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このウォークの地図

町名に歴史を残す山鉾町

祇園祭で山鉾を出すこの地域は、京都の金融、糸編産業の中心として栄えてきた。壮大な山鉾の林立する様は祇園祭の期間しか見られないものの、町名や道標などに往時を偲ぶことができます。 この度は、そんな町中を散策してみます。         

  千総本社(三井ガーデンホテル)

御池通から龍池町柿本町、御倉町、竹田田明けだ道安邸跡の道標を通り過ぎ、法衣商千切屋の分家。現在は友禅染呉服の製造・販売を行う。千切屋一門の祖、与三右衛門貞喜(1603年没)を初代とし、二代与三右衛門雄貞の子息貞が分家、その三男貞道が宗左衛門を名乗り、現在地(中京区三条通烏丸西人ル御倉町)で法衣と金欄巻物の呉服商を始めた。その子貞恒−貞義―貞利−貞興−貞雄−貞正−貞易が代々惣左衛門を称し、その後の直篤−皓月−磐男は総左衛門を名乗る。明治期以降、友禅染を扱い、直篤はビロード友禅・無線友禅を完成、下絵に岸竹堂・望月玉泉・今尾景年ら起用して内外の博覧会で受賞した。
新社屋は、本社棟、工場棟、庭、ホテル棟に分かれ、二階はギャラリーが新設され、円山応挙の軸物や、江戸期の小袖等が展示されている。


  住友銀行(現三井住友)

住友銀行は明治28年(1895)に住友家の個人経営の形で創設された。住友は、約400年前の江戸時代初めに商家として発展してきた。
江戸時代は、銅精錬と銅鉱業を主な事業とするかたわら、銅の輸出や輸入を、また金融業など多角的に事業を営み、大阪、江戸、長崎、別子と各地に及んでいた。商家としての住友家は天正13(1585)に生まれた住友政友を宗祖としている。
屋号の「泉屋」は南蛮吹きを伝授した外人の日本名「白水」を合わせて「泉」にした通説、五条天神の神霊夢告(夢のお告げ)、出身地和泉にちなんだとする説がある。菱井桁印の商標は屋号の泉から自然に出てきた標章と思われる。
住友家が別子銅山を堅持していたことは、明治維新の変革期に住友家の崩壊を防ぎ、その後の経営再建と飛躍のための事業基盤になった。広瀬宰平ら住友家の幹部たちは、当主友親の諮問に答えて別子銅山を中心にして家業の維持・繁栄を図るという基本方針を決定した。別子銅山に西洋技術を導入し近代化を推進して事業の再建を実現した。本支店の整備改革を行い、神戸支店を開設、明治4年、産銅の買い上げ制の廃止に伴い販路を広げる必要として、国内問屋を経由せずに、外国商館と直接取引を行うことヽを意図し、42月に神戸に製鋼売捌所を設け、翌5年、これを神戸支店と改称した。同店は別子の産銅の販売を主要業務としたほか、のちには樟脳、製糸、製茶などの売買も扱い、また明治21年からは貸金業務も行うようになる。






  木下順庵旧宅

貞享(166488)のころ、占出山町には儒者木下順庵が住んだ。順庵は名を貞幹、字は直夫といい、通称は平之充といった。元和7年(1621)に当町に生まれ、朱子学派の儒者松永尺五に学ぶ。加賀前田家に仕え、天和2年(1682)幕府の儒者となり、徳川綱吉の侍講となった。教育者としてもすぐれ、木門と称し、門下に新井白石・室鳩巣・雨森芳洲・祇園南海・榊原篁洲らがいる。著書に『錦里文集』などがある。元禄11年(1698)に没した。
◎ 占出山町
祇園会の占出山が出たことから名づく。寛保(1741年)「鮎祝山の丁」と、山鉾占出山の別称「鮎祝山」をとっている。宝暦12(1762)刊「京町鑑」で初めて「占出山町」に統一。祇園会山鉾。本来は前の祭に巡行。応仁の乱以前の記録になく、明応9年(1500)復興の折の(祇園社記)には「十二番 神功皇后山 ニシキの烏丸と室町ノ間他」とある。
◎ 「笋町」(たかんな)

