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このウォークの地図

まちかどの歴史を追って白梅町から西院へ


5月12日(日) 洛西ウォーク

  北野廃寺跡



昭和11年、京都市電の西大路線新設工事の際に、北野白梅町付近で建物跡が発見された。
その後の調査で、飛鳥時代から平安中期にまたがる京都盆地でも最古の寺院跡である事が判明、北野廃寺跡と命名された。

北野廃寺は、平安京の野寺小路に続くところから平安時代に桓武天皇によって建立された「野寺(のでら)」ではないかという説がある。



  衣笠会館(旧藤村岩次郎邸跡)


衣笠会館は、西大路一条から西に入った京都市北区下白梅町に立地する。
赤煉瓦の明治建築で、明治末期に京都屈指の機業家(繊維業界の事業家のことをとくに機業家という)藤村岩次郎によって普請された。
2005(平成17)年1110日付で国登録有形文化財に登録された。




  地蔵院(椿寺)



昆陽山(こんようざん)地蔵院という浄土宗(知恩院の末寺)の寺で、本尊は阿弥陀如来です。
椿寺の由来は「五色八重散椿」の名品があるからです。この椿は加藤清正が、朝鮮から持ち帰り、豊臣秀吉に献上したものを、秀吉が北野大茶会の縁から、当院に献上したもので、白、赤、ピンク、絞りなどに咲分け、花びらが一片一片散るのが特徴。
毎年三月末に咲き出し、四月末頃まで咲く。樹齢400年の一世は、昭和五十八年春に、惜しくも枯れ、現在は、樹齢約百余年の二世が、本堂前に咲いている


  お土居の袖

御土居堀の西部は、紙屋川(北野天満宮から天神川と呼称が変わる)に沿って南下しているが、この地点(北野中学校)で西に出っ張り(東西250m、南北500m)、「御土居の袖」と呼ばれている。この部分の張り出し理由については、御土居研究者がいくつかの説をとなえているが、裏付けが無く謎となっている。


  四之保社跡(よんのほやしろあと) 威徳水(いとくすい)

この地は、北野天満宮「七保社(しちのほやしろ)」のうちの四番目にあたる四之保社(よんのほやしろ)が在った所である。
七之保社とは、菅原道真が大宰府での死後、随從の人たちが帰京して、右京の地に建てたと言われる七箇所の御供所(ごくうしょ)の事である。

現在は、当時「威徳水(いとくすい)」と呼ばれ、病気平癒のご利益あるとして人々より信仰を集めた井戸跡のみが残されている。


  竹林寺

浄土宗西山禅林寺派の寺院、山号は五台山。本尊は阿弥陀如来。
境内には、1863(文久3)年の生野の変で捕えられた平野国臣(ひらのくにおみ)や、1864(元治元)年の池田屋事件に関連したとされ捕えられた古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)ら勤皇志士30余名の墓がある。六角獄舎牢屋敷につながれた平野国臣らは、1864(元治元)年 禁門の変の際、斬首され、遺骸は二条の西、「西土手刑場」(西大路二条上ルの竹林寺墓地辺り)に葬られたが、1877(明治10)年に改葬された。


  法輪寺(だるま寺)

 

臨済宗妙心寺派に属し、本尊は、釈迦如来。
三国隋一といわれる「起き上がり達磨」をはじめ、心願成就を祈って奉納された8000余もの達磨を達磨堂に祀っている事から、達磨寺の名で親しまれ、節分には多くの参拝者で賑わう。
本堂前の庭は、十牛の庭や白砂の上に苔で心の文字を描いた庭がある。


  壺井・壺井地蔵尊

この井戸は「西土手刑場」の範囲にあり、江戸時代、市中引き回しにされて、死刑を執行される罪人に飲ませた水とされている。
即ち、罪人にとっての「末期の水(まつごのみず)」を飲む場所であった。
江戸時代、この付近一帯は死刑場であった。
六角獄舎を出された罪人は、決まった経路に沿って市中引き回しの上、東は粟田口(現在の洛東・九条山のあたり)、西は、この「西土手刑場」に固定されていた。


  史跡・御土居掘跡(市五郎稲荷神社)



御土居堀の跡は、現在9ヶ所が国の御土居史跡に指定(昭和5年に8ヶ所、昭和40年に1ヶ所追加)されている。 その一つである。

土塁に接して社殿があり、御土居そのものが神体となっている稲荷神社。
鳥居が並ぶ参道部分が堀跡と云われている。


  西院

日照山と号する浄土宗・鎮西派の寺で、創建由緒などは明らかではない。
本堂には子安地蔵と呼ばれる地蔵立像が安置され、室町時代には洛陽六地蔵巡りの一つとして有名であった。寺伝によれば、この地蔵尊像はもと江州堅田にあったが足利尊氏の帰依によりこの地に移したと言われ、足利義政夫人の富子はこの像に祈って義尚を生んだと伝えられている。
又、地蔵信仰のさかんだった頃、
「賽の河原(さいのかわら)」はこの西院の地にあたると信じられ、この高山寺は庶民の信仰を集め大いににぎわった。





   淳和院


この地名は、「西院」と書いて、「さいいん」とも「さい」とも呼ばれている。「阪急電車」の駅名は「西院・さいいん」であり、「京福電車」の駅名は「西院・さい」と呼んでいる。
平安時代、このあたりには淳和天皇の離宮である「淳和院」があり、この「淳和院」が内裏の西の方角である事から、この地が「西院・さいいん・さい」と呼ばれるようになったと伝えられている。
淳和天皇は、833(天長10)年に位を仁明天皇に譲り、上皇となって840(承和7)年に亡くなるまでこの院で過ごされた。



  春日神社



淳和天皇が奈良の春日神を勧請し、淳和院の鎮守社としたのが起こりと伝えられ、淳和院の廃絶後、旧西院村の産土神となったさ。佐井通が別名春日通と呼ばれるのも春日神社に由来する。







平成25年5月12日(日)約6キロのウォークは、好天、好コースに恵まれて、185名の参加者と共に盛況裡に終始、21名の初参加の方も含めて楽しく歩きました。

現在の「西大路通」は、平安京時代の道路でいえば、ほぼ「野寺小路(のでらこうじ)」に相当、そして、一筋西を走る「佐井通・さいどおり(春日通)」は平安京の「道祖大路(さいおうじ)」に相当しています。

今回の史跡ウォークは、長い時間をかけて大きく変遷してしまったとはいうものの、遥か平安時代から私達の生きるこの平成の世まで、京都の大きな歴史のうねりの中で生き続けてきた二本の道路に沿ってわずかに残る「まちかどの隠された歴史」、「まちかどの小さな伝承」を追って歩きました。

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