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水無瀬の桜と文学の里を歩く

街の中心を西国街道が通り、東に桂川・宇治川・木津川の三川合流し淀川となる。平安時代から都の外港として山崎の津が発展し、水無瀬は水陸両交通の要衝として栄え、多くの歌人に詠われた。また、後鳥羽院の離宮の水は名水百選に選ばれ、サントリーの蒸留所もある。

  高浜砲台跡



この砲台は、
江戸末期に大阪湾から京都に侵入する外国船に備え、淀川左岸の楠葉と、右岸の島本町(高浜)に築いたもの。慶応2年(1866)に完成。
明治元年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いに敗れた幕軍は、最後の砦として楠葉の砲台(小浜藩酒井家)と水無瀬の高浜砲台(津藩藤堂家)で、薩長軍を要撃する体制をとったが、1月6日になって突然高浜の藤堂家が裏切り、味方であるはずの対岸の楠葉の砲台に向かって砲撃を開始した。楠葉の砲台も応戦したが、幕軍は虚を突かれ大阪方面へ撤退。
この戦いで、鳥羽伏見の戦いは官軍(薩長軍)の勝利で終焉


  谷崎潤一郎の小説『蘆刈』の舞台

「蘆刈」の舞台に立つ文学碑

『文豪谷崎潤一郎は、昭和7年、天王山の麓、淀川べりの水無瀬を舞台に、男女の妖しい幽玄の世界を描いた異色の作品『蘆刈』を発表した。谷崎は中秋の名月の夕べ、ふらりと水無瀬を訪れ、後鳥羽上皇の水無瀬離宮跡にたたずみ、素晴らしい景色を眺めながらこの物語を随筆風にまとめあげました。淀川の中洲で月を待っている時に現れた奇妙な男の話がそのままストーリーになっています。』
谷崎潤一郎は、『増鏡』を読んだ時から水無瀬の宮のことが頭の中にあり、特に増鏡の第1巻『おどろの下』の下記の歌が好きで、昭和79月に初めて水瀬神宮を訪れた。

見わたせば山もとかすむみなせ川 ゆうべは秋と何おもひけむ  後鳥羽院

『蘆刈』は、冒頭にこの歌を載せて始まる。淀川の中洲で一人月見をしている《わたし》が、同じく川の中洲で出会った男から不思議な身の上話を聞く・・・という小説。
その中洲にたたずむ《男》が語るのは、世間離れした、主人公《お遊さん》を通じて、平安朝を彷彿させる幽遠な夢玄能の世界を描きだしている。


  水無瀬神宮(水無瀬離宮跡)

神宮の沿革
82代後鳥羽天皇は第83代土御門天皇に譲位後、この地に水無瀬殿を造営、水無瀬離宮と称された。承久の乱隠岐配流され崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、臣下の水無瀬信成(のぶなり)親成(ちかなり)親子がこの水無瀬離宮の旧跡に御影堂を建立、上皇を祀ったことに始まる。明治6年に土御門天皇と順徳天皇を合祀。

後鳥羽上皇の水無瀬への想い
後鳥羽上皇は、配流された隠岐においても、この水無瀬の地を想い、水無瀬を忍んだ次の歌を詠んでいる。
水無瀬山わがふるさとは荒れぬらむ まがきは野らと人もかよはで

また、後鳥羽上皇は崩御する13日前に、臣下の水無瀬信成親子に自分の往生が近いとして、「水無瀬に菩提を弔うようにせよ」と、上皇の手形(手印)が付された勅書(遺言状)を送っている。この勅書・国宝「後鳥羽上皇宸翰御手印御置文」は京都国立博物館に保管。

<~門>
大盗賊・石川五右衛門の手形が門柱に保存されている。五右衛門は、当宮に祀られた名刀を盗みに入ろうと三日三夜、竹藪の中に潜みうかがうも足がすくみ門内に入ること出来ず立ち去る時に門柱に自分の手形を押して、改心の証を残したと伝えられている。

<燈心亭> 重要文化財
後水尾天皇より下賜されたと伝わる。格天井には、葭(あし)、萩(はぎ)、蒲(がま)など灯芯になる植物の絵が張り詰められており、茶室の名前の由来となっている。

<離宮の水>
「全国名水百選」に選ばれている大阪府内では唯一の名水。千利休も好んで使ったといわれ、今も毎年、茶道三千家や他家元が、燈心亭で献茶式を催している。

<水無瀬駒>
水無瀬神宮の宮司を務める水無瀬家には、約400年間伝わる「水無瀬駒」がある。第13代水無瀬兼成(1514年〜1602年)は能書家として知られ、正親町上皇の勅命により、将棋の駒の銘を書いたのが始まり。島本町立歴史文化資料館に展示されている。


