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源平盛衰の邸宅を訪ねて

「平家物語」は、源平両氏を含めた全ての人々に「盛者必衰」が必ず訪れることを物語っています。現在、その跡には石碑などのわずかな痕跡しか残しておりませんが、これらの場所を訪ねて栄華の跡を偲んでみました。                                       





  1 六条若宮八幡(源頼義邸)

頼義、義家(為義の祖父)父子の左女牛邸があり、この一郭に頼義が十一世紀半ばに創建したのが六条若宮(左女牛八幡)で、跡地にそれを伝える祠がある。豊臣秀吉によって三転。現在は東山区五条坂の現在地に移転した。











  2 源義経邸

「中古京師内外地図」を見ると、六条堀川の東北のところに「源義経堀川館、源氏累代」の書き込みがあり、義経以前から源氏の邸があったことを伝えている。それがいつまで遡るかはともかく、祖父の為義に「六条判官」の名があり、為義・義朝父子の邸が六条堀川に所在したこと、義経の京の宿所を「六条堀河」としていることから、同地が義経邸と考えられる。















  3 左女牛井

京の名水として平安時代より知られ、平安末期、源頼義の邸宅である六条堀川館の中に名水が湧き出る井戸があったと伝わる。室町時代には 南都の僧・村田珠光がこの畔に居を構え、千利休(152291)らも愛用したといういわれがある。








  4 源為義邸

河内源氏の嫡流である。祖父が源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。通称は六条判官、陸奥四郎。
保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。












  5 平清盛八条第

敷地は、平安京の都制で言えば、左京八条一坊五町(広さ約4440坪)にあたり、区域は壬生大路の西、坊城小路の東、八条大路の北、梅小路の南に位置していた。
主として時子の邸宅として使用し、清盛も本邸として使用されていたことで、天皇の行幸や行啓など重要な時に用いられていた。普段は福原に居住する事が多かったが、変事等(鹿ケ谷事件)が起これば、清盛は同邸を中心として指揮をとった。







  6 常盤囲屋敷




清盛は常盤の美貌と義朝の想女という理由で妾として八条第近くの場所に約2年間の間、囲われた。
常盤の出身階級は判明しない。九条家の雑仕女となった背景は、侍女を選ぶ美女コンテストの千人の中で、最後に残ったのが常盤である。当時常盤は13歳であったという。15歳で義朝の囲い者となった。









  7 源為義墓

権現寺の門前北側にある。墓石は五輪塔の石塔を集めて七輪とし、その傍わらに京都府が建立した石碑がある。
碑文によれば、この墓はもとツ葛野郡大内村大字朱雀小字堂口22番地(現在の下京区朱雀堂ノ口・中央卸売市場)にあったのを、明治45年の京都停車場拡張のため、ここに移した旨が記されている。









  8 水薬師


寺伝によれば、延喜年間、理源大師聖宝(醍醐寺開祖)がこの池の中から一体の薬師如来像を拾得し、これを安置したのが当寺の起こりといわれ、いまなお京都十二薬師の一つに数えられている。
岩井水は、かつて平清盛が熱病をわずらって、この水を汲んで浴したところ、忽ち水は湯となって快癒したという伝説がある。




  9 若一神社

平清盛公が六波羅に住んでいた頃当地は「浅水の森」と呼ばれていて風光明媚な地であった。父忠盛が別邸を造営した。その後、清盛が拡張し西八条邸御所と称した。
開運出世の神様と尊崇され、社前の楠の大樹は清盛公御手植えと伝えられる御神木である。当時、西八条第は50余の邸があったと伝えられる。

楠伝説

市電を走らす計画で、西大路通りだけが最後まで残ってしまった。その原因は、境内にある神木の楠。移転のために、数本の枝をはらっただけで、けがをしたり不幸が起こったりしたため、「楠が祟るんだ」と誰もが伐採を拒否した。
結局、神社の移転はしますが神木はそのままであった。敷設された市電のレールは神木を避けてカーブすることになった。


大火や戦火で焼失した洛中には碑などの足跡や町名に名残が見られる程度ですが
その場所に佇むだけで、古を感じられることは、古都京都の魅力ではないでしょうか。

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