る懸装品などすベてを預かっていた。

山の御神体は中国の周時代、琴の名人伯牙とその友人鐘子期との物語に取材。 伯牙が鍾子期の死を聞いてその琴の弦を断ったという故事をあらわしている。

人形は手に斧を持ち前に琴が置かれている。人形には金勝亭賽偃子(さいえ んし)」の墨書銘があり、天明以降の作と考えられている。

前懸には上下詩文、中央に人物風景の有名な「慶寿裂(けいじゆきれ) 」をかけその下に龍文の錦を用い、さらに人物図の押絵切付の水引によって飾ってい る。胴懸は花卉尾長鳥の綴錦で、見送には「柳絲軒」在銘の仙人図刺繍を用いている。蝶型の角金具は珍しい意匠である。





  大原神社





イザナミノミコトを祀り、八品大神事代主神を合殿とする旧村社社伝によると、弘仁2 (811)9月の勧請というが、その後の沿革は不詳。 天明8(1788)元治元年(1864)の大火で焼失し、現社殿はその後の再建。







  鶏鉾

中国の史話から取材、堯の時代に天下が良く治まり訴訟用の太鼓(諫鼓)(か んこ)も用がなく苔が生え鶏が巣を作ったという故事による。理想の天下を希求して鉾の趣向にしたといわれるが、現在の鉾からその趣向は見出だせない。

鉾頭の三角形の中の円形は鶏卵が諫鼓の中にあるという意味で、鶏鉾の名の象徴になっているともいわれているが、はっきりしたことは不明である。

天王座には航海の神といわれる「住吉明神を祠る。一番水引は松村呉春下絵の金地綴錦「唐宮廷楼閣人物図」。二番水引は呉春弟の景文下絵の赤地「春秋蝶図」。三番水引は円山迄挙下絵と伝える紺地に白の木瓜取り「生け花図の綴錦。天水引は前後を神獸文様で左右の胴部分は八坂神社の「金綴地木瓜巴紋唐撚糸駒詰総刺繍を新調した。人形は文久3年作で、大人びた顔立ちで、 鶏を飾った天冠をつけている。見送りは有名な毛織りで、トロイの皇子ヘクト一ルが妻子に別れを告げる図であるという。16世紀ベルギーで制作。江戸初期 に輸入されたもので、国の重要文化財に指定。近年住吉明神にちなんで清水寺の重要文化財絵馬「朱印船』の図柄を織り表した綴錦を用いる。
※見送の毛織物は、16世紀のベルギー、フランドル地方で製織された飾毛綴 壁掛で、滋賀県長浜祭の鳳凰山見送と対をなす。図柄は鯉山と同じく『イ 一リアスの一場面。


  白楽天山

山の主題は、唐の詩人白楽天が道林禅師に仏法の大意を問うところである。 道林禅師は、緞子地の紫衣を着け、藍色羅紗の帽子をかぶり手に数珠と払子を持ち松の上に座し、白楽天は唐織白地狩衣の衣裳に唐冠をかぶり笏を持って立っている。旧水引は明治5年の調製で孔雀や放鱗などの禽獣を金絲で繍いつめた刺繍、また前懸は文化5年新調された紺地雲龍文様刺繍裂と、万延元年(1860) 鐺螂山より買受けた毛織の三点継もある。毛織はトロイ城陥落のときアイネイアスが父を救出する図の優品であり、大津祭月宮殿山の見送と双幅である。見送はかつて麒麟龍鳳凰文様の綴錦であったが、昭和28年より山鹿清華作の北京 万寿山図の毛繰綿のものを用いている。また胴懸及び水引は昭和53年フランスから購入した17世紀製作の毛綴もある。


  山王社



山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、比叡山に鎮まる神を指したものである。山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、大山昨神と大物主神(または大国主神)を祭神とし、神仏習合期には「山王権現jや「日吉山王とも称され日本全国に約3,800社ある。応仁の乱前後には当社がみられる。




