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宇治川流域の古跡を巡る(合戦とお茶)

宇治は、奈良方面、東国から宇治川を渡って京に入る入口であり、交通・軍事の要地であった。また、宇治川に臨んだ景勝の地・リゾートでもあった。このため歴史上数多くの合戦の舞台となるとともに、藤原道長をはじめ多くの貴族がここに別荘を置いた。そして、宇治茶の産地として繁栄した。          

  菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)墓

 菟道稚郎子は応神天皇の子で後の仁徳天皇の弟にあたる。応神天皇の溺愛を受け皇太子に即位するが、応神天皇崩御後、兄である大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)・大山守皇子(おおやまもりのみこ)との皇位継承争いを起こし、自ら命を絶ったと伝えられている。三人の複雑な関係から、皇位継承において争乱が起こったことは充分想像出来るが、「古事記」では郎子は夭折したとされ、「播磨国風土記」では宇治の天皇と記されるなど、異説も多い。



  太閤堤跡

看板前…宇治川の水は、山峡部から平坦部に出たところで遊水池である巨椋池に流入していた。豊臣秀吉は伏見城築造に伴い、水運・交通・治水のために川の流れを巨椋池から分離し(槙島堤)、新しく大和街道を開いた(小倉堤)。平成19年、発掘調査により填島堤の右岸施設(太閤堤)が発見された。

右岸堤防…寿永3年(1184)、生月(いけづき)に跨る佐々木四郎高綱が摺墨(するすみ)に跨る梶原源太景季をかわし、宇治川先陣の名乗りを上げたのは、宇治橋上流(橘の小島)ではなく、下流のここ(橘の小島が崎)。その佐々木高綱の甥佐々木信綱が、承久の乱(1221)の宇治川合戦で先陣となった。橋の上の戦いが有名になったのは、治承4年(1180)の以仁王の乱である。以仁王と源頼政の軍勢は、宇治川左岸に陣を張り、宇治橋の橋板を外して平家軍と戦った。


  茶の製法と歴史

看板前…宇治川の水は、山峡部から平坦部に出たところで遊水池である巨椋池に流入していた。豊臣秀吉は伏見城築造に伴い、水運・交通・治水のために川の流れを巨椋池から分離し(槙島堤)、新しく大和街道を開いた(小倉堤)。平成19年、発掘調査により填島堤の右岸施設(太閤堤)が発見された。

右岸堤防
…寿永3年(1184)、生月(いけづき)に跨る佐々木四郎高綱が摺墨(するすみ)に跨る梶原源太景季をかわし、宇治川先陣の名乗りを上げたのは、宇治橋上流(橘の小島)ではなく、下流のここ(橘の小島が崎)。その佐々木高綱の甥佐々木信綱が、承久の乱(1221)の宇治川合戦で先陣となった。橋の上の戦いが有名になったのは、治承4年(1180)の以仁王の乱である。以仁王と源頼政の軍勢は、宇治川左岸に陣を張り、宇治橋の橋板を外して平家軍と戦った。


  宇治川と宇治橋

宇治橋架橋には二つの説があり、宇治川断碑を信用して「道登」とする説と、続日本記の記載による「道昭」説がある(どちらにせよ7世紀中の架橋)。平安遷都に伴い宇治は大和と京都を繋ぐのみとなったが、公費で修復された。

通円茶屋…平安末期以降、初代通円が橋の守護として、傍らで茶店を開いて現在で22代目。この建物は、宇治橋と共に公儀普請で、今の建物は寛文12年(1672)の建造。横に長く深い前庇(ひさし)と、柱の間を広くして柱の数を少なくしているのが特徴。店内には、初代通円の坐像と秀吉が三ノ間から水を汲ました釣瓶がある。建物正面に青蓮院宮尊朝親王筆の「御茶屋」の額。
三の間…宇治橋三ノ間の下を流れる川水は名水として茶の湯に用いられる。秀吉も橋守の「通円」に汲ませたと伝えられる。


