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利休を訪ねて(大徳寺)

 大徳寺は、龍宝山と号し、別院2ヶ寺と21の塔頭がある。鎌倉末期正和4年(1315)に、大燈国師(宗峰妙超)により建立された。時は流れて、大徳寺は千利休の帰依を受けて以来、茶道とのかかわりが深く、千家の菩提寺である聚光院をはじめとして、計46の茶室があることから「大徳寺の茶面」と俗称されている。今回は千利休の志を求めて、大徳寺境内で関係の深い13ヶ所を巡りました。

 

  大徳寺総門

鎌倉時代の正和4年(1315)大燈国師(宗峰妙超しゅうほうみょうちょう)が紫野の地に小庵を建立して「大徳」と名づけたのに始まる。後醍醐天皇により「本朝無双の禅苑」として京都五山の上に置かれ、寺域も拡大した。しかしその後、室町幕府の保護を得られず五山十刹の九位に寺格を下げられた。そのため十刹の位を辞し、「林下」と呼ばれる在野の禅寺として独自の宗風を築いた。応仁の乱で一時荒廃したが、堺の豪商尾和宗臨の援助で、一休禅師によって復興された。
豊臣秀吉が織田信長の葬儀を盛大に挙行し、武将による塔頭建立が相次いだ。千利休の帰依を受けて以来、茶道とのかかわりが深い。
本坊は勅使門から山門、仏殿、法堂と南北に並び、後方に庫裏、東に方丈が配される禅宗寺院の典型的な伽藍配置を示している。(写真は勅使門)


  黄梅院

織田信長が父の信秀の追善菩提のため、永禄5年(1562)羽柴秀吉に命じて建立した小庵に始まり、大徳寺98世住持の春林宗俶しゅんりんそうしゅく和尚を開祖に迎えて「黄梅庵」と名づけられた。天正14年(1586)には秀吉により本堂と唐門が、天正17年(1589)には小早川隆景により庫裏と表門が改築され、この年に「黄梅院」と改められた。庫裏は禅宗寺院において現存する最古のものといわれている。利休の師である武野紹鴎たけのじょうおう好みとされる茶室や秀吉の希望により利休が作庭した枯山水の直中庭じきちゅうていがある。特に利休七哲筆頭の蒲生氏郷は千家再興へ尽力した。


  大徳寺山門

応仁の乱後、一休禅師の弟子である連歌師宗長等が一階部分を寄進、その後資金難により完成を見なかったが、天正17年(1589)に利休により二階部分が設けられ、「金毛閣」と名づけられた。上層内部には千利休木像を安置している。この木像がわらじ履きだあったため、不敬極まるということから秀吉の怒りにあい、利休を死にいたらせた(天正19228日自刃 70歳)といういわくつきの山門である。
大徳寺はその後秀吉によって、さらに危機にさらされて緊張をする一幕もあった。それは利休の山門木像事件に絡めて、大徳寺僧の磔と大徳寺破却を考えていたことである。しかし大徳寺僧の磔や、大徳寺破却の話は秀吉の母大政所や豊臣秀長の未亡人の努力、大徳寺117世住持古渓宗陳の命をかけた抗議により阻止された。大徳寺はお茶を通じて各地の戦国大名に浸透を図り、堺の豪商や茶人を帰依者にして進展を図った。大徳寺は戦国期に活路を見出そうとする者にとっては、魅力ある存在となっていた。故に、秀吉は信長葬礼の場に大徳寺を選んだのであり、めくばりも怠ることはなかったのである。


  三玄院

春屋宗園しゅんおくそうえん(大宝円鑑国師)を開祖として、天正17年(1589)に浅野幸長、石田三成、森忠正が施主となり建立された。沢庵や宗旦もここで修行した。
また黒田長政、古田織部、小堀遠州、長谷川等伯らは国師を深く尊敬した弟子である。三玄院は石田三成が葬られている。利休の後援者の最高位を占めたのが秀吉の実弟羽柴秀長であったが、秀長が世を去ると、三成は豊臣政権内で強力な権力を握るが、関ヶ原の戦いで敗れ、京都六条河原で処刑された。遺骸は大徳寺の春屋宗園に引き取られて、三玄院に埋葬された。


  大徳寺本坊

国宝の方丈、唐門、や江戸時代初期の枯山水の庭園(小堀遠州作)がある。方丈内の襖絵80余面はすべて狩野探幽作で重文。法堂の天井には探幽35歳の時に描いた龍もある。
・唐門(国宝);元は天正15年(1587)に落成した聚楽第の正門。俗に、桃山時代の三唐門の一つとされている。利休は当時、「天下一の茶の湯の宗匠」として聚楽第にも出仕しお手前もしていた。

 この門が有名なのは、建築としてよりも、それを飾っている彫刻の豪華さ豊富さにある。別名、一日中見ていても飽きないことから「日暮しの門」と呼ばれている。


  真珠庵

永享年間(14291441)、一休禅師(宗純)を開祖として創建された。しかし応仁の乱で焼失して、延徳3年(1491)、堺の富商尾和宗臨おわそうりんによって再建された。客殿東の庭園は、茶祖村田珠光の作と伝えられ、15の石を7・5・3に配した、室町時代を代表する石庭の一つである。村田珠光はわび茶の開祖といわれる。利休は彼を尊敬し思慕した。20歳で一休宗純の弟子となり、ここで初めて茶を学んだ。中国風(唐風)の茶『椅子と机の茶』を廃し、畳の上での茶の湯を考え出した。


