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平家物語ゆかりの史跡を巡る(�供�


前回の4月に引き続き,東山の平家ゆかりの史跡を歩きました。

  若宮八幡宮

天喜元年(1053)、源頼義が六条醒ヶ井の源氏館に勧請した鎮守社で、以後、足利歴代将軍などの崇敬厚く、殿舎も壮麗をきわめたが、応仁の乱により荒廃。天正11年(1583)豊臣秀吉によって東山茶屋町に移転、方広寺大仏殿建立にあたって16年、現在地に三転した。
真夏の陶器祭は、陶磁器業者により、五条坂で盛大な陶器市がひらかれる。









  景清爪形観音








壇ノ浦で捕らえられた悪七兵衛景清は、牢の谷の監獄に入れられたおり、爪で彫刻したという観音像を奉納したとか、景清の足形石(仏足石)とともに清水寺七不思議の一つに数えられている。










  清閑寺

真言宗の寺で、平安時代の古刹であり、少なからぬ勢力をもっていたことが想像されが、応仁の乱で罹災後は寺運も衰微するに至った
〔六条天皇清閑寺陵〕
天皇は長寛2年(1164)二条天皇の第2皇子として生まれ、2歳で即位されたが、わずか3年にして高倉天皇に譲位、さらに安元2年(1176)病にて藤原邦綱の東山邸(若松亭)おいて13歳で崩御された。

〔高倉天皇後清閑寺陵〕
応保元年(1161)後白河天皇の第6皇子として、8歳で即位。母は建春門院平滋子である。在位は12年。治承4年(1180)2月安徳天皇に譲位され、翌年正月14日早暁、平頼盛の六波羅池殿にて崩御。21年。

〔小督局塔〕
小督局は高倉天皇に寵愛されるが、平清盛に尼にされ、嵯峨に隠栖する。このため天皇は悩み、ついに崩御されたという。
※ 写真は、清閑寺境内の要石です。言伝えでは、六条天皇の埋葬地とも謂われています。


  苦集滅路(くずめじ)






渋谷越の古名である。中世は、盗賊が出没し恐れられたが、江戸時代には人馬の往来多く繁栄するが、明治には国鉄開通、近年は五条バイパスの開通によってさびれた道となった。







  正林寺

小松山と号する浄土宗の寺で、もと北野真盛町にあったが、法然上人が小松谷房址に近いこの地をえらんで移建された。堂内には法然像と九条兼実像を安置する。
〔阿弥陀経石〕
平重盛は平家一族の後生安堵のため、宋の育王山へ砂金を贈り,返礼として阿弥陀経石が送られたが、重盛はすでに死去、平家も滅び,同石は、九州に留め置かれた。江戸期に有志が、所縁の小松殿に模刻した本経石を、境内に建立したもので、京都市内に現存する阿弥陀経石2個のうちの一つである。

〔若松池〕
小松谷正林寺の東、渋谷通より南に、江戸中期頃までは池の一部を残していたが、今は跡形もない。現在この地を清閑寺池田町とよばれている。

〔平重盛小松殿址〕

重盛は邸内に48間の精舎を建て、阿弥陀像48体を安置、48個の灯籠を掲げたことに因んで灯籠大臣とよばれたが、42歳で病没した。

時は移り、法然は、四国配流の身となり、ここから旅立った。


  三嶋神社



後白河天皇中宮建春門院(平滋子)は、摂津の三島神社に祈って高倉天皇を出産、その報恩のため、平重盛に命じてこの地に三島神社を勧請、また高倉天皇中宮建礼門院(平徳子)も、安徳天皇の誕生を安産祈願をされた。
以後も安産の神として信仰され、お礼に「うなぎ」の小絵馬を奉納、毎年5月・10月の各26日には「うなぎ祭(放生会)」がおこなわれる。
〔揺向石〕
本殿前の高さ2m余りの岩石で、木花咲耶姫が影向した石とつたえ、安産を祈る信仰があった。また、牛若丸は、夢中に老翁から、「奥州にくだるべし」と託宣で、奥州へ旅立ったという。


  三十三間堂(蓮華王院)

後白河上皇が長寛2年(1164)法住寺御所内に、一千一体の千手千眼観音像を安置し、蓮華王院と称した。堂内内陣の柱間が三十三あることにより三十三間堂という。造営は平清盛が当った。清盛はこの功により播磨守となり、その子重盛は正三位に昇叙された。


  法住寺

元和7年(1621)後白河天皇の御陵(法華堂)を守護するために建立された。本堂に安置する本尊不動明王は、方除け厄除けの信仰があり、大石良雄も義挙の成就を祈った。また摂取堂には、親鸞上人自作とつたえる阿弥陀如来像と親鸞「そば」食い像を安置する。
〔後白河天皇法住寺陵〕
後白河天皇は久寿2年(1155)鳥羽天皇に次いで即位され、在位3年で二条天皇に譲位された。その後、五代の天皇の間院政を実施、平安末期の激動期に権謀術数を用いて平清盛や木曽義仲、源頼朝等を翻弄させた。

建久3年(1192)六条西洞院殿において宝算66歳で崩御された。
〔法住寺殿址〕
法住寺殿は、広大で多くの仏堂が建ち並び、東北に新日吉神社、東南に新熊野神社が勧請された。法皇は、よく今様合せの会を開催し、繁栄したものの、寿永2年(1183)木曽義仲によって多くの建物は灰燼に帰した。


  今熊野神社




後白河院が熊野権現本宮の祭神を勧請して、法住寺殿の鎮守とされた。社殿は平清盛の造営。足利義満は当社で初めて観阿弥・世阿弥親子の能を見たという。応仁の乱で荒廃後、寛文6年(1666)に東福門院が社殿を再建した。
熊野神社・熊野若王子神社とともに京都三熊野神社の一つである。

〔大樟樹〕
正面入口の東南隅にある神木をいい、今熊野界隈のシンボルとなっている。高さ20m、樹囲6.5mにおよぶ巨木で、当社創建の際、紀州熊野から移植したと伝える。









11月18日(日)清水の茶碗坂から清閑寺を経て三十三間堂、今熊野神社まで
山あり、下りありのコースでしたが、源平の盛衰を偲びつつ歩きました。

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