  橋寺放生院



文明11年(14794月、三室戸の民が宇治に押し寄せ、橋寺放生院を放火炎上させる事件が起こった。日野富子の宇治神明社参詣に際し、参道部分の掃除を三室戸の民が行ったところ、宇治では、自分たちの相計らう在所であるとして掃除のし直しをしたため三室戸側による放火となったものである。






  宇治上神社



応神天皇とその子 菟道稚郎子命(うじのわきいらつこ)・仁徳天皇を祭神とする。世界文化遺産。
明治以前は、槙島村東部の産土神。近くの宇治神社(下社・若宮と呼ばれていた)と二社一体の存在(同社は上社・本宮と呼ばれていた)で「宇治離宮明神」と総称されていたが、明治に入って分離した。境内は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の旧跡と伝えられる。本殿は平安時代後期の建立で、最古の神社建築で国宝。




  宇治神社



祭神は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)。世界文化遺産。宇治上神社と二社一体の存在。菟道稚郎子がこの地に住まいを定めて、河内国から来る途中、道に迷っていた時に、一羽の兔が現れ、後ろから付いておいでと見返りながら先導してくれたという古い言い伝えがあり、「見返りの兔」という。








  浮島十三重塔

花崗岩製で高さ15m。我が国現存中最大の十三重石塔。弘安9年(1286)宇治橋架け替えの時、奈良西大寺の僧、叡尊が建立したとされる。叡尊は、橋がよく流失するのは乱獲された魚霊の崇りであるとし、朝廷に勧請して殺生の罪を戒め、網代と経典をこの地に埋め、供養塔とした。
石塔は、宝暦6年(1756)の大洪水で流失したが、明治になって発掘され、明治41年に多田青蓮率いる宗教法人「福田海」(ふくでんかい)の人達によって再建された。九番目の笠石と相輪は見つからず(笠石は、石川五右衛門に盗まれ伏見・藤森神社の手水台に流用されているとか。)新造した。台石の下には、日露戦争の戦没者23万8千余名の名を書いた小石が納められ供養されている。


  縣神社と縣祭

縣神社…祭神は木花開耶姫(このはなのさくやひめ)命。木花開耶姫は別名吾田津姫(あがたつひめ)とも云われる。永承7年(1052)関白藤原頼通が平等院を建立するにあたり、その鎮守社として創建された。明治維新までは三井寺円満院の管理下であったが明治政府の神仏分離令により独立した。

縣祭…65日〜6日未明にかけての祭である。暗闇の奇祭とも言われている。 深夜、梵天(1600枚の奉書紙を束ねたもの)神輿などによる遷幸・還幸が行われ、宇治橋西詰では梵天回しを行う。すべて暗闇の中で行われる。


  橋姫神社

神社縁起によれば、宇治橋が架けられた646年(大化2年)上流の櫻谷と呼ばれた地に祀られていた瀬織津媛(せおりつひめ)を祀ったのが始まりとある。一方、橋姫はにまつわる日本の伝承に現れる鬼女・女神のことをいい、別々の神様である二神が宇治橋の守り神として総称で橋姫神と呼ばれるようになっていった当初は橋寺放生院の敷地内で橋の中程に張り出して造営された「三の間」に祀られ、その後は宇治橋の「三の間」に祀られていたが明治3年の洪水で流され現在地へ移されたのは明治39年とある。現在では橋の守り神というよりは縁切りの神として信仰をあつめている。縁結びの住吉社と並列で祀られている。


  宇治代官所跡

上林一族は江戸時代初期から寛保(かんぽう)三年(1743)まで7代百数十年間にわたり宇治の代官職を務め、後に57年の空白はあったが江戸時代後期の寛政(かんせい)12年(1800)から天保(てんぽう)14年(1843)まで再び代官職を務めた宇治の名家である。
現在、京都銀行宇治支店前に石標がおかれているが、ここは維新後の明治5年から宇治町役場となり昭和36年までは宇治市役所があった場所である。
代官所の表門は明治6年に開校された菟道小学校の校門として明治36年まで使われ、その後宇治市妙楽の清水太門家の表門として現存している。


この日は風が強く寒い中でしたが、多くの参加者があり楽しい一日でした。

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