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旧東海道線を歩く

@ 百夜通いの榧の木→A旧国鉄山科駅→B大宅廃寺跡→C歓喜光寺→D大宅一里塚→E岩屋神社→F笠原寺→G妙見寺→H宝迎寺

  百夜通いの榧の木



平安時代。絶世の美女の噂された小野小町に、深草少将は心を奪われていた。「百夜通えば思いのままに」と小町。毎夜、伏見から小町のもとに通いつめたが、ちょうど百日目の晩、吹雪に遭ってそのまま行き倒れに。少将の無念を思い、小町は糸に通して数えていた榧の実を里にまいたところ、やがて99本の大木に育ったという。その名残の「小町榧」の大木は、戦前まであちこちで見られたがその後の開発とともに次々と姿を消すこととなる。
も残る「小町榧」は、小町邸跡と伝わる随心院一帯に3本。いずれもしめ縄がはられ、「神木」としてあがめられている。信仰の対象だけに剪定などされず、つやのない葉がうっそうと茂る状態が続いています。


  旧山科駅(名神高速起工の地)


明治になって日本で最初に鉄道路線が開通したのは新橋―横浜間ですが、そして日本で三番目が京都―大津間の路線でした。 明治13(1880)年7月14日に開業しました。また、平地しか走れなかった鉄道が、逢坂山など初めて山間部を通ることになった点でも画期的なことでした。当時は「大津神戸鉄道」と呼び、開業時には一日10往復の列車が走り、京都―山科間を21、22分、山科―馬場間を42、43分間かかったということです。
名神高速道路は、日本で最初の有料高速自動車国道として、昭和32(1957)年に着工、昭和38(1963)年に滋賀県栗東町から兵庫県尼崎間71kmが最初に開通し、昭和40(1965)年7月に全線が開通しました。総距離は193.9kmで、愛知県小牧市を起点として、彦根市・大津市・京都市・吹田市を経て、兵庫県西宮市(西宮IC)を終点としています。




  大宅廃寺跡


昭和33(1958)年に名神高速道路建設工事に伴って、大宅で寺院の伽藍跡が発見され、大宅廃寺跡ではないかと見られています。これまでの調査では、東西27m、南北約15mの石積基壇や、南北に並んだ四棟の掘立柱建物、土檀状遺構などが発見されています。出土品などから創建は白鳳時代であり、平安時代前期に一度全焼しましたが、その後に小規模な堂が建てられたものと思われます。
大宅廃寺は、山階(やましな)寺であるとする説や、平安前期大領(郡司の
長官)宮道弥益が妻(大宅氏)のために建てられた堂である説などがあります


  歓喜光寺

六条場道「紫苔山河原院」と号した時宗の寺です。元は京府下(山城国」八幡にあって善導寺と称した。この寺は、一遍上ところで、人の従弟聖戒上人が開いたところで、上人に深く帰依した九条忠教が正安元(1299)年に京都六条河原の源融邸跡の400メートル四方の土地を寺に寄進し、堂舎を造営して移らせ、河原院「歓喜光寺」としたものであり、その後、豊臣秀吉の都市計画の時にも寺町錦小路東入(現在の新京極錦)に移転する。
明治40(
1907)年5月、東山五条にあった法国寺と合併。現在の本堂は、法国寺のもので、これは、慶長6(1601)年に豊臣秀頼が母公淀君が現世と来世の二世安楽を祈願のため建立されたものと伝えられている。現在は京都府指定文化財に認定されています。
昭和50(
1975)年5月、現在の大宅の地に公共事業協力のため京都市の要請で、移転して来たが、本堂及び地蔵堂は解体復元建立し、庫裡・書院・御供所などは新築された。




  大宅一里塚

京都府では唯一する一里塚で昭和60年市の史跡に登録されています。「一里塚」は、江戸時代の慶長9(1604)年、徳川家康が、主要な街道に一里(約4km)ごとに塚を盛り、榎や松を植えて距離や位置を示す塚のことで、旅人のための里程標となった。奈良街道の一里塚は、以前は道の両側にあったのですが、道路拡幅により現在では西側のみになりました。



  岩屋神社

社伝によれば、「発祥は仁徳天皇31年」と言われていますが、宇多天皇時代(887〜897)の創建であると言い、平安末期の治承年間(1177〜1180)に「園城寺僧徒の焼くところとなり、旧記も共に失う」とされ「弘長2(1262)年に至って社殿は再建され今日に至る」とされています。祭神は天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)、栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)の夫婦二柱と、その皇子・にぎはや日命の親子三柱とされています。地名に「岩屋殿」(奥の院の町目)が残っています。にぎはや日命は、物部氏の祖ともさています。
一般に「山科祭り」と言われている祭りは、当初はこの岩屋神社の祭りを指したものと考えられています。地元の方の話では、山階中の「御輿」が現在の椥辻付近に集合して巡行したということです。中世には京洛の祇園祭にも劣らないぐらいの盛大なものだったようです。


  笠原寺

弘法大師1150年御遠忌(昭和59年)の記念事業として開山主笠原政江尼が発願し、有縁の方々、ご信徒各位のご信援のもと昭和58年10月建立されました。大本山川崎大師平間寺の京都別院として、御本尊、厄除弘法大師のご分躰を勧請し、奉安しています。ここは一日尼僧修行体験ができる寺です。


  妙見寺

「妙見信仰」とは、寿福・開運・厄除けのご利益があるとされ、特に「妙見菩薩は眼の病が治る」と、眼病祈願の人々が多く訪れたといい、地元では、妙見寺より単に「妙見さん」と呼ばれています。
同寺には今も、明和・安永(
1764〜1781)頃の絵馬やその他の什宝が残されてるといい、そして日ノ岡峠から妙見寺に至る道が「妙見道」と称されていることからも、当時の賑わいの様子がうかがえます。因みに、現在も堂に安置され、眼病に霊験あらたかとされる「妙見さん」は、33年に一回、開帳されるとのことです。
旧国鉄は、この場所は当時の山科駅(小野)と大谷駅との中間にあたり、「信号所」が設けられ、また「引き込みが線」もありました。その一部が残されています。




宝迎寺




大塚村の郷士の家を寺に改修したもので、長屋門を表門とし、主屋(本堂)は平屋建、正面左手に式台付玄関を設けている。
浄土宗宝迎寺は、西鶴「好色五人女」の主人公おさんと茂兵衛の墓がある
ことで知られています。墓は、小五輪卒塔婆で、元は日ノ岡峠の粟田刑場跡があったものを当寺に移したものです。
「おさん茂兵衛事件」というのは、江戸
時代の実際にあった不倫事件を脚色した小説、戯曲の登場人物名です。






当日は好天で、122人の参加者と会員28人、合計150人でのウォークとなりました。

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