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山科西北部の古刹を辿る

山科の歴史は古く、天智天皇が大津京遷都以来、奈良と近江を結ぶ街道の要所となり、藤原鎌足はこの地に邸宅を構え、天智天皇の山稜もまたここに営まれるなど、その開発は京都旧市内より早かったことが偲ばせている。平安時代には貴族の山荘地や遊猟地となり、さらに安祥寺をはじめ元慶寺・勧修寺・随心院等、幾多の寺院が建立され、中世には本願寺の造営とあいまって一大仏都の観を呈したが戦国時代の兵火にてその多くを焼失した。                

  瑞光院

「忠臣蔵」ゆかりの寺院である。慶長18年に因幡若狭城主・山崎家盛道標が大徳寺の琢甫(たくほ)和尚を開山として一寺を建立したが、家盛の没後、家盛の法号にちなんで瑞光院とで名づけたのが当寺の起こりである。もと上京区の堀川鞍馬口にあったが、昭和37年に山科区安朱堂ノ後町の現在地に移った。
3世陽甫和尚が、浅野内匠頭長矩夫人瑤泉院の伯父に当たることから、浅野家の祈願寺となった。
 元禄14年3月14日長矩が、江戸城松の廊下で吉良上野介に忍傷に及び、即日切腹となった年、当院内に供養塔が建てられ、翌年12月14日の深夜、吉良上野介を討ち取った大石良雄らが切腹した際、その遺髪が寺内に葬られた。境内には長矩の墓や、良雄ら四十六義士の遺髪塔のほか、良雄が生前愛したという梅の古木がある。12月14日の義士討入りの日には、義士ゆかりの寺として参詣する人も多い。
 陽甫は討ち入り後、大石以下の遺髪を持ち帰り、長矩の塔側に埋めた。四十七士の墓は、浅野家ゆかりの下級武士がこの地に住みついて墓を守ったといわれ、瑞光院前町には今もその子孫が住んでおられるという。


  毘沙門堂

山号は護法山。護法山安国院出雲寺ともいう。本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一であり、「毘沙門堂門跡」とも呼ばれる。
 寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3行基が開いたという。前身の出雲寺は、京都市上京区の相国寺の北、上御霊神社付近にあったと推定される。
 建久6年に平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を併合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという。こうして建てられた寺は出雲寺の寺籍を継いで護法山・出雲寺と称し、最澄自作と伝える毘沙門天像を本尊としていた。
 慶長年間に天台宗の僧、天海によって復興され、山科の安祥寺の寺領の一部を出雲寺に与え、天海没後弟子の公海が、寛文5に完成した。後西天皇皇子の公弁法親王は当寺で受戒し、晩年には当寺に隠棲して以後、門跡寺院となり、「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。


  山科聖天

護法山 双林院と号し、寛文年、後陽成天皇の勅により徳川家綱から安祥寺の寺領の一部を与えられ、天海僧正、公海大僧正によって毘沙門堂と共に建てられ、毘沙門堂の塔頭となっている。
本尊は大聖歓喜天。頭が象で、首から下は人間。二体が向き合って抱擁していることから「男女合体」「陰陽和合」の神をあらわし、大日如来と十一面観音との化身ともいわれている。この像は秘仏として厨子に納められている。
また、本尊の他に武田信玄などから奉納された70体近い歓喜天像を合祀し、現在の聖天堂は明治元年に再建され、山科聖天として広く信仰されている。
他に、比叡山より勧請された不動明王が山門中央に不動堂が、滋賀県西明寺より勧請された阿弥陀如来が阿弥陀堂にそれぞれ祀られている。
また、右側の岩に不動明王石像が彫られている。


  たたら遺跡






日本古来の方法による製鉄をたたら製鉄という。この遺跡は,比良山系から湖西・湖南地域に分布する製鉄遺跡の一つで、如意ヶ岳南麓遺跡群に含まれる後山階陵遺跡である。これらの地域の製鉄は67世紀を最盛期とし,鉄鉱石を原料としていたと考えられている。ここにある石標はたたら製鉄の遺跡を示すものである。










  後山階陵遺跡

後山階陵とは安祥寺域内の安祥寺川上流に築かれた円墳で、左大臣藤原冬嗣と藤原美都子の娘藤原順子(のぶこ)が眠っている。
順子は仁明天皇即位とともに第54代仁明天皇の女御となり、55代文徳天皇を生み、皇太后となる。
容姿が美しい穏やかな女性だったと伝えられ、文徳天皇が崩じたのち、出家。文徳天皇の皇子「清和天皇」が即位したため、太皇太后となる。
安祥寺は藤原順子の発願により建立された。なお、醍醐天皇陵も「のちのやましなのみささぎ」と読むが「後山科稜」と書かれ全く別である。