天文6(1537)六角町文書にみえる七町半組に含まれているはずだが記録にない。寛永14(1637)に「たかの丁」とあり、以後中井家系の絵図はだいたいこれを踏襲する。一方、「高名町」、「たかのゝ町」とされ、宝暦〜天明期(175189)に「笋町」(たかんな)に統一される。町居住の諸職商人には、たゝみ大工・経師屋、にしきし・たんざく・手本紙などとある。 孟宗山を出す


  三和銀行(三菱UFJ)

三和銀行は昭和8(1933)に、三十四銀行、山口銀行、鴻池銀行の3つの銀行の合併によって創立された。
その一つ、鴻池のは
明暦2年(1656)江戸時代初期に大坂で開業した鴻池両替店に始まる。
始祖の新六幸元は元亀元年(1570)戦国武将、山中鹿之介の子として生まれ、摂津伊丹の鴻池村(現伊丹市)で成長し、酒造りを始め、海運業そして両替商へと発展した。
鴻池家までたどると、三和銀行は我が国に現存する金融機関としては最も長い歴史をもっている。
山口銀行の山口家も江戸時代の商家で、呉服商の次男、吉郎兵衛が独立、屋号を「布屋」としたが、文久3年(1863)両替商への転業した。
安政6年(1859)の開国と共にわが国の輸出入も増え、外国の銀行、特に英国系のバンク(銀行)が横浜に支店を開設するようになったことから、わが国でも、バンクを設立しようとする動きが現れた。それが為替会社である。
為替会社は明治2年、東京、大阪を始め全国8ケ所に設立され、預金、発券、貸出、為替、洋銀の売買などを業務としたもので、これが銀行業務のさきがけとなった。
◎ 菊水鉾町
元亀2(1571)には、下京中組のなかに「ゑひすの町」とあり、天文6(1537)正月3日の記録に、室町殿年頭拝礼の人目を中組が負担している。祇園会の菊水鉾は応仁の乱以前から当町にあったようだ。寛永14年(1637)洛中絵図に「ゑずや町」とあり、寛文期(166173)まで記す。元禄末期洛中絵図に初めて「菊水鉾町」がみえる。既に室町時代中頃から当町東側に夷社があり(室町の末には武野紹?亭「大黒庵」が南に隣接)、「夷之町」と称していたが、貞享元年1684)社務所から出火して祠堂・神像を焼失したため「菊水鉾町」と改称したという説(明倫誌)があるが、俗称としての「菊水鉾の町」は早くからあったらしい。初期の「ゑずや」については不詳
当町居住の職商人には、木綿足袋屋、菓子所宝米屋(貞享二年「京羽二重」)、
伊予今治松平妥正の用達商人・産前産後医がいた。幕末には。金剛流能師野村直寛が住んだ。直寛は仙洞御所及禁裏御所御内々御能掛を務め、文久元年(1861))10月皇女和官降嫁なごりの演能で蝉丸を演じた。現在の金剛宗家はいったん絶家した野村邸に、金剛謹之輔が直寛末女を娶って移ったもの。


  金剛能楽堂名前

現金剛家は本来は野村家である。佐々木の一族で、野村家は久綱を初代とし四郎太夫と称する武家であった。主人筋である、浅井朝倉両家滅亡後は豊臣家に仕えたが、秀次切腹のために流浪の身となった。
五代目信吉は、居を京都に定め、野村利兵衛と称し宗古と号して能楽を家業とした。
金剛流宗家として斯界の権威として重きをなしている。
◎ 山伏山町
永和4年(1378)より山伏山ができ、応永31年、明応5年(1496)の祇園会再興時に山伏山を出す。元亀2年(1637)下京中組のなかに「山伏山町」とあり、寛永14年(1637)洛中絵図に「山伏山丁」とあり、以後変化はない。


  元明倫舎(元明倫小学校)

手嶋堵庵は享保3年(1718生まれ、後年東山の麓の手嶋氏の跡に住み手嶋を氏とし、東郭子と号した。彼の学識と人格で多くの門弟を集めた。
堵庵没後の天明8年(1788)の大火で、鴨川東岸三条上がるの明倫舎を焼失した。そのため翌寛政元年閏6占出山町住人の鍵屋小兵衛の名前で、町内の空借家で石田梅巌門下が廻講釈をしたいからと願い出て許可され、占出山町へ移ることとなった。
明倫舎第二世の主は堵庵の長子和庵、次いでその弟上河淇水である。
その足跡は東は江戸、西は阿波備前にまで及んだ。
明倫舎の建物は元治元年の大火に類焼し、このとき古記録類もほとんど全て焼失した。明治8年(1875)、小学校の校名を定めるにもその名を採った。

