物集女氏(もずめし)と物集女城(もずめじょう)
乙訓地域の中の「物集女(もずめ)」は、京都へ入るための古くからの重要な道の一つである物集女縄手(街道)と、山陰街道へつながる道が交わる交通の要衝の地で、応仁の乱など戦乱のたびに多くの軍勢が行き交う場所となっていました。 この交通の要衝の地であった物集女の地に、地名を名字として室町時代から戦国時代まで活躍した土豪が物集女氏でした。
この戦国時代の物集女の地(向日市物集女町)に「物集女氏」が築いた城が「物集女城」です。 しかしこの当時の有力な土豪が自分の領地に築く平城は、江戸時代の城のように石垣や天守閣を備えた堂々たる城ではなく、居館に小規模な土塁や堀などの防御機能を備えただけの、まさに「土の城(城館)」でした。
山本新次郎氏顕彰碑
日本で最も美味しいと言われているお米「コシヒカリ」・・、このコシヒカリの先祖を生んだのが、ここ向日町(向日市)の山本新次郎氏です。
「コシヒカリ」は、母が「農林22号」、父が「農林1号」の交配により育成されたものです。その母である「農林22号」は、「銀坊主」と、山本新次郎氏が発見した「旭」を交配したものに由来しています。
明治41年秋、向日町の農家であった山本新次郎氏は、自分の田で稲刈り中、べったりと倒れた在来品種「日ノ出」の中に、たまたま倒伏に強い1株を見つけたのが、この「旭」という品種のはじまりでした。
淳和天皇火葬塚
淳和天皇(第53代)は、長岡京を築いた桓武天皇(第50代)の第3皇子で、 兄の嵯峨天皇(第52代)と共に物集女にはゆかりが深く、840(承和7)年に亡くなると、遺言によってこの物集女の地で火葬にされ、大原野の小塩山の山頂から散骨されました。 江戸時代には、ここが「淳和天皇の御陵」とされていましたが、現在は宮内庁の管理となっています。
物集女車塚古墳
向日丘陵から平地に下る尾根を利用して築かれたもので、向日市市域で最後に築かれた前方後円墳です。
江戸時代、幕府による天皇陵の調査が行われた時、この「物集女車塚古墳」は「淳和天皇陵」の候補地としてあげられました。
しかし、文久年間(1860年代)の再調査で、「前方後円に築きたる古墳」と判明したので、改めて大原野小塩山方面に陵の参考地が移されました。
○ 現在も機能する石室の排水溝
千数百年を経過した現在でも完全に機能している小さな排水溝に注目願います。
○ 物集女車塚古墳の「車塚」とは・・・?
「車塚古墳」と呼ばれる前方後円墳は、この「物集女車塚古墳」と同じように全国各地に多くみられています。 おそらく、「円形と方形を組み合わせたその独特の形」をあらわすものとして古くから「車塚」という固有の名称がつけられたものであろうと考えられています。
桓武天皇皇后陵
この墳丘は、宮内庁が「桓武天皇皇后陵」として管理している円墳です。
宮内庁の陵墓測量図によると、円形の墳丘で、直径65M、高さ7Mの二段築成であろうと考えられています。 この墓の東北200Mほどの場所で全長75�僂發竜霏腓幣�輪棺が出土しました。 埴輪棺の形式は古墳時代の前期末ないし中期初頭のものですから、この墳丘の年代は五世紀前半頃であると推定されます。
桓武天皇(737〜806年)は八世紀末の天皇ですから、この円墳(墓)を桓武天皇皇后陵とするにはどうしても無理があるのではないかと推定されています。
竹の径
向日丘陵一帯は美しい竹林に覆われています。
中国から伝えられたという孟宗竹は、人々のたゆまぬ努力によって手入れされて最高の品質を誇る乙訓特産の「たけのこ」を産みだしています。
この竹林の道が、竹垣の散歩道「竹の径」として整備されました。
竹林の径に続くいろんな種類の「竹垣」にもご注目下さい。
特に史跡ではありませんが、京都らしい一面を感じていただきましたら幸いです。
寺戸大塚古墳
現存する古墳では乙訓で二番目の規模を誇り、古墳時代前期の四世紀前半に築造されたと推定される前方後円墳です。
墳丘の主軸はやや西に傾いており、前方部は南南東に面しています。
京都盆地の西端に北方から細長く伸びている向日丘陵の尾根の上に築かれた前方後円墳であり、中央の大和政権ともつながりの強かった首長の墓であろうと考えられています。
墳丘の東側は向日市、西側が京都市になっています。 向日丘陵一帯は大正時代以降、タケノコ栽培のための竹やぶとなっていました。 寺戸大塚古墳の墳丘も例外ではなく、特に前方部の墳丘上部は切り土や盛り土が繰り返され、墳形が大きく改変されています。
竹林公園
竹林公園は、京都市西京区の洛西ニュータウン東部丘陵地に位置し、竹類の生態的な特徴を観察しながら植物資源としての有用性を見直し、活用する事を目的に回遊式庭園として整備され、1981(昭和56)年6月に開園しました。
○ 百々橋(どどばし)
園内には歴史的に貴重な展示として、「百々橋(どどばし)」が架かっています。 かつて京都市内の百々町と宝鏡院東町との境の寺之内通に架けられていた橋で、応仁の乱(1467〜1477)のとき、細川氏(東軍)と山名氏(西軍)が11年に渡る戦いの発端となった橋です。
○ 石仏群(せきぶつぐん)
織田信長が室町幕府の最後の将軍となった足利義昭の為に築いた旧二条城<1569(永禄12)年>の石垣に使ったといわれる石仏の数々です。
信長は多数の石像を倒し、首に縄をつけて工事現場に曳かせたと伝えられています。 あの信長の性格の一面を見る貴重な石仏群となっています。
平成24年3月11日の第109回史跡ウォークは、東日本大震災1周年、第1回京都マラソンと重なりましたが、好天に恵まれ、152名の参加を得て、好評裡に終了しました。(洛西支部)