>
このウォークの地図
                       第137回 史跡ウォーク (洛南支部)

醍醐の深部を探る

醍醐は、平安期から長い歴史を刻み特に世界遺産の登録された醍醐寺を始め多くの史跡が残る。過去に当会でも何度か尋ねたが、今回は醍醐一帯の埋もれた史跡と、古い民話や伝承などを加えながら探って行きます。


  醍醐寺


874年、理源大師聖宝が笠取山(醍醐山)の峰に輝く五色の雲を見て山に登ると、翁に出会った。翁は聖宝に「私は地主神の横尾明神である。お前がここに寺を建てるなら私が守りましょう」と言い、下に湧き出る水を飲み「ああ醍醐味なるかな」と言って消えた。醍醐とは、牛乳を精製した時の最高の味を指す。聖宝は閼伽井とし、如意輪観音と准胝観音を刻み祀ったのが醍醐寺のはじまり。応仁の乱で五重塔を除き伽藍のほとんどが焼失したが、1589年豊臣秀吉により、再興された。

三宝院唐門(勅使門)
1115年第14世座主勝覚が創建。歴代座主が居住し本坊的存在。唐門は、1599年建立された三間一戸の檜皮葺平唐門。最初大玄関左の塀にあったが、明治期に現在地に移築された。五七の桐、菊花紋に金箔。
六坊
三宝院から黒門に至る南北の道を通称六坊と呼ぶ。豊臣秀吉が左右に三坊ずつ寺を建てたと言われるが、現在この地域にあるのは、雨月茶屋・霊宝館・報恩院。雨月茶屋には恩賜館がある。霊宝館は、昭和5年建築、平成13年新増築された。建造物・安置諸尊以外の寺宝・伝承文化財が国宝・重要文化財7万点、未指定を含めると約10万点以上が安置されている。
醍醐寺西大門(通称仁王門)
豊臣秀頼が金堂再建の後1605年に再建。本来醍醐寺の正門は南大門であったが、この時西大門を正門とした。仁王像は仏師の勢増・仁増であるといい、像内の修理銘から1134年造立檜の寄木造りで高さは3.6m。


  太田垣蓮月仮寓跡史

趣のある茅葺き屋根の屋敷がある。ここはかつて勤皇歌人とうたわれた大田垣蓮月が2年半ほど過ごしたとされる下村家。屋移りの蓮月と云われ終の住処となる西賀茂神光院(1865慶応元年・蓮月75歳)へ。ここに一時富岡鉄斎も同居したとされ醍醐には数多くの鉄斎の絵が残っている。
大田垣蓮月
1791年〜1875年 京都三本木に生まれる。名は誠(のぶ)幕末〜明治の歌人、尼僧、陶芸家清廉孤高の生涯を送った蓮月は静かに北区西賀茂小谷墓地に眠っている。
辞世の和歌
願はくはのちの蓮(はちす)の花のうへにくもらぬ月を見るよしもがな



  万千代川

昔は豊富な水量があったと思われるが、現在は小川程度の水量。
 万千代川の名前は昔々、上醍醐寺に万千代と言うお稚児がいた。働き者で美男子であったが故に、先輩僧は我が物にしようと、万千代をめぐって争いが起き、遂に彼は悩み抜きこの川に身を投じた。この稚児の悲運を痛み、誰言うとなく 万千代川(まちよがわ)と呼ぶ。





  頼政道




源頼政は生没1104〜1180.摂津源氏(多田源氏)の源頼光の系統・、清盛の推挙で従三位に。治承4年(1180)4月、頼政と以仁王は諸国の源氏と大きな寺に平氏打倒を呼びかけた。頼政、以仁王を助け醍醐の山道を通ったので、村人達が「頼政路」と呼んだ。
乳母街道
以仁王の乳母が合いに来た。
烏橋
(からすばし)
「宇治雑誌」の一説に「頼政、以仁王を奉じて宇治に赴く路途、此の地を過る時、烏あり東道せしと伝う」とある。


  長尾天満宮



祭神は大己貴命(おおなむち)、須佐男命、菅原道真
天慶3年(940)又は天暦3年(949)2月25日の創建という。その後、火災にあい、社殿、旧記ことごとく焼失し、現在の社殿は、文政四4年4月(1821)の再建。
社殿の南に道真の衣装や遺髪の塚が建っている。


  理性院



理性院は、醍醐寺塔頭の一つで平安時代の僧、賢覚(けんがく)によって開かれ、三宝院、金剛王院、無量寿院、報恩院とならんで「醍醐五門跡」と呼ばれる門跡寺院である。
賢覚の父、賢同が住房とし理性院と号したのが始まり。本尊大元帥明王を中心として左右に不動明王と毘沙門天を安置。建物内非公開。南側に「千体地蔵」がある。先代の住職が集めたもの。





  赤間薬師

伏見区醍醐東裏町の集会所に現在安置されている薬師如来坐像。平安時代後期(12世紀後半)の創作であることが認められ京都市有形文化財として平成2年4月に指定を受ける。源平争乱期に赤間関から争乱を避けて移したとされる。
薬師堂の傍に醍醐三水の一つ赤間水あり






  朱雀天皇醍醐陵



第61代天皇。生没、延長元年(923)〜天暦6年(952)、在位、延長8年(930)〜天慶9年(946)。醍醐天皇の第11皇子。母は藤原穏子(藤原基経の娘、四女)3歳で皇太子、8歳で即位。母穏子は、道真の崇り、怨霊を恐れた。延長8年醍醐天皇の崩御を受け即位。性格は温和だったようで、30歳で崩御。その御陵も父の傍らに造らせた。





  醍醐天皇後山科陵

生没 885〜930 在位897〜930
第60代天皇。宇多天皇の第1皇子。母は内大臣藤原高藤(冬継の孫)の娘藤原胤子。藤原時平(父は基経)と菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。しかし換言により昌泰4年(901)右大臣菅原道真を左遷翌々年に死亡、。後、道真の怨霊を恐れ、譲位。延長8年9月29日に落飾して,同日崩御した。宝算46歳。御陵は京都市伏見区醍醐古道町にあり。後(のちの)山科陵と称したのは、天智天皇の山科陵に対称したものであろう。



  独鈷水



醍醐寺の周辺には、醍醐三水と呼ばれる湧き水がある。上醍醐の「醍醐水」、赤間の「威独水(赤間水)」、そしてこの「独鈷水(どっこすい)」。
弘法大師が三本足の白い亀の案内でここの地に来られた。その時、白い亀の示した所を弘法大師が手にした独鈷で掘られたら水が湧き出てきた、という言い伝えから名付けられた。かつては茶店があって賑わっていたそうだ。


地図を参考にしてください

Copyright (C) 2000 KYOTO SHISEKIGUIDE VOLUNTEER KYOKAI and KAMO SQUARE. All RightsReserved