◎ 橋弁慶山町
下京牛寅組のなかに「橋弁慶町」があり、の天文6年(1537614日の記録に、将軍祇園会上覧の人目を艮組が負担している。更に応仁の乱以前に既に祇園会の橋弁慶山を出している。
◎ 鯉山町
元亀2年(1571)には牛寅組のなかに「六角室町」、別に「三条室町ゑほしや」とあり、これは鯉山町のことである。
将軍祇園会上覧の人目を艮組が負担している。祇園会の鯉山は明応91500)からこの町に建営されている。寛永14年(1637)洛中絵図に「こい山ノ丁」とあり、以後「鯉山町」「鯉山之町」などとあって変化はない。
◎ 骨屋町
「此町には扇のほねやおほし」とあって、室町末期以来の状況をとどめているが、「京雀跡追」(延宝六年刊)では「扇のほね師中比よりたへたり、今は大かた是も皆旅人の宿かす所右同じ、水引や有」とある。六角堂頂法寺を訪れる巡礼廻国者の旅宿が、門前では不足し、鳥丸通をへだてて西に延伸したものである。諸国飛脚宿、諸国絹問屋もあった。
浄妙山 本来は後の祭に巡行。応仁の乱前の山鉾の記録に「しやうめう坊山」とあり、また明応9年の復興の折には「五番 あしうさうしやうめう(悪う候浄)」よって応仁の乱前、現姥柳町付近にあった浄妙山が、乱後この町に移ったことを知る。
◎ 烏帽子屋町
永享元年(1429)に浄土宗常楽寺が、当町西側に移ったという。天正年間(157392)に裏寺町蛸薬師下ルに移った。当町はもと常楽寺町とよばれ、南の鯉山町を常楽寺一丁目と称したというが不明。
寛永14年(1637)洛中絵図に「ゑぼしや丁」とあり、以後変化はない。寛文
5年(1665)に「此町にゑぼうしををりて売なり、又614日祇園会に黒主山をかざりてまつり渡す、これは花山の桜を大伴のくろぬしがながむる所といへり、ある説には雲林院の花ともいへり」とある。当町を「黒主山町」ともいう。
◎ 黒主山
本来は後の祭に巡行。
寄町は槌屋町・油屋町・八幡町(現柳八幡町)・大阪材木町・桝屋町・弁慶石町・高田町・紺屋町。
今も烏帽子作りは、着実に行われている。映画『源氏物語』の長谷川一夫が用いた冠は冠師16代山岡栄三(中京区丸太町高倉西人ル)の作、初代は滋賀県瀬田の城主山岡美作守景隆の弟山岡五郎衛門繁治で天正10年(1582)今の烏丸御地西人ル虎屋町で虎屋司と号して烏帽子鼠を開き、元和元年(1615)山岡家2代目が烏帽子屋町に移ったと伝えられている。


  五色の辻

江戸時代後期には三条室町の四辻を「五色の辻」と称したが、これは四囲すべて千切屋の借家で、東南に赤壁、南西に黄壁、東北に青壁、西北に黒壁を配したため、巷間かく戯称したという。
◎ 役行者町
応仁の乱前以前には「一、ゑんの行者山、姉小路室町と三条間」とあり、応仁の乱以前から、祇園会に「役行者山」を出していた。寛永14年に「円ノ行者丁」とあり以降変化はない。
役行者山  本来は後の祭に巡行。また明応9年の復興の折には「九番ゑんの行者山、姉小路室町と三条間」とある。


   千吉

千切屋西村氏はその先祖は藤原氏で、春日神社若宮祭の千切花を供進した家で、桓武帝の平安遷都の際に移住してきたといわれる。
その後三条室町西人ル所(現在千吉本館西境より東へ七間半に至る場所)に店舗を設け、大舛屋本嶋の娘福を妻とし、屋号を千切屋と称し、暖簾に千切台の紋様をつけ、本嶋の縁により、金欄袈裟法衣等の裂地の仕立販売を始めた。これが千切屋の起源である。
屋号は、遠祖が神前に奉献する造花鉢の台「千切台」を制作していた故事から「千切屋」を家号とすることなった。
 衣棚町
元亀2年(1571)に下京牛寅組15町の中に「衣たな町」があり、応仁の乱以前より祇園会の鷹山も認められる。しかし、元治の大火で人形の手足・頭などを残して焼失、その後復旧していない。寛永14年(1637)洛中絵図には「衣ノ棚丁」とあり、以後変化はない。