  安祥寺

吉祥山と号し、仁明天皇の女御藤原順子が入唐僧恵運僧都を開山として創建された真言宗の名刹である。嘉祥元年(848)8月造営に着手し、仁寿元年(851)に竣工した模様で、常灯料として山城国の稲一千斤を施入し、定額寺に編入された。その寺域は現在のJR山科駅をほぼ中央として、東西約1Km、南北約1.5Kmにわたる広大な地をしめていた。
 次いで斎衡3年(856)10月、その北方の山林50町歩を寺有地として施入され、ここにも伽藍が造営された。この地の山麓にあるのを下寺、山上にあるのを上寺とよび【安朱寺の北方1Km、安祥寺山の中腹、俗に観音平と呼ぶところ、今は伽藍址と思われる2つの大きな土壇があるが、通行はできない】、山上山下わたって多くの堂舎僧坊が建ちならび、国家安穏の祈祷道場として寺運は隆昌におもむいた。
 しかし、平安末期に勧修寺長吏が当寺を兼帯し、寺領の実権をにぎるにおよんで寺運は衰運に向かった。中世の戦国時代には荒廃し、近世は高野山宝性院に属し、俗に「高野堂」とよばれた。現在の建物は宝暦年間の再建で、本堂には十一面観音像を安置する。
 他に地蔵堂や開山堂、鎮守社等の建物があるが、寺宝の五智如来坐像5躯(重文・平安)は、京都国立博物館に管理されている。上寺の五大堂本尊五大虚空蔵像(重文・随)は東寺観智院に移されていて、現在文化財として見るべきものは、鐘楼にかかげる嘉元4年在銘の銅鐘(府指定・鎌倉)だけである。この鐘は、もと大阪渡辺にあった安曇寺の旧物と伝える。


  當麻寺



浄土宗の西山禅林寺派(永観堂)で弘誓山(ぐせいざん)当麻寺という。
天福年法然の弟子、西山証空上人(西山光明寺も)によって創建される。山科大仏という府指定の丈六阿弥陀如来(身の丈6尺=約3m)は鎌倉時代の作といわれ、寄木造りで非公開だったためか、今なお装飾が残っている。
絵巻物の当麻曼荼羅は、浄土変相図を表しており、500年ほど前のもといわれる。


  五条別れ道標



宝永4年に沢村道範により建てられた道標で、東海道と渋谷越え(五条通の東山トンネル付近)をから五条大橋へと分岐する三叉路の五条別れ交差に佇む。
この三叉路を左(南)へ行くと五条大橋で、そこから東西六条(本願寺)、大仏、今熊野、清水寺への道程が示されていて、当時は京都大仏が健在で、観光名所だったことが伺えるが、相次ぐ火災で現在は国立博物館となっている。開発の著しい山科地域ですが、この付近には街道筋の風情が残り、出窓、格子戸、虫小窓の街並みが残り、往時を偲ばせる。
 北→すぐ大つ道 西→いまくまのミち 東→右東六条道 今くま








  山階寺跡


山階寺は、七世紀後半に藤原鎌足により創建された寺院です。中大兄皇子(天智天皇)と共に大化の改新を成し遂げた鎌足の「山階陶原家」(やましなのすえはらのいえ)付属の持仏堂が始まりと推定される。
 奈良時代の興福寺に関する資料(興福寺流記)には、「鎌足は大化の改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。ことが成就した後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである。」と記されている。

 その所在地は、大宅廃寺説や中臣遺跡説あるが、山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした説が有力である。付近からは、有力な遺跡は見つかっていないが、この辺りは大槻里と呼ばれ、西隣の陶田里かけてが陶原であったらしい。




  護国寺

江戸時代の寛永20に日蓮宗の日勇がアーバン銀行(滋賀銀行)周囲の竹藪四千坪を切り開いて創建した寺で、洛中から洛外へ通じる街道沿いの学問所「京都六壇林」の一つ、「山科壇林」と呼ばれた。
また、「談義所」「談所」「学校」とも呼ばれ、地元では「だんじょのお寺」として親しまれていました。

 南側の商店街に湧水の「だんじょ水」があるが、江戸期に水不足に苦しんだ村人が、護国寺の余水を地下埋設水路によって湧水の場所まで導水する工事を行ない、昭和初期まで地域の人々の生活用水として活用された。しかし、宅地開発や地下鉄工事で水が出なくなったが、保存を願う住民の努力で復活した。


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