  大仙院

永正6年(1509)近江の国守六角高頼の実弟、大聖国師古嶽こがく和尚が開祖。方丈は国宝、庭園は特別史跡名勝庭園に指定されている。その庭石は足利義政寄贈といわれ、開祖である古嶽和尚の自らの作庭と考えられる室町時代の代表的な枯山水庭園である。遠近法を巧みに利用して水墨山水画を見るような風景を展開している。
秀吉が利休と共に訪れ、秀吉に茶を立てたという部屋がある。また秀吉が花を活けよと指示したところ、利休は庭石の上に利休花を活けたという逸話も残っている。
大仙院の玄関や茶室の床の間はいずれもそれらのルーツといわれている。


  芳春院




慶長13年(1608)玉室宗珀和尚を開祖として、加賀の前田利家夫人松子が子供の利長、利常とともに建立し、松子の法名をもって芳春院となづけた。その後焼失するが、寛政10年(1798)前田家の援助により再興した。前田利家は利休の人格、才能を認めて手厚くもてなした。利休が秀吉の怒りをかい、堺へ追放後も、利休から秀吉に詫びるよう勧めたが、利休は断った。利休自刃の後、会津若松に蟄居していた利休の養子・少庵の赦免にも尽力した。



  聚光院

永禄9年(1566)三好義嗣よしつぐが、亡父三好長慶ながよしの菩提を弔うため、大徳寺107世笑嶺宗訴しょうれいそうきん和尚に参禅した千利休は檀家となり寺の創建作庭に奉仕した。
また、永代供養料を寄進し、自らの墓所と定めた。それを取り囲むように茶道三千家一族の墓が立ち並び、三千家の菩提寺となっている。利休作の庭園「百石の庭」、利休好みの茶室「閑隠席」、「枡床席」がある。現在も、利休の月命日である28日には、三千家交代で法要茶会が開かれ、茶道修行者の参拝の絶えることはない。

千利休
大永2年〜天正19年(152291)現代に続く茶道の大成者。堺の納屋衆と呼ばれる豪商の千与兵衛の子として生まれた。名は与四郎、法名は宗易。早くから茶の湯に親しみ、17歳で武野紹鴎たけのじょうおうに師事して、村田珠光が創始したわび茶を学んだ。その習得の過程で、大徳寺大林宗套だいりんそうとうに禅を学び、茶禅一味を唱えて、わび茶を大成した。
利休は大徳寺山門事件で自刃したが、命と引き換えに茶の文化を後世に残したといえる。利休の美意識は日本人の生活文化・・・料理、茶室建築から派生する住宅意匠に色調の感覚などに大きな影響を与えた。


  総見院





信長の墓所であり、本堂には信長の木像、位牌がある。天正11年(1583)信長の一周忌に間に合うようにと秀吉が建立した。開祖は大徳寺117世古渓宗陳和尚。
古渓宗陳和尚は天正元年、堺の南宗寺から大徳寺住持になり、堺時代に知り合った利休より祝儀を受けている。
天正1338日、秀吉は京と堺の衆百数十人を招き、大徳寺大茶会を総見院で開いている。このとき利休と津田宗及が亭主をつとめている。



  高桐院



利休門下の茶人であった細川忠興(三斎)が父藤孝(幽斎)のために慶長6年(1601)に建立した細川家の菩提寺。開祖は藤孝舎弟の玉甫紹宗ぎょくほじょうそう和尚。
細川忠興は大名茶人で利休七哲のひとりで、利休の茶の湯を最も忠実に伝えたといわれている。
高桐院には忠興とガラシャ夫人の墓石となっている石灯籠がある。生前に利休にもらった物で、かつて秀吉が利休に所望したことがあったが、利休は裏面を3分の1ほど削り取り、傷ものになったからと断り、忠興に譲り渡したもの。忠興はこれを大変気に入り、参勤交代の時もこの石灯籠を持ち歩いたという。



  龍光院




慶長
11年(1606)大名の黒田長政が父の如水の菩提寺として造営、開祖は春屋宗園。黒田如水(官兵衛)の屋敷は、聚楽第の利休の屋敷と隣同士で、茶の湯では利休の弟子。如水は生前、大徳寺住持の春屋宗園と大変仲が良く、和尚のもとに参禅していたこともあって、菩提寺とされた。春屋和尚は当院に住み、当院で亡くなっている。


  大光院



文禄元年(1592)豊臣秀吉の弟豊臣秀長の菩提寺として奈良・大和郡山に創建された。開祖は大徳寺古渓宗陳和尚。その後慶長4年(1599)秀長の家臣・藤堂高虎によって、大徳寺山内の高桐院の西方に移転された。
豊臣秀長は利休最大の理解者であり、後援者であった。天正144月に九州の戦国大名の大友宗麟が秀吉に助けを求めて大坂城を訪れた時に、秀長は宗麟に「内々の儀は利休に、公儀の事は秀長に」と耳打ちして安心させた。それほど利休は信頼され、強大な力を有していたという逸話が残っている。


本日は千利休と関係の深いところをめぐりました。外からの案内となりましたが、是非寺内も拝観して欲しいと思います。日本の美の原点に出合えると思います。

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