  了頓図子

広野家は代々足利氏の従臣であったが、義輝の時此地を領有して市井人となった了頓は、ここに茶亭を構え茶道を広めた。豊臣秀吉も広野邸を訪れて茶を点じ、その縁によって知行280石を宛行われ、この地を安堵された。
文禄3年(1594511日、徳川家康も了頓邸に遊んだが、その様子を山科言経は日記「言経卿記」に次のように記す。
一、江戸亜相了頓、へ御出之間、可参由兼日 相催之間罷向了、朝・夕食種ヽ丁寧也、戌刻ニ帰宅 了、人数、亜相・予・藤方勘右衛門尉・古田織部・本胤坊碁打、其外七八入有之、及晩景鵬有之、終日碁・将棋也、

邸地は了頓の意志によって表門より裏門への一般の通行を許した。表門は当時六角通に面し、将軍御成門と称したという。

◎ 了頓図子町
三条通(旧三条大路)から六角通(旧六角小路)まで、南北に通る了頓図子東側の片側町。寛永14年(1637)洛中絵図に「りやうとんノ図子」とあり、寛文後期は「玉くらノづし」とするが、一方、初期町鑑類には「連忍の辻子」「れんにんのづし」とある。ただ、この呼称は寛文から元禄の間に限られ、あるいは転誂か。町名は広野了頓邸の所在に由来。
◎ 玉蔵町
室町時代末期、永禄3年(1560)ガスパル・ヴィレラがこの町でキリシタン布教のために小屋を借りた。フロイスの「日本史」には「六角町、すなわち六つの角の街という街の玉倉ノ町という所へ行って、そこで、クンダノジュチョウという異教徒の家を借りた」と記されている。
寛永14年(1637)に「玉倉町」とあり、寛文5年(1665)に「もとの名は手
枕町といふ、又玉倉町といへり」とある。「此町に源三位頼政の社あり」というが不詳。
当町居住の諸職商人には「さし物」「てうしや」とある。また大鼓の櫛慎重右
衛門・謡の池田甚右衛門、諸国絹問屋の丹後屋があった。
祇園会寄町は八幡山。当時八幡山からは612日(旧暦)山昇初めの時、この町まで山を昇き入れ、町では行事が出迎えた後、六角室町境まで昇いていく古例があった。


  三井家旧跡

三井家は、中世以来近江佐々木氏の家臣であったが江戸初期に、越後守高安の子高俊が伊勢松坂で酒屋・質屋を開業して以来、越後屋の屋号で呼ばれる商人となった。高俊の四男高利は、新町六角の地で呉服屋を開いた。次いで、江戸にも上って呉服屋を始め、現金かけ値なし・呉服太物切売りの商法で発展。そして両替商を営み、京都・江戸・大阪三都両替の総本店とし、幕府の金銀為替御用となって活躍した。
慶応3年(186712月、王政復古の大号令が出た際、朝廷は多額の経費を必要としたので、富商の三井、島田、小野組に御用金の献納を命じ、翌明治元年(1868)正月の鳥羽・伏見の役後は官軍の進発ごとに軍資を献上した。
台湾出兵、西南戦争が起こると陸軍出納御用として軍費を調達した。また、これと前後して三井銀行、三井物産会社を興して金融の難局にあたるなど戦前の三井財閥の素地を作った。
9年(1876)に設立したわが国最初の私立銀行たる三井銀行は、その業務内容・資力共に充実して資本金2000万円の株式会社三井銀行となる。
◎ 六角町
鎌倉時代より室町時代にかけて、六角町尻小路には、六角生魚供御人が居住していた。もとは禁裏の膳部生魚の提供者があり、御厨子所預宗季法師によって設けられたという(地下家伝)。
(北野天満宮史料)によると、「四郎次郎 四条坊門町北東頬 則友 在判」「次郎三郎 六角町南西頬 義重在判」「四条坊門町北東頬 法性尼 在判」とある。
室町中期以来当地が三条町と並んで祇園社座商人・巨商の在任地であったが、
近世でも各藩の御用商人らが軒を並べ、三井家に代表される大商人が多かった。


