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このウォークの地図

都の巽 日野の里を探る

萱尾神社に纏わる静かな里が奈良の春日野に似ており
この地を「春日野」と定め、社前に標札を立てたところ,
ある日、鹿に「春」を盗まれ、「日野」が残った。

  天穂日命神社(あまのほひのみことじんじゃ)

旧石田村の産土神で「田中神社」または「石田神社」ともいう。祭神の天穂日命は、アマテラスとスサノヲの誓約によって生まれた男神の第2子をいう。祭神天穂日命は天孫降臨に先立って出雲に下向し、天日隅宮の祭祀をつかさどったといわれ、のちに出雲氏の祖神と仰がれた。
創建の詳細は不明であるが、社伝によると、天武天皇年間(673年〜686年)この里にある夜、一夜で数尺の稲苗が積み上げられ、その上に白羽の矢があり、白髪の老翁が現れて「この地に天照皇大神と大山咋神を鎮め祀れば帝都南方の守護とならん」と告げて去った。そこでこの神社が創建されたと言われている。いまも境内に農耕守護の神、苗塚がある。


  法界寺

東光山と号する真言宗醍醐派の(もと天台宗)別格本山の寺で、通称「日野薬師」・「乳薬師」と親しまれ、授乳祈願の信仰で名高い。藤原氏の北家にあたる日野家の菩提寺で、永承6年(1051)日野資業(すけなり)がこの地にあった日野家の山荘を寺に改めた。
七堂伽藍に輝く威勢を誇ったが、比叡山を焼き討ちにした織田信長の兵火に、すべて焼かれ、火災をまぬがれた唯一の遺構が、現存の阿弥陀堂で、宇治の平等院鳳凰堂とならぶ藤原時代の浄土教芸術の代表とされている。
また、当寺の祭礼は俗に「日野の裸祭」といい、
毎年1月14日の夜、阿弥陀堂の前で行なわれる。
本尊の薬師如来像は,堂内中央厨子内に安置されている。高さ1m、白木の檀像で、衣文に美しい切金文様があり、胎内には伝教大師最澄作の薬師小像を納める。これが胎児をやどす女性の 信仰をあつめ、授乳の霊像となっている。


  日野誕生院

西本願寺飛地境内で,本尊は阿弥陀如来。
江戸時代末期の文化年間(1804〜17)、西本願寺第十九代宗主の本如上人は、宗祖親鸞聖人の顕彰に努め、聖人の誕生地・日野の地を検証し、隣接する日野家の菩提寺(法界寺)と交渉を重ね、寺領の一部を本願寺が譲り受けることに成功した。昭和6年(1931)に現在の本堂が完成し、落慶法要が営まれた。この時、「日野誕生院」と改称された。
[童形親鸞像](発心の像)
親鸞6歳の姿を写した銅像。得度式に詠んだという「明日ありと 思う心の
あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」の石碑が建てられている。
[親鸞上人産湯の井戸・胞衣塚]
親鸞上人の産湯に使われたといわれる井戸「親鸞上人産湯の井戸」や上人
のへその緒が埋められたといわれる「親鸞上人胞衣(ゑな)塚」がある。


  日野家墓所

日野家累代の墓所で、正面中央の五輪石塔(日野有範塔)は、親鸞上人の父日野有範の墓と伝えられ、松香石(凝灰岩)製で平安末期のものとされている。上部の風空輪がいつの間にか代りの石になり、下部の火・水・地の三輪は変わらないが、かなり風化している。安元2年(1176)5月に没す。
傍には吉光女(親鸞母)と範綱(親鸞伯父)、および日野広綱・勝光の墓と伝える五輪石塔がある。
日野家は、代々儒道や歌道などで朝廷に仕えた家柄。藤原北家の一族で、藤
原真夏を始祖としている。日野家は室町将軍家とは深く縁戚関係を持っていて、日野時光の女(業子)と孫女(康子・北山院)が三代将軍足利義満の室となってから、九代将軍義尚まで日野家の女が将軍の室となった。特に、八代将軍義政の正室日野富子は権勢を誇った。浄土真宗の親鸞聖人も輩出している。


萱尾神社

奈良時代後期日野家の始祖藤原真夏は、この地に翁(萱尾明神)を祀る社殿を建立し仏事なども特別に行い(別行)、萱尾神社を創建する。大己貴命(大国主命)を祀り、日野村の産土神として崇敬を集めた。
森の中にあるこの静かな里が奈良の春日野に似ている事から、地名を「春日野」と改めて社殿の前に、「春日野」と記した標木を建てた。ある日、一匹の鹿が現れ「春」の一字を引きちぎり姿を消した。それ以来「日野」の2文字だけが残り、そのまま地名となったと言う。
本殿は応仁の乱などで焼失した後、慶安5年(1652)に再建され、法界寺の北東鬼門に位置しているため、その鎮守社となっている。その後も修理が繰り返されてきたことが、収納されている多数の棟札からわかるという。昭和60年6月1日に京都市指定有形文化財に指定された。
本殿の正面に立つ「キリシタン灯籠」。隠れキリスタンのものとして貴重な
ものである。中央部分が丸く、その下にマリア様らしき立像が彫られている珍しいもので、「マリア観音」とも呼ばれている。キリスト教が禁じられていた江戸時代に、キリシタンの人々が表向きはお地蔵様として、ひそかに祈りを捧げていたといわれている。
長明方丈石(ちょうめいほうじょうせき)
萱尾神社より東へ徒歩10分程の所に日野自治会公会堂があり、そこから約
25分山道を歩いたところで大きな丈余の石にたどりつく。
鴨長明が閑居し「方丈記」を著したところと伝える。その住まいは組み立て式の小さな小屋のような建物で、間口、奥行きともに1丈(約3m)四方であることから「方丈」の名がある。