  船鉾

船鉾は応仁の乱以前より二基あり、この鉾は先祭のトリをつとめた『出陣の船鉾』といい、平成26年から復興し、後祭に巡行する『凱旋船鉾』と区別している。古事記や日本書紀に書かれた神功皇后が妊娠中にもかかわらず、皇子(応神天皇)が凱旋まで生まれぬように祈願して、男装で海戦して勝利し、皇子をお生みになったという神話によって全体を船の形にしている。
舳先には木彫総金箔置の「鷁(げき)」(宝暦10(1760)年に長谷川若狭作) という瑞鳥、鱸には精巧で明快な傑作、黒漆塗青貝螺鈿の「大舵(寛政4 (1792) 年の鶴澤探泉下絵)をつけ、船端には朱漆塗の高欄を巡らし、唐破風入母屋造りの屋根からは紅白の長旒と吹流しをひるがえす。鉾の上には古事記に構想を得て作られた、神功皇后と陪従する三神「磯良」「鹿島明神「住吉明神」を安置する。主神の神功皇后は神面をつけ緘(ひおどし)の軍装、その後に鹿島明神、舳先には海神安曇磯良が竜宮の満干珠を住吉明神に捧げている。皇后の神面(文安年間作、1444?1448)は古来安産に奇瑞があるといわれ、宮中でも尊敬され、明治天皇の御降誕の時には宮中へ参内している。皇后の神像は岩田帯をたくさん巻いて巡行するが、それを祭りの後、妊婦に授与され安産のお守りとされている。
神功皇后衣裳の水千「金地菊花文様唐織と大口袴「白地御簾文様金襴は平成22年に新調された。天水引は「草花文刺繍唐草文の鮮やかな色調で平成 4年に新調された。下水引は、同町出身で円山応挙門下の西村楠亭の下絵「金地雲龍文厚肉入刺繍で極彩色の彫刻かと思われる立体的な名品。
鹿島明神の持つ長刀は、井上和泉守真海(寛文年間1661?1672)作の銘品である。高襴下水引は平成21年に新調された。




  紅梅殿


菅原道真の邸宅跡で「拾芥抄」には「五条ノ坊門北、町面とあり、その付図東京図は綾小路南、五条坊門北、町尻小路西、西濶院東の方一町を示す。現綾西洞院町矢田町・船鉾町・菅大臣町の各一部分を含む。
弘安本北野天神縁起に丞相の御家は五条坊門、西洞院、めでたき紅梅ありければ、後人、紅梅殿とぞ名付ける」とあり、その呼称が邸内に植えられていた紅梅にちなむものであったことがわかる。この紅梅については道真自身が「菅家後集」の中で「梅花』と題して詠んでいる。
菅原道真は文章博士参議是善の子。宇多天皇に信任され、寛平3 (891)年に蔵人頭、以後異例の昇進を遂げ、昌泰2 (899)年、右大臣に任じられた。しかし、この異例の昇進や道真の娘が宇多天皇の女御に入ったことなどが藤原氏の反発をうけて、ついに昌泰4年に藤原時平によって大宰権帥に左遷され、延喜3 (903)年、太宰府で没した(公卿補任)。
この紅梅殿の紅梅にして「十訓抄には次のような話を記している。

こち吹ば匂ひをこせよ梅花、あるじなしとて春なわすれそ
とよみ置て、都を出て筑紫に移り給て後、かの紅梅殿の梅のかた枝とび参て生付にけり。ある時、此梅に向て。「故郷の花の物いふ世なりせば、いかにむかしのことをとはましとながめさせ給ければ、この木。先人於故宅、籬療於 旧年、麋鹿猶棲所、無主独碧天と申たるこそ、あさまし共あはれとも心も及ばれね。


  白梅殿



菅大臣天満宮とも称し、菅原道真を祭神とする。この地は菅原道真の旧宅跡で、古くは天神御所または白梅殿ともいわれたが、これにちなんで社殿を造営したのが当社の起である。

沿革は詳細ではないが、応仁の乱以前の景観を記すとされる中昔京師地図には五 条坊門(現仏光寺通)西洞院の東南部に「天神御所地」とある。社地は当時、方一町を占めていたが(坊目誌)、現在の社域は狭くなっている。また明治維新前は曼殊院門主の知行であったが、明治6 (1873)年に独立した。境内には本殿をはじめとして多くの摂社?末社が建ち、また菅公誕生水と称する井戸もあ る。なお仏光寺通を隔てて北には、北菅大臣神社が鎮座し、祭神を道真の父、 是善とするが、ここも道真の居館であった紅梅殿の跡と伝える。


  岩戸山



天岩戸を開いて天照大神の出現される日本神話から取材している。山とはいえ室町時代狩野永徳の「洛中洛外図屏風でみられる岩戸山にはすでに車輪が推かれており鈴と同じ車をつけた曳山である。鉾柱のかわりに屋上に真松を立てている。