  伊藤家旧跡(松坂屋)名前

わが国の代表的百貨店の多くは、江戸時代に創業の呉服店を母体としているが、松坂屋も歴史は古く、今をさかのぼること約400年、江戸時代初期にあたる慶長16年(1612)に名古屋本町に伊藤源左衛門祐道が創業した呉服小間物商が源泉である。
明治43年(1910)、伊藤家15代祐民が法人組織を樹立して百貨店を開業しそれから星霜を重ねること100年、東西に大店舗をもつ日本屈指の百貨店に成長したのである。
京都と江戸は、高級呉服の生産と消費の二大中心地であった。既に有名呉服店は京都に仕入店をもって活躍していた。
明治初年に名古屋の伊藤家は「蛭子屋(江戸の老舗)」を買収、同8年大阪に店舗を新築。のち昭和16年「有限会社ゑびす屋」となり、22年に株式会社となり総合呉服問屋として商品を京都で仕入れ、全国松阪屋各店に納入されている。

  染織参考館
松坂屋の服飾参考品は昭和6年(1931)小林専務の卓見により収集したもので、戦時中は大阪店地階に戦火を避けて保管され、無事京都仕入店にもどっていた。わが国の服飾文化をつづる時代衣裳や参考品は戦火で焼かれ、その上戦後の混乱に外国へ流出したものも多く、松坂屋のコレクションは文化財保護委員会から、重要美術品申請の交渉があったほどで、文化遺産として昭和32年に同館を建設保存している。

◎ 姥柳町
元亀2年(1571)には、下京牛寅組の中に「うは柳町」とあり、応仁の乱以前には祇園会の浄妙山を出し、これはのち骨屋町に移るが、更に布袋山を出している。
幡藩織田越前守用達商人いせ屋。祇園会には、布袋山、廃絶後は長刀鉾の寄町となる。


  南蛮寺跡

南蛮寺は、キリシタン聖堂をいい、16世紀後半、京都には数カ所に建立された。位置には諸説があるが、当寺は四条坊門(現姥柳町に建立されたいわゆる京都南蛮寺をさす。正式には「サンタ・マリア御昇天の寺」(フロイス「日本史」)、または「珊太満利亜御上人の寺」ともいう。
〔創建と信者の協力〕

高槻の高山右近父子は、用材調達の任を受け、摂津のジョルジ結城弥兵治は、450人の人夫を連れてこれを援助、職人たちの食糧の便も図ったという。
しかし町衆、僧侶たちはこの建設に反対したが信長が特別に許可した。また、洛中の大工は安土城工事に徴発されていたが、村井貞勝は南蛮寺建築の大工には特権を与えてこれを支援した。
〔南蛮寺の完成と結構〕
天正4712日工事は完成していなかったが、オルガンティーノが最初のミサを捧げた。当日はザビエルが薩摩に到着した日で、また西洋暦で815目の聖母被昇天の日でもあり、この日を記念して献堂式が行われたものである。京及び近隣諸国から多くの信徒が参集し、特に高山父子は妻子・親族をはじめ200人以上を連れて聖体を拝領した。こうして南蛮寺は天正5年までには完成、その信仰は日本遠隔諸地方まで弘まったと、フロイスは「日本史」に記している。

天正16年、豊臣秀吉の禁教令によって破却されたと伝える。なお、昭和48年の発掘調査によって、中門礎石・炉跡・敷石・ゴミ捨穴が発見された。特にゴミ捨穴からは美濃焼・唐津焼の陶器と人物線画の石硯が検出された。石硯は粘板岩を用い、裏面にキリスト教の儀式を司祭する人物が線刻される。

