東福寺六波羅門

「六波羅門」は承久の乱後に、朝廷の動きを監視するために六波羅探題に設置されたと言われる門で、元弘3(1333)年元弘の乱の後、東福寺南正面に立つ本坊伽藍の最南端に移設された。月下門と共に、重要文化財に認定され、東福寺に現存する建造物では最も古いと言われている。
皇嘉門院月輪南陵
皇嘉門院・藤原聖子(きよこ)は、平安時代末期の摂政・藤原忠通の娘で、後に崇徳天皇の中宮となった。崇徳上皇が保元の乱で敗れて讃岐に配流された後も、京都に留まり出家する。
防長藩士殉難者之墓
慶応4(1868)年正月の鳥羽伏見の戦で戦死、病死した周防・長門(山口県)出身者の墓がここにある。王政復古ののち、朝廷、長州、薩摩藩らの処置を不満とした幕臣、会津藩らは、正月1日挙兵、大阪から京都に入ろうとし、長州、薩摩は伏見、鳥羽でむかえうった。長州藩は伏見街道を守って東福寺を本陣とし、約2100人が布陣。正月3日夕刻戦争が始まり、4日5日と伏見、鳥羽で激戦がつづいた。長州藩の戦死、病死者は、石川厚狭介(あさのすけ)以下48名。本陣東福寺の山上にあたるこの地に遺体を葬り、墓地とした。
仲恭天皇九条陵
仲恭天皇は、順徳天皇の第一皇子で、祖父は「承久の乱」で有名な後鳥羽上皇である。承久3(1221)年、後鳥羽上皇は子の順徳天皇と共に鎌倉幕府打倒を企て、その準備に専念するために、僅か4歳の懐成親王に譲位し、仲恭天皇となった。
幕末の公家 守脩親王 淑子内親王 朝彦親王の墓
※守脩(もりおさ)親王
伏見宮家に生まれ、のち梨本宮家を開く。朝彦親王の跡を継いで天台座主を務め、維新後は還俗して一時梶井宮を名乗った。明治14年63歳で薨去。
※淑子(すみこ)内親王
仁孝天皇の第三皇女。孝明天皇の異母姉で、和宮の異母姉である。万延元(1860)年、家茂に降嫁の儀の際、候補の一人だったが、そのとき既に30才を過ぎていたことから見送られる。明治14(1881)年、53才にて薨去。
※朝彦(あさひこ)親王
孝明天皇の信任の厚かった宮の一人である。基本的には、孝明天皇と同じく親幕派であった。文久3(1863)年の八・一八の政変ではクーデターを主導したが、晩年は一切政治には関与せず、明治24(1891)年薨去。68才。
孝明天皇後月輪東山陵
月輪陵の背後の山腹には、南に孝明天皇の後月輪東山陵、北に英照皇太后の後月輪東北陵が築かれている。
孝明天皇は慶応2(1866)年12月25日、在位21年にして崩御。享年36才。死因は天然痘と診断された。しかし、亡くなる少し前まで、深刻な病状とは思われてなく、突然の死は、意見の対立していた討幕を企む一派である岩倉具視の指示で毒殺されたと言う説が根強くある。暗殺説は倒幕急進派にとっては、誠に都合悪いことであり、以後十分な調査もされなかったため、当時から暗殺説がささやかれ今日に至っている。
平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮へ、平安京最後の天皇として昭和15(1940、皇紀2600)年に合祀された。
来迎院
空海(弘法大師)の創建と伝えられ、わが国最初の荒神坐像(重文・鎌倉)を祀っている。400年後の健保6(1218)年、月翁智鏡(がっとうちきょう)長老が堂宇を開創して泉涌寺子院とした。今も大師ゆかりの独鈷水がある。
今熊野観音寺

平安時代初期に空海が当所に庵を結んだのが始まりとされ、その後、東山観音寺と称したが、後白河上皇が永暦元(1160)年、新熊野社を勧請創建された際、改めて新那智山の山号を寄せられ、今熊野観音寺と称することになったという。
戒光寺
当寺の創建は、鎌倉時代の安貞2(1228)年後堀河天皇の勅願所として猪熊八条の地に創建された。本尊の身代わり丈六釈迦如来、身の丈は約5.4�叩�台座から後背部を入れると約10�辰砲發覆訛臺�であり、首の辺りから何か流れている様に見えるのは、血の跡だといわれている。これは、後水尾天皇が即位争いに巻き込まれ暗殺者に寝首を掻かれかけた時に、この釈迦如来が身代わりにたたれ、ついたものだといわれている。この為、首から上の病気を治してくださると崇められている。
即成院

皇室の菩提所である真言宗泉涌寺派総本山御寺泉涌寺の塔頭の一つ。藤原頼道の子橘俊綱の創建と言われ、創建当初は伏見桃山にあったが、文禄3(1594)年伏見城築城の折に、強制的に大亀谷に移らされた。明治維新の廃仏毀釈で無住となり、廃寺となったが、仏像は泉涌寺に引き取られ、泉涌寺塔頭の法安寺と合併し、明治35(1902)年、現在地で再興された。
御陵衛士の墓
戒光寺墓地には御陵衛士伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の4名の墓がある。御陵衛士は戒光寺湛然長老の肝煎りによって組織され、新撰組参謀伊東甲子太郎以下15名が新撰組を脱退参加した。
夢の浮橋跡

昔は泉涌寺の参詣道として今熊野川(一ノ橋川)に架かっていた橋で、橋名は「源氏物語」宇治十帖「夢の浮橋」の巻から付けられたと言う。
法住寺殿跡

旧一橋小学校跡地から発掘調査の結果、後白河法皇宮廷「法住寺殿」南の法住寺池西の建春門院(平滋子)が造営し居住した最勝光院の伽藍跡であることが分かった。
瀧尾神社
大己貴命(別名、大国主命)を祭神として、祀られたが、創建年代は不詳。天正14(1586)年、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立したのに伴い、現在地に移転した。本殿や拝殿に立派な彫刻があることで知られ、とくに拝殿天井から見守る、長さ8mの龍は見事。例祭は6月22日であるが、今も5月5日の藤森祭には深草よりここまで神輿の渡御がある。
当日は,好天に恵まれて参加人員139人,ガイド24人,合計163人で春の東山を満喫しました。
次回も,京都の春を楽しみたいと思います。
