土蜘蛛のパワースポット
東向観音寺は真言宗泉涌寺派で朝日山と号す。806年(延暦25)桓武天皇の勅願で創建され、947年(天暦元年)に天満宮の建立後、筑紫大宰府の観世音寺より菅原道真自作の念持仏と伝える十一面観音像を請来し本尊として安置した。
東向きと西向きの二つの観音堂があったが、東向きの堂のみ再建され、東向観音寺と呼ばれるようになった。
境内にある土蜘蛛燈籠は平安中期の武将・源頼光が退治した土蜘蛛が棲んでいたと伝えられる場所(七本松通り一条)にあったものを移したものである。
土蜘蛛伝説〕平家物語によると、頼光がマラリヤを患って床についていたところ、身長7尺(約2.1m)の怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。頼光が病床にもかかわらず名刀・膝丸で切りつけると、僧は逃げ去った。翌日、頼光が四天王を率いて僧の血痕を追うと、北野神社裏手の塚にたどり着き、そこには全長4尺(約1.2m)の巨大蜘蛛がいた。頼光達はこれを捕らえ、鉄串に刺して河原に晒した。頼光の病気は回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来「蜘蛛切り」と呼ばれた。
・ 伴氏社(ともうじしゃ)菅原道真公の母君が大伴氏の出身であることから伴氏社と称されている。かっては、石造りの五輪塔が置かれていたが、明治維新の神仏分離政策により、南隣の東向観音寺に移された。神前の石鳥居は鎌倉時代の作で、国の重要美術品に指定されており、台座に刻まれた珍しい蓮弁より京の三珍鳥居の一つとして有名である。
天神さんのパワースポット
北野天満宮の祭神は学問の神様菅原道真。道真は文人としてだけではなく、政治家としても優れた能力があり、宇多天皇の信任を得、醍醐天皇の下で899年(昌泰2)右大臣まで上り詰めた。
ところが、901年(昌泰4)1月25日、左大臣であった藤原時平の陰謀により大宰府に左遷され、903年(延喜3)2月25日大宰府で失意のうちに没した。道真の死後、藤原時平は不慮の死を遂げ、清涼殿に落ちた雷は藤原清貫ら道真の政敵たちが絶命。さらに時平の娘が嫁いでいた東宮の保明親王の死去、醍醐天皇までもが亡くなった。その全てが道真の宿念とされ、打ち続く飢饉、旱魃、疫病なども道真の怨霊の仕業とされた。
942年(天慶5)多治比文子に托宣があり、天神を北野馬場に祀ることになり、後に祠を北野のこの地に遷し祀った。こうして北野天神は、朝廷によって特別な社の一つと数えられるようになった。
江戸時代には、諸国の大名たちが城下町を建設する際、こぞって城下に天神社を勧請する一方、藩校などで学問神として敬ったことが道真と学問とを結びつけたと考えられている。今日では受験生の学問パワーをいただくスポットとしてにぎわっている。
おかめさんのパワースポット
千本釈迦堂で親しまれる大報恩寺は、応仁・文明の乱の中心近くにあったにもかかわらず、本堂のみは奇跡的に焼け残り、国宝に指定されている。
千本釈迦堂は、1223年(貞応2)に義空上人が釈迦念仏の道場として釈迦如来像を祀ったのが始まりと伝えられており、本尊である釈迦如来にちなん釈迦堂というが、嵯峨の釈迦堂(清涼寺)と区別するために、千本釈迦堂という名で通っている。
ほぼ平安京の朱雀大路に重なる千本通は、突き当たりが蓮台野と呼ばれた葬送の地であり、野辺に千本(たくさんの意)の卒塔婆が立ち並んでいたので、その名がついたともいわれている。
〔おかめ伝説〕本堂建設に名工の長井飛騨守高次が当たったが、本堂を支える親柱のうち一本を短く切り落としてしまった。途方にくれる高次に妻の阿亀は、他の三本も短くし、枡組みを入れて高さをあわせることを進言する。この提案によって本堂を無事完成したのだが、阿亀は「女の知恵を借りて完成させたと云われては主人の恥」と自害して果てたという。
この話により後に阿亀、すなわち「おかめ」は、大工の守り神的な象徴として信仰されるようになったといわれる。関西地方の上棟式には、扇などと並ぶ縁起物として棟札に、おかめの面がつけられるのがその名残である。関西では普通おかめとはいわずに、おたふくということが多い。
釘抜き地蔵さんのパワースポット
釘抜き地蔵は、家隆山光明遍照石像寺といい、開基は819年(弘仁10)の空海であるが、12世紀末に俊乗坊重源が浄土宗に改め、1614年(慶長19)の再興を経て現在に至る。本尊は阿弥陀如来であるが、境内の地蔵堂に祀られる石造りの地蔵菩薩像が「千本の釘抜きさん」として親しまれてきた。元は苦しみを抜き取ってくれる苦抜き地蔵と呼ばれていて、それがいつしか釘抜き地蔵に変化したようで、二本の五寸釘と、釘抜きがセットされた『釘抜き絵馬』が、御礼の言葉を添え、お堂の周りにびっしりとかけられている。
〔釘抜き伝説〕弘治年間(1555〜58)に、油小路上長者町の商人,紀伊国屋道林が突然両手に激痛を覚え、いろいろと治療をしたが直らず、石像寺に77日日参して願をかけたところ、結願の夜、夢に地蔵が現れ、「汝の病は、汝が前世に人を呪い人形をつくり釘を打った報いであるが、汝の信仰により病を治す。」と言い、手に刺さった釘を抜いた。翌朝目を覚ますと、すっかり痛みがとれており、驚いて寺にもうでて地蔵を拝むと、地蔵尊は両手に血に染まった八寸釘をもっていたというのである。道林は喜び、お堂を寄進したということであるが、この話が人づてに伝わり、病気に苦しむ人々が参詣して、治癒の礼として釘と釘抜きの絵馬を奉納するようになったといわれる。霊験あらたかな地蔵尊である。
閻魔さんのパワースポット
引接寺(いんじょうじ)は寛