◎ 百足屋町
元亀2年(1571)下京中組の中に「四条坊門むかでや」とあり、また天文6年(1537)正月3日の記録に当時「むかでや」なる豪商があったという。また祇園会の観音山が応仁の乱以前に当町から出ている。寛永14年(1637)『洛中絵図』にむかでや町とあり、以後変化はない。長崎糸割符商人、医師よし田栄庵、幕末には、漢方蘭方に通じた医師新宮涼閣がみえる(明倫誌)。
南観音山 
江戸時代には六角町の北観音山と隔年交代で巡行。別名下り観音山。
応仁の乱以前の山鉾を記録に「ふたらく山 錦小路町と四条坊門間」とあり、明応9年(1500)の乱後復興時にはみえないが、やがて復興し巡行したらしく、以後現在に至る。この山には、観音を宵山の夜に山上に安置する前に、台にくくって町内を担ぎ回る、いわゆる「あばれ観音」の習俗があるほか、古書は次の古例を記す。六角町百足屋町両町に山二ツ有。隔年に餝(かざり)出す。又古銭五貫文毛氈五枚両町に有。当年山出す町へ前年つとめたる町より其古銭と毛氈とを送る也。


  茶屋四郎次郎旧宅

近世初頭、朱印船貿易商・糸割符商人として活躍し、京都町人総筆頭として角倉・後藤と並び京都三長者の一と称された茶屋四郎次郎の邸跡。
宝永5年(1708)の大火で小川通出水(現上京区府庁北西)へ移転するまで、六代約180年間この地に居住した。
茶屋四郎次郎は、信濃探志(現長野県松本市)の小笠原長時の被官中島四郎明延の子。明延は大永年中(152128)に京都に上った。のち小笠原長時は三好長慶を頼って入京した際、旧縁によりしばしば将軍とともに明延邸を訪れ茶を喫したという。いわゆる家名「茶屋」の由来である。

初代四郎次郎清延は、徳川家康に仕え本能寺の変の際は、家康の岡崎帰還を援助。のち家康によって江州守山に馬料切米200石と、京小川通出水、江戸本町二丁目に屋敷地を与えられたが、なお百足屋町に在住し、文禄元年(1592)にはじめて朱印船を出した。以後、六代延常まで当町に住した。


  林羅山旧宅

林羅山は、名は忠、一名信勝、字は子信・羅山・羅浮山・羅洞・長胡・瓢庵・尊経堂・梅花村等号は多く、通称又三郎、幼名を菊麿(一に菊松丸)、法号を道春という。
早くから朱子学の研究を志し、当時、洛北に居た藤原惺窩の門人となった。
慶長10年(1605)徳川家康に仕えて扶持300俵を与えられ、以後家綱まで四代の将軍の侍講となった。外交文書・諸法度の草案をつくり、幕政の整備に貢献した。
日本固有の信仰と朱子学説との調和をはかった。幕府儒官林家の祖である。

◎ 天神山町
元亀2年(1571)には、下京中組の中に「天神山」とあり、応仁の乱以前から祇園会には天神山を出している。
当町から巡行する祇園会山鉾を、宝暦―天明期から霰天神山とよぶようになるのは、火難守護の伝承もさることながら、民間に流布した「あられや町」の名ともかかわっていよう。
当町北側には尾張徳川家の京屋敷があり、明治3年(1870)に廃された。観
音堂図子の北口に面して門があり、広大で、廃邸後十数年は空地のままだったという(明倫誌)。
また当町には仏絵師、大坂呉服問屋。放下鉾の寄町。
◎霰天神山
本来前の祭に巡行。応仁の乱以前に「天神山、同町と室町間」とみえ、また明応9年の復興の折にも「二番天神山」とみえ、江戸時代中期までの町鑑や案内書類でも「天神山」と記された。

