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鳥羽・伏見の戦跡を巡る(�掘�

鳥羽伏見の戦いは,旧幕府軍と新政府軍が共に己の武士道を信じ,日本人同士が
   戦った戦争である。前回(昨年9月22日)は,淀を中心に戦跡を巡ったが,今回は竹田付近から戦跡と付近の遺跡を巡りました。                            



  城南宮



神功皇后が、三韓遠征に際し、武運を祈った「御旗」(みはた)と神功皇后他を祀った旧府社。桓武天皇は、平安京の裏鬼門守護として王城鎮護の神社としました。この神社は、承久の乱で、後鳥羽天皇が流鏑馬に託して兵を揚げた場所でもあります。鳥羽伏見戦では、此処に据えられた薩摩軍の大砲が火を噴き、戦争が始まりました。







  小枝橋界隈



小枝橋が嘗て在った場所の東側に戦争の駒札と道標があります。此処に薩軍が100名程と砲四門を据えて守備をしていました。慶応4年正月3日、午後4時頃に小枝橋東詰に旧幕府軍の先遣隊が到着、守備する薩軍と先遣隊が通過を求めて激論、遂に薩軍の城南宮に据えられていた砲が火を噴き戦闘が開始されました。当時、旧幕府軍は一万五千、対する薩摩、長州軍は五千程度で勝敗は明らかにみえました、しかし、、両軍とも引かず、一進一退を続け、明けて4日、遂に薩摩、長州軍に錦旗が届きました。その時から薩軍は「官軍」旧幕府軍は「賊軍」となりました。


  秋の山




城南宮から西に小さな築山が見えます。此れが鳥羽離宮内の庭園の築山と言われ、この築山の上に「鳥羽伏見戦戦跡碑」が建っており、東南裾に戦闘の配置図、説明盤があります。当時、この築山の前の鳥羽街道から小枝橋に掛けて、旧幕府軍先遣隊と守る薩軍とが一触即発の状態であったのでしょう。


  赤池

地名の由来は、遠藤盛遠が袈裟御前の首を斬った太刀を池で洗うと、池の水が忽ち赤く染まったのでその名が付いたとされます。
此処も激戦地で、4日早朝、桑名藩の火力部隊が薩摩藩の火力部隊を攻撃、その猛攻で、薩摩藩は一時、小枝橋を放棄退却し、城南宮に布陣していた薩摩軍までも攻撃されました。しかし、此処に居た土佐藩が藩主の命を待たず、桑名藩を攻撃、奮戦中の桑名藩も次第の後退しました。

芹川
赤池から南600m程一号線に沿って行った東側に下鳥羽渡瀬町があります。昔は野生の芹が生い茂り、池や沼が散在して「芹川野」と呼ばれ、平安期には多くの天皇が遊猟の地として行幸されました。「嵯峨の山 御幸(みゆき)絶えにし芹川の 千代の古道 跡はありけり」の和歌の場面は此処を詠ったとされます。
又、此処渡瀬付近も激戦地でした。旧幕府軍は、米俵で胸の高さまで陣地を築き、歩兵部隊が猛攻撃を行い薩摩軍を後退させ、土地の人は旧幕府軍がやはり強いと言い出し、桑名藩に至ってはゲリラ戦で長州軍を攻撃、会津槍隊の攻撃や、大垣藩の攻撃で薩摩軍は大きく後退しました。しかし薩摩軍の砲撃で最後は淀方面に旧幕府軍は後退していきます。

写真は,赤池所縁の恋塚寺です。


  鳥羽の大石


この大石は龍門堰下流100m程の鴨川から引き揚げられました。この石が何処から運ばれたのか、その使用目的等ははっきりしませんが、形態などから寛文2年(1662)に大地震があり、特に京都の被害が大きく、二条城も被害を受けました。当時、此処、下鳥羽三町付近の鴨川は、「鳥羽の湊」が点在して、京都への人、物が行き交う場所でした。この大石も二条城修復の為、此処まで水運にて運ばれ、何らかの理由で川底に沈み、現在まで眠っていたのでしょう。
二条城の城門の飾り石と寸法、形態等が似ていますので、それに使われる目的で運ばれ、後は、修羅などで運ばれることとなっていたと思われます。


  悲願寺墓地



鳥羽伏見戦では、錦旗の為、旧幕府軍は敗走、戦闘後は「賊」となり、戦死者は、放置されたままでした。これら戦死者の遺骸を下鳥羽村の人々が、自分達の家々も焼かれましたが、あまりにも哀れであると思い、燃料を出し合って荼毘に付して、此処、悲願寺共同墓地に埋葬しました。実にその数233名と言わました。「官」となった薩摩、長州軍戦死者は東福寺や相国寺に立派な碑や墓を建てていますが、官と賊の差が歴然としています。
尚、悲願寺の名は過って、下鳥羽村に、三味堂として地蔵堂があり鎌倉初期の地蔵尊が安置され、その堂を悲願寺堂と呼んでいたので、その名が付いたとされ、今も其の地蔵像はお堂に安置されています。




  法傳寺



鳥羽街道に面した東側に在ります。浄土宗知恩院派の寺、開祖は行基と伝えられて初めは真言宗でしたが、知恩院、十一世の「円智上人」が訪れましたので、浄土宗に改められました。
此処の門前北側には、鳥羽伏見戦で斃れた旧幕府軍の慰霊塔があります。
「戦死者埋骨東北悲願寺墓地」とあるので、此れは顕彰碑であろうと思われます。但し過去帳は当寺に保管されています。この付近の戦いは「場上、死骸粉々、路を塞ぎ、行くべからなるなり」と記録されています。


  一念寺




寺傳に因ると、白鳳2年(674)僧「道昭」の開祖とされます。もとは、法相宗でしたが、室町期に真阿上人に因って浄土宗に改められました。
本堂安置する本尊阿弥陀如来坐像(鎌倉期)は大きな仏様で、「鳥羽の大仏」(鳥羽のおおぼとけ)と呼ばれています。


  草津の港



下鳥羽は古くは草津と呼ばれ、京都から西国へ赴く時は、此処で、人々は船に乗換えて、赴いたとされます。「平家物語」で、讃岐に流された崇徳上皇や、厳島神社に行幸された高倉上皇も、讃岐に流された法然上人も此処草津の湊から出ていかれました。逆に、瀬戸内、西国からの運ばれる物資、人達は、此処に陸揚、上陸して京都、関東方面に移動していきました。特に瀬戸内の漁獲類は、一旦此処に陸揚げされ、生魚は、人が走って運びました。いわゆる,季節の物を早く食べることの語源「走り」になりました。
今、羽東師橋東詰にある「魚市場遺跡碑」がそれを物語ります。


  田中神社



ご神体は、建速素戔嗚命、櫛稲田姫命、八岐大蛇之霊と農耕の神々。平安期に祇園感神院から牛頭天王を勧請しました。当初は、下鳥羽田中に社殿がありまましたが、洪水により此処に流れ着きました。












この日は,参加者145名と会員の32名の177名の参加があり,結構長い距離となりましたが,元気に全員歩きました。

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