三体の御神体(人形)を飾るが、天照大神は白衣姿で胸に鏡をかけ、脇に安置される手力雄尊(たじからお。戸隠大明神)は白衣に唐冠をかむり、屋根の上 には太刀をはき天瓊矛をつき出した伊弊諾尊(いざなみ)を安置している。屋根裏の金地著彩草花図は今尾景年(1845?1924) 73歳の筆、前後軒裏の金地著彩鶴舗図は弟子の中島華麗筆(昭和6)である。下水引は鳳凰瑞華彩雲岩に波文様紋織(平成15年復元新調)、二番水引は緋羅紗地宝相華文様刺繍、三番水引は 紺金地震三ツ巴五瓜唐花文様綴織(共に平成17年復元新調)、前懸は玉取獅子図中国絨穰、胴懸は唐草文様インド絨?である。別に旧前懸として17世紀李朝製で描絵玉取獅子、鳳凰、虎、鶴文様の朝鮮毛織のものが保存されている。見送は日月龍唐子嬉遊図の綴織(一部刺繍)を用いている。ほかに皆川泰蔵作の「ヴェ ネチア図」がある。また、平成23年には天井幕「白茶地五彩瑞雲文様」が新調さ れた。




  班女塚


今は昔、平安京のころ、このあたりには藤原氏の邸宅がありました。その庭の中島に弁財天を勧請したのが「班女の宮』のはじまりと伝わります。かつてこの町は「オハンニョ町」と称し皆でお宮を守り、お宮に守られながら暮らした町衆の歴史があります。時代は移り、一帯が商業の中心になった江戸時代頃から繁昌町と呼ばれるようになりました。(駒札)

鎌倉時代の逸話集宇治拾遺物語第3章の長門前司の娘の話 『この辺りに昔、長門前司の人の娘が住んでいた。姉は既に嫁いでいたが、妹の方はまだ結婚もせず厄介になっていた。その妹が病で死んだので、棺桶を鳥辺野へ運んでいった。だが、気が付くと棺桶は空っぽ。消えた遺体を探して戻ってみると、玄関先に遺体がある。翌日再び運ぶと遺体が消えて、また玄関先に置かれていた。しかも今度は遺体を動かすことができない。多分この地に葬って欲しいのだろうということで、この地に埋めてしまった。その後、姉もこの地を去り、人々も気味悪がって去ってしまい、この辺りは誰も住む者がな

くなったということである。』誰も訪れることもなさそうな場所に、小さな祠とその後ろに大きな岩が鎮座している。これが班女塚である。この塚は男性と縁のなかった女性を慰めるために設けられた塚であり、それ故、未婚の女性がこの前を通れば破談となるという言い伝えがある。

班女塚は通りから離れた場所にひっそりとあるのだが、班女」という名に 通じるということで、すぐそばの通りに面した場所には「繁盛神社という、 まことに御利益のありそうな神社が建っている。弁財天が祀られているが、こ の神社自体もかなり古くからこの地にあると言われている。


  繁盛社

今は昔、平安京のころ、このあたりには藤原氏の邸宅がありました。その庭の中島に弁財天を勧請したのが「班女の宮』のはじまりと伝わります。かつてこの町は「オハンニョ町」と称し皆でお宮を守り、お宮に守られながら暮らした町衆の歴史があります。時代は移り、一帯が商業の中心になった江戸時代頃から繁昌町と呼ばれるようになりました。(駒札)

鎌倉時代の逸話集宇治拾遺物語第3章の長門前司の娘の話 『この辺りに昔、長門前司の人の娘が住んでいた。姉は既に嫁いでいたが、妹の方はまだ結婚もせず厄介になっていた。その妹が病で死んだので、棺桶を鳥辺野へ運んでいった。だが、気が付くと棺桶は空っぽ。消えた遺体を探して戻ってみると、玄関先に遺体がある。翌日再び運ぶと遺体が消えて、また玄関先に置かれていた。しかも今度は遺体を動かすことができない。多分この地に葬って欲しいのだろうということで、この地に埋めてしまった。その後、姉もこの地を去り、人々も気味悪がって去ってしまい、この辺りは誰も住む者がな

  玉津島神社


現代でも多くの人が短歌、俳句、文章の上達に御利益のあるとする神社とし て有名。それと言うのも、平安時代末期から、鎌倉時代の初期を代表する、歌 人の藤原俊成(としなり)ゆかりの神社からである。