俗に「火除天神」「飛天神」といわれ、天明・元治の大火にも類焼を免れた功験がある。当山には寄町はなく、観音堂図子(現観音堂町)より地ノロ米一斗が届けられるが、すぐに蟷螂山町へ捧参されるきまりであった。
◎ 観音堂町 (撞木辻子)
町の東寄りを南北に室町通(旧室町小路)の西裏通が通る。
寛永14(1637)洛中絵図に「東くわんおんノづし」、元禄末期洛中絵図で「観
音ノ辻子」、また寛永18年以前平安城町並図では「くわんおん堂ノつし」とある。一方、町鑑類と元禄から寛保に至る京大絵図には「撞木辻子」「しもくのつし」などとあり、二町名が併称されていた。宝暦12(1762)刊「京町鑑」も「観音堂東辻子、俗に撞木辻子」とする。
撞木辻子とは、その形状が丁字形で
撞木に似ているところからの命名。なお別に「西図子町」なる呼称もあった。
◎ 小結棚町
元亀2年(1571)には、下京古中組の中に「こゆいの棚町」、また天文6年更に応仁の乱以前より祇園会には当町付近から放下鉾を出した。
由来は
「小結ゑぼしを造る者いにしへ新町四条に有、其所を小結の棚と云今あやまり恋の棚と云」とみえる。
当町には蹴鞠の用具などを作る職人が居住、白粉所・大鼓師匠、三州岡崎藩水野氏の呉服所、銀座平銀免役、両替屋などがいた。幕末には画家横山清輝が住み、高橋当義が家塾を開いていた。
放下鉾は本来は前の祭に巡行。曳鉾。応仁の乱以前に「一、はうかほく 錦少路町と四条間」とあり、また明応9年の復興の折には「十四番 はちか山 とある。以後現在まで続く。なお「廿一番 はうか山 錦ノ小路と西洞院の間」とあって、現西錦小路町付近にも同趣向の山があったらしい。

◎ 炭之座町
新町通(旧町尻小路)の西裏通りを挟む両側町。平安時代、当町は関白藤原頼忠邸があり、その女遵子が円融天皇皇后となって、四条宮とよばれた。
寛永14(1637)洛中絵図で「すみノ座すし」とあり、以後変化はない。ま
た宝暦12(1762)には「炭座辻子又地獄辻子ともいふ」とある。祇園会には郭巨山の寄町
◎ 蟷螂山町
応仁の乱前のには「かまきり山 四条西洞院錦小路間」とみえ、蟷螂山を出した。また「祇園社記」所収「材木屋在所」によると、「にしきのこうちにしのとういん 次郎殿」とみえ、町域内に材木屋を営む者がいた。
町名は、寛永14(1637)洛中絵図に「かまきり山丁」とみえる。
祇園会に当町から蟷螂山を出したことによる。
蟷螂山 かっては67日の前の祭に巡行した。また明応9年の復活の折には「三番、いほしり山、」とある。江戸時代を通じて巡行したが、安政4(1857)に故障があり、元治元年(1864)の大火で焼亡。以後廃絶していたが、昭和55年に復旧する。


  亀龍院

西錦小路町北側に安楽寺院末寺真言宗亀竜院があり、俗に亀薬師竹之坊というところから、別に町名を竹之坊町ともいった。鎌倉期には方一町あったとされるが、江戸時代の境内は約260坪。本尊薬師如来(金銅像・亀甲上に騎乗)。江戸時代には住職が祇園社の社僧(執行)職に就き、神輿渡御行列に参加したこともあった(宝永花洛細見図)。脇仏は愛染明王。この二体は天明・元治の大火を免れて現存。
◎ 西錦小路町
錦小路通から南へ向かって図子(古くは地獄の辻子と称した)が走り、四条通(旧四条大路)に至る。室町時代、応仁の乱以前には「小督のたいまつ山」を出し、明応9年には「はうか山」を出した。しかし隣町の放下鉾(結棚町)と合体し、近世初期には廃絶。橋弁慶山の寄町、また放下鉾の寄町
◎ 古西町
「この町よりみなみは、西ひがし両行ともに大方かた茶染けんぼう染をいたす」とみえ、また、前出「京町鑑」にも「此町より町の真中に溝川あり、此町両側とも染物屋多く居住する」とあり、多くの染物屋が居住。また貞享2(1685)刊「京羽二重」には狂言師の「大蔵金右衛門」の名がみえる。当町は浄妙山の寄町として、また町の東側は蟷螂山の寄町であった。
当町の真ん中を流れていた「西洞院川」は明治38(1905)暗渠となった。
◎ 不動町
寛永14年(1637)洛中絵図に「不動町」とあり、以後変化はない。町内中央北側にある不動堂では地蔵盆に、毎年悪疫除難を祈祷するという。此の石像不動明王は、古伝に、旧本能寺の周辺四ツ辻にあった古井戸の一つ、西洞院蛸薬師の古井戸から、本能寺の変後に見いだされたもので、同時に発見された多くの石地蔵は各民家に配り、不動は町内で祀ることにしたという
祇園会には蟷螂山の寄町として地ノロ米九斗五升を納めた。
◎ 池須町
町名は、寛永14年洛中絵図に「いけすノ町」、寛文末洛中洛外大図に「池須屋町」、宝暦12(1762)刊「京町鑑」に「生須町」とみえる。
「此町往古後鳥羽院の御所の旧
地也。御庭に池あり、故に小名に池須といふとぞ」「又成人云。此町に中古東側に魚屋ありて、生洲をこしらへ川魚を売けるゆへに号とも云」と二説を記す。
◎ 西六角町
平安時代、当町北側は鬼殿の地(拾芥抄)。寛永14年(1637)洛中絵図で「西六角町」とあり、以後変化はない。江戸時代初期より明治にかけて、北側は加藤吉広京邸、次いで紀州藩徳川氏の京屋敷があって西洞院通に開口し、南側は竜野藩脇坂氏京屋敷があった