  平重衡塚

平重衡(1157〜85)は、平清盛の五男で、母は平時子。左近衛権中将。治承4年(1180)5月、以仁王・源頼政らを討ち、12月には反平氏勢力の拠点である興福寺・東大寺南都攻撃の総大将となり、大仏殿を不本意にも焼亡させてしまう。翌年3月、墨俣川の戦では源行家を破る。平家都落ちの後も、水島合戦や室山合戦で源氏側を撃破し、平氏の猛将といわれた。
しかし、一ノ谷の合戦で捕らえられ重衡は、梶原景時によって鎌倉へと護送
された。鎌倉の頼朝は、重衡の器量に感服して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。
鎌倉では源頼朝に丁重に遇されるが、治承4年の戦いでの焼き討ちを恨む南都衆徒の要求を拒絶しきれず、重衡は源頼兼の護送のもとに鎌倉を出立、東大寺の使者に引き渡された。その途中、日野に差し掛かった時、護送の武士に、この近くに妻が住んでいるので最後に会って「後生のことなどを伝えたい」と頼む。武士達も哀れに感じこれを許す。重衡は知らせを聞いて急いで駆けつけた北の方、大納言佐殿(藤原輔子(すけこ))と感動的な対面を果たす。
重衡は、文治元年(1185)6月23日、木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。享年29歳大納言佐殿(輔子)はうち捨てられていた重衡の遺骸を引き取り、南都大衆から首も貰い受けて荼毘に付し、日野の法界寺にて懇ろに弔い、遺骨を高野山に葬って日野に墓を建てた。その後、大納言佐殿は隠棲した建礼門院に仕える。


  一言寺

真言宗醍醐派の寺院。正式な寺号は金剛王院で醍醐寺の別格本山である。
明治7年(1874)金剛王院流の祖聖賢を開山とする醍醐三流(三宝院流・理性院流・金剛王院流)の一つの金剛王院が移され醍醐寺の境外塔頭となり,さらに明治28年(1895)、醍醐寺別格本山金剛王院となった。

 寺伝では、阿波内侍が出家して「真阿(しんな)」と名乗り、清水寺の観音の霊告によって建立したと伝えている。本堂に安置する本尊十一面千手観音は、一心に祈願を込めれば、即座に願いが叶うという。
「ただたのめ、仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言かな」のご詠歌の額が本堂の軒下にかかげられている。

「一言観音」と呼ばれる秘仏千手観世音菩薩像は、この中に安置されていて、33年ごとに開帳されるという。
また,大きなヤマモモの木(高さ9.2m、胸高周囲3.28mあり、直径約10m)があり、幹内部が空洞になることや枝の枯死跡が孔状になることはヤマモモの特徴である。まだ樹勢は衰えておらず、実もよくなる。昭和62年5月1日、京都市登録天然記念物に指定された。
毎年8月17日には「ひとこと観音夏祭り」と称して参道から境内まで、朝
から子供みこし練行、千手観音護摩供、夕方には夜店がそろい、夜は紫灯護摩供火渡り修行が行われ、終日にぎわうという。12月18日には中風除けのお粥接待が行われる。
阿波内侍は少納言の藤原通憲(信西)の娘で,建礼門院徳子(平清盛の娘・高倉天皇の中宮・安徳天皇の母)の侍女として、寿永4年(1185)壇ノ浦で平家が滅亡した後も、大原・寂光院で余生を送った建礼門院に最後まで献身的に
仕えたと伝えている。 。






  善 願 寺(ぜんがんじ)

天台宗の寺。寺伝によれば、長保年間(999〜1004)に恵心僧都が一宇を建立し、僧行基作と伝える一体の地蔵像を安置したのが起こりという。
もと大津市坂本の来迎寺に属した。本尊地蔵菩薩坐像(重文・平安時代)は、桧材の寄木造。像高2.7m、右手をのばし、左手に宝珠をもつ丈六であるが、顔容は藤原風の温和さが漂っている。胸の下には裳の結び目があって、あたかも腹帯を締めているかのように見えるので、後に「腹帯地蔵」と呼ばれた。
女性の難産を救うため、行基による千日千部の読経・写経「地蔵菩薩本願経」を、その胎内に納めたといわれる。
平重衡出生のとき、その安産を祈願して堂宇が建立されたという伝説が生れ
今なお安産祈願の信仰がある。戌の日には安産祈願に訪れる参詣者で賑わう。
境内にある樹齢千年とも言われる榧
(かや)の木に、現代の仏師・西村公朝氏によって不動尊が刻まれている。不動尊をやがて表皮が包み込み、像は消えるという。ほかに平安時代初期に唐からの請来されたものという僧形坐像2体(京都府指定文化財)や本堂外陣の格天井に江戸時代後期の120面の天井画がある。


6月9日(日)天候にも恵まれ,梅雨前の新緑京都を,147名の参加者と会員27名の合計174名で歩きました。 夏場はウォークを一時休止しますが,9月になりましたら再会しますので,歴史都市京都をご一緒に歩きましょう。

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