   水無瀬川

水無瀬川は「表面には流れは見えないが、地下に水が伏流している川」を意味する普通名詞であるが、「忍ぶ恋を象徴する言葉」のイメージから歌枕といて詠われてきた。都が平安京に遷り山陽道(西国街道)がこの川を渡るようになると「水無瀬川」のイメージが変質し、特定の川(ここの水無瀬川)を指す歌枕にもなった。
夜もすがら秋の有明を水無瀬川 結ばぬ袖にやどる月かな                        後鳥羽院

春の色をいく萬代か水無瀬川 霞のほらの苔のみとりに 
                     藤原定家


君もまた千とせや影を水無瀬川 くもらぬ御代の春の光に
                     藤原俊成


水無瀬川やまもとかすむ面かけの むかしも遠き春の夕暮れ
                       本居宣長

後鳥羽上皇は水無瀬離宮で度々歌合せの会を催している。その度に、藤原定家は離宮に伺候している。「明月記」には、水無瀬離宮の歌会に30回の伺候が記録されている。




   西国街道

街道は、島本町広瀬の街の中央を通る。淀川に現在のような堤防の無かった時代、淀川が増水すると、この辺りが岸辺(広い瀬)となり、増水による街道の埋没を避けるため、瀬の外側に道を通したことが窺われる。
この地は戦乱の度に天下分け目の合戦地(秀吉軍と光秀軍の山崎の戦い等)となり、そのたびに街は消失、歴史の古い街であるが地元に残る建造物や資料が少なく、多くの古典に残る水無瀬の記述を集め、町の歴史が補完されている。


  東大寺水無瀬別荘跡

水無瀬荘は、奈良の東大寺造営中の天平勝宝年間(749756)に聖武天皇の勅により東大寺領となり「東大寺水無瀬荘」として室町時代末期頃まで続いた。この荘園を描いた、正倉院蔵の『摂津国水無瀬庄絵図』は日本最古の絵図として荘園の様子をよく伝えている。
「東大寺水無瀬荘」となった当時、この地における生産性は低いと推測され、収益という観点からは大きな意味は無かったと思われる。この時代、東大寺の造営がたけなわの時期で、西国の東大寺領荘園から物資の輸送が盛んで、水陸交通の要衝に位置する水無瀬荘は、東大寺への物資の中継点としての機能を持っていたと推測される。水無瀬荘から木津川の船運で、また対岸楠葉から交野を越え奈良に輸送されていたことが考えられる。
鎌倉期に入ってもなお東大寺の直接支配は続いていたが、南北朝以降になると、近辺の武士勢力の侵害が激しくなり、東大寺は直接支配を維持することが出来ず、代官による請負体制へと転換した。そして、
戦国期の混乱の中、「東大寺水無瀬荘」は、時代の流れによって台頭してきた武士勢力の侵害によって消えていった。


   惟喬親王の離宮跡

後鳥羽上皇の水無瀬離宮から遡ること約300年前、この地に惟喬親王(文徳天皇皇子)の離宮があったことが伊勢物語にある。

伊勢物語82
「むかし、惟喬の親王と申す親王おわしましけり。山崎のあなたに、水無瀬という所に宮ありけり。年ごとの桜のはなざかりには、その宮へなむおわしましける。その時、右のうまの頭なりける人(在原業平)を、常に率ておわしましけり。・・・狩りはねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。・・・」
その宮の場所は特定できないが、島本町百山地区の積水化学研究所や小野薬品の建物が並ぶ辺りと推定されている。


  桜井の駅跡




太平記の名場面「桜井の駅」楠公父子の別れの旧跡。この話は歴史史話としてよりも、明治より学校教育の国史修身で「忠君の父子」の一場面として、二宮尊徳などと並び広く国民に語られた。
延元元年(1336516日、楠正成は都より700騎を率いて、九州から攻め上ってくる足利尊氏軍50万を迎え討つべく西国街道を西に向う。途中、桜井の駅で軍を止めて、皆に「多勢の尊氏軍に立ち向かうには、その兵糧を絶ち、その後に新田義貞軍とで挟み打ちをすると、後醍醐天皇に提言したが天皇の側近達は、それは天皇軍の姿でないと反対されてた。」と話した後、11歳の長男正行を呼び寄せ「この戦いは勝てる見込みのない不覚の戦いとなる。討ち死にの覚悟で行く。お前は河内に帰り母に孝し一族を永く率いて天皇に尽くせよ」と、父と共に行きたいと願う正行をさとし、形見に天皇から下賜された菊水の短刀を渡す。正行は西国街道を西進する父を涙を堪えて見送る。



楠正成:正行と別れて9日後、兵庫湊川で足利軍と戦い敗れる。農家の小屋にて、弟正季と七生報国を誓い刺違えて自決。

楠正行:父と別れて、12年後の正平3年(1348)四条畷にて高師直(こうのもろなお)が率いる足利本陣目がけて最後の戦いを行うが敗れ、弟正時と刺違えて自決。








距離や時間、場所など説明があればここに書いてください