  織田信雄邸旧宅名前

織田信長の次男信雄は、本能寺の変後、徳川家康と結んで小牧・長久手の戦で豊臣秀吉と対立したが敗れ、以後秀吉に従い、豊臣氏滅亡後、大和国宇陀郡・上野国などに五万石を与えられた。茶人・歌人として知られる。
邸跡については、「西の洞院三条の南、今の初の水の町、南北二町の間、いにしへ織田常真信雄の宅地にして、今の柳の水は館内の井なり。此水至つて清冷なり、千利休此水を沸してもっぱら茶の水とす」と記している。今の釜座町と柳水町にまたがる南北二町の邸であった。
なおこの邸跡地は岡部内膳・加藤忠広之京邸となり、貞享(168488)以後は紀州徳川氏の京都屋敷となった。
◎ 柳水町
同地の柳水跡は洛中名水の一つ。「山城名勝志」によれば上下二か所あり、「上柳水在三条南西洞院東側北隅。下柳水在五条坊門南西洞院下柳水町東側 今絶」と位置が示される。このうち上柳水は現在の柳水町北側と釜座町西側辺りに比定される。
この地は、平安時代末期には崇徳院の御所があったところで「今鏡」に「新院九日ぞ三条西ノ洞院へ渡らせ給ふ、太上天皇の尊号をたてまつらせ給」とある。


  三条釜座

鋳造業者の同業組合で、中世以来、三条釜座町を中心に鋳物師が居住した。江戸中期の伝承では平安時代初期より存在したとする
大永5(1525)の後柏原天皇、天正2(1574)の正親町天皇綸旨を伝え4年には織田信長もこの座を安堵している。
天保以後元治の大火に離散して、その後衰退廃絶した
◎ 釜座町

平安末期、三条町尻付近に藤原有佐邸があった。永久3(1115)付近に阿波守藤原忠長邸があった。また、中世以来この地には釜座があり、町名の由来となっている。
◎ 突抜町
藤原実頼の三条殿の旧地である。町名は、寛永14(1637)洛中絵図に「釜座突抜町」とある。祇園会には浄妙山の寄町。


  高松神社

醍醐天皇の皇子で西宮左大臣ともよばれた源高明の邸宅跡。源高明の女明子はここに住して高松殿とよばれ、父高明が安和の変で大宰府に流された時、盛明親王の養女となり、のち藤原道長の室となった。
なお保元の乱の際には「禁中于高松殿依彼僉議」(保元元年710日条)とあり、また「保元物語」にも「東三条には院のかたのつはものどもあつまりて、よるはむほんをたくみ、ひるは木のこずゑ山の上にのぼりて、内裏高松殿をうかがひみる」とあって、後白河天皇方の本拠地になったことが知れる。

邸内に祀られていた鎮守社高松明神は、現在も津軽町内に残り、祀られる。

◎ 円福寺町
都名所図会に「洛中の名水なり、西行上人此地に居住、此井戸は楊枝を以て掘出すなりとぞ」と伝承を載せる。井戸は同町にあったと思われるが、現在は不明。
町名となった円福寺は、初め建長3(1251)後深草天皇の勅願で紀伊郡深草の地に創立され浄土宗深草派の本寺となったが、後に五条猪熊を経て室町姉小路に移った。後、天正13(1585)京極四条坊門の地へ移転。
祇園会には役行者の寄町。 


京都市街地の山鉾界隈にも色んな史跡がありました・・・

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