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平家物語ゆかりの史跡を辿る

 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
 奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし
猛者の遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ


この平家物語の巻頭の一句ほど、心に刻まれている古典のことばはない。
日本の歴史が大きく動いた、動乱の時代を舞台として、人の世の儚さ,人の心の機微を七五調の軽やかで流麗な調べに乗せて、我々現代人の心にも訴えかける迫力は古から変わることなく、我が国文学史上に輝く珠玉の名作である。


  忠盛灯籠

平忠盛が雨の夜、白河法皇のお供をして祇園女御もとへ赴く途上で、蓑を着た社の僧の姿が灯籠のぼんやりした灯かりで、鬼と見間違った上皇に、冷静に状況を説明したといわれている灯籠で、この機をさかいに上皇から絶大なる信頼を得たといわれる。「平家物語」からこの名がついた。六角型の石灯籠。花崗岩製。



  祇園女御供養塔




祗園社脇の水汲み女であったが、白河法皇の寵愛を受け「祇園女御」「東御方」「白河殿」などとよばれた。「平家物語」によれば、後に平忠盛に嫁ぎ清盛を生んだことから、清盛は白河法皇のご落胤との説もある。また、嫁いだのは「祇園女御」の妹ともいわれる。






  長楽寺

寺伝によれば、延暦24年(805)伝教大師最澄によって創建された天台の別院と伝え、この地の景観があたかも唐土の長楽寺に似ていることから寺名としたと伝える。「平家物語」によれば、文治元年(1185)5月、建礼門院平徳子が当寺の阿証坊印誓を戒師として落飾され、布施として安徳天皇の直衣を奉納されたが、寺ではこれを播(仏・菩薩の威徳を示す荘厳具)とし、仏前に掲げている。
〔建礼門院〕(1155−1213)
 平安後期の女院。高倉天皇の中宮。名は徳子。安徳天皇の母。父は平清盛。母は二位尼平時子。清盛の権力拡大の一環として、承安元年(1171)後白河天皇の養女となり、従三位(じゅさんみ)に叙され、高倉天皇に入内し、翌年中宮となる。治承2年(1178)安徳天皇が誕生された。
  写真は、建礼門院の供養塔


  双林寺

金玉山と号する天台宗の寺。沙羅双樹林寺または、法華三昧無量寿院ともいう。
当寺がとくに世に知られたのは、平安末期以降に文人・歌人が多く隠栖し、多くの詩歌を書きとどめたことによる。なかでも治承2年(1178)平家打倒をくわだてて失敗し、丹波少将成経・法勝寺執事俊寛と   ともに鬼界ヶ島に流された平康頼が、翌年ゆるされて帰洛し、双林寺の ほとりの山荘に隠栖したことが、「平家物語」によって紹介されたことによる。康頼は間もなく出家剃髪した。
西行は保延6年(1140)10月、23歳で出家遁世したが、その年の暮れに鞍馬に入り、翌永治元年(1141)に東山へ移り、双林寺や長楽寺等に草庵をむすんだ。河内の弘川寺にて73歳で没した。


  西行庵

鳥羽院の北面の武士佐藤義清(のりきよ)は妻子を捨て出家、この付近に草庵を結ぶ。西行堂・母屋・茶室(皆如庵)がある。
〔西行桜〕
堂前にあり、花を愛し、旅に死んだ西行を偲んでのちに植えられた桜である。毎年4月第2日曜日には全国の歌人達が集まり、この花の下で西行忌がおこなわれる。


  崇徳天皇廟

保元の乱で敗北、讃岐に配流された崇徳天皇は、怨念を抱いて崩御したといわれる。寵妃の一人、阿波内侍が出家してこの地で仏堂を建て、天皇の菩提を弔ったという。
崇徳天皇は和歌に優れ、歌会・歌合を頻繁に催し、藤原顕輔に命じて「詞花和歌集」を撰進された。なお「古事談」では、白河天皇が実の父であると記されている。



  建仁寺




栄西禅師が開創したわが国最初の禅刹。勅使門は「矢の根門」「矢立門」ともいわれ、平重盛(清盛の長男)の六波羅屋敷の館門を移設したといわれ、扉や柱に矢の跡が残っている。






  寿延寺



五條大橋(松原橋)で戦った牛若丸と弁慶が、十禅師ノ森で主従の誓いを結んだといわれている。このあたりが十禅師ノ森址で、庫裡の庭先に「五条十禅師宮旧蹟」としるした石碑がある。大きくはないが、伝教大師作の大黒天があり、前の道を大黒道という。
諸病平癒の洗い地蔵でも有名である。
路地の奥に位置しているが、本堂のご本尊や大黒天など観光散策の穴場だろう。







  妙順寺

六波羅邸の別邸で池の大納言経盛の屋敷跡の西側に位置している。
経盛の母、池の禅尼は平治の乱で捕虜となった源頼朝が、彼女の早世した息子、家盛に似ていることから清盛に助命嘆願する。
境内にある釣殿井は、安徳天皇の産湯の井戸と伝承されている。



  六波羅密寺

普陀落山と号する真言宗智山派智積院に属する寺で、西国三十三所観音霊場の第17番札所である。今は多くの仏像彫刻(平清盛坐像・空也上人立像など)を所有する点において美術史上貴重な存在となっている。

〔伝平清盛僧形座像〕(重文・鎌倉)は像高83cm。木像彩色、玉眼入。淨海入道と号した晩年の平清盛の姿を写したもの。

〔清盛塚〕 江戸時代作の形の悪い五輪石塔で、平家ゆかりの地に因んで近世に至って造られたものである。

〔阿古屋塚〕(鎌倉)阿古屋とは五条坂の遊女といわれ、平家の侍大将悪七兵衛景清の情けをうけ、畠山重忠から景清の行方について琴責めで詮議をうけたという。浄瑠璃「壇浦兜軍記」によって世にしられたという。鎌倉中期の遺品で、高さ約1.76m。花崗岩製。




  平氏六波羅邸址

南は正面通まで、西は鴨川まで、東は東山山麓の小松谷におよぶ広大な地域で、六波羅蜜寺や大仏方広寺等はこの中に含まれる。
また、清盛自身の居館は泉殿といい、その場所は現在の豊国神社西辺と伝えられている。また池ノ大納言頼盛(清盛の弟)の居館は池殿といい、六波羅蜜寺の西南、現在の池殿町がその旧地と伝える。ここは高倉天皇の御座所ともなり、中宮建礼門院(平徳子)は、ここで皇子(安徳天皇)を降誕した。









  六道珍皇寺

大椿山珍皇寺、本尊は薬師如来で六道さんと親しまれており、創建は 定かではないが、古くは愛宕寺(おたぎでら)や六道寺ともいった。
  
六道珍皇寺辺りは、阿弥陀ヶ峰山麓一帯の鳥辺野(とりべの)といわれた東の葬送地への入口にあたるため、現世と冥界の境界として小野篁が冥土通いをしたと言う伝説を生み、「六道まいり」の信仰を集めた。

(清盛の荼毘と墓)
平清盛は、養和元年
(1181)閏2月4日に京都九条河原町の平盛国の元で熱病により生涯を終えた。「平家物語」では、清盛の遺体は「同7日、愛宕(おたぎ)にて荼毘に付したとの記述があり、この愛宕が六道珍皇寺(愛宕寺)の付近であるといわれている。



平成24年4月8日第110回史跡ウォークは、好天に恵まれ、奇しくも花まつり、西行忌と重なり参加者135名、会員30名で盛況の内に終了しました。(洛東支部)

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