文治2(1186)年、後鳥羽天皇の勅命により藤原俊成の宅に、和歌山の玉津島神社に祀られている歌道の神、衣通郎姫(そとおしのいらつめ)を勧請したのが 始まり。ちなみに、藤原俊成の息子が百人一首を選定した藤原定家。

さて、それから遡ること3年の寿永2(1183)年、後白河法皇の命により、藤原俊成はこの邸宅を和歌所として「千載和歌集(せんざい))の編纂を始めた。この和歌集は平安時代に編纂された勅撰和歌集で1288首が収録されている。

その年は、木曽義仲が京に攻め入り、平家一門は都落ちするが、門下の一人である平忠度(たいらのただのり?平清盛の異母弟)は、危険を顧みずこの屋敷に引き返し、「一首なりとも選んで欲しい分の巻物を献じた逸話は有名。その一首はさざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな「志賀の古い都(大津の宮)はすっかり荒れ果ててしまったけれど、長等山の桜は昔と変わらず綺麗に咲いていると詠まれたものであった。

当時、平忠度は朝敵となっていたため、詠み人知らずとしてこの歌を掲載されている。

その後荒廃するも、江戸時代には北村季吟(きたむらきぎん)が約7年間、宮司を務め復興に成功。彼は松尾芭蕉の師といわれている人物で、万葉集の註釈書「万葉拾穂抄(まんようしゆうすいしよう)の編纂に励んだ。鳥居の前には 「北村季吟先生遺蹟石碑」という碑が建っている。

ちなみに松原通の通名は、当神社へ至る参道に松が並び植えられていたことによる。




  亀山藩碑


江戸時代前期に当地は、芸洲広島藩42万石、松平安芸守(芸州浅野氏)の京屋敷で、屋敷は間口11間、奥行き30間あった。その後、1730年頃、丹波篠山藩 5万石の形原松平紀伊守信岑(のぶみね)の京屋敷となった。

信岑は寛延元年(1748)に丹波亀山藩5万石に転封になる。以降歴代亀山藩主 は幕府の要職に就き、京都火消し役にもなり譜代大名として京都監視の重責を果たした。新政府となった慶応3(1867)年には、京都市中取締役も務め、明治 2 (1869)年の版籍奉還の時に、藩名を亀岡と改称した。

明治3 (1870)2月、この京屋敷は民有地となり、明治7(1874)には、この京屋敷三棟は稲荷焼で類焼した修徳小学校の仮校舍にも使用された。明治25 (2892)年の京都市第二高等小学校校舎(元成コ中学校)の建設時まで存続した。 〈中野之町亀山翻荷神社〉

亀山藩京都松原邸の鎮守の神として祀られていたのが亀山稲荷で、祭神は白瀧大明神と花月大明神である。かつては両祠があり、江戸期より衆人に尊崇され亀山講もあった。明治期より中野之町が奉祀する。大正5(1916)年の旧亀岡藩 士族有志の碑も存する。往時より、正月祭、初午祭、火焚祭(ひたきさい)を執行する。その霊験は諸厄除災、商売繁昌、家庭円満にあらたかと伝える。




  道祖社

『宇治拾遺物語』を訳すと

昔、道命阿闍梨という、傅殿(ふどの)?藤原道綱の子で、色欲に耽った僧がいた。和泉式部のもとに通っていた。読経の上手であった。彼が和泉式部のもとを訪れ寝ていたときのこと、目覚めて経を心静かに読み始め、八巻を読み終え、明け方に微睡(まどろ)みかけた頃に人の気配がしたので、そこにいるのは 誰だと問うと、私は五条西洞院の辺りに住む翁にございますと答えたので、それが何の用だと道命が問うと、この御経を今宵拝聴しましたことは、何度生まれ変わっても忘れられないと存じましてと言うので、道命が法華経を読むのは いつものことだ、なぜ今宵に限ってそんなことを言われるのかと言うと、五条の 斉(道祖神)は「身清めをされてからお読みになったときは、梵天、帝釈天をはじめ御聴聞なさるので、この翁が近くへ参っても拝聰できません。今夜は行水もなさらずお読みになったので、梵天。帝釈天も御聴聞なさらず、この翁が参り寄り拝聴できましたことが忘れ難いのです」と言った。それゆえ、僅か読み奉るにしても、身を清めて読み奉るべきである。念仏、読経、四威儀を破ってはならないと、恵心僧都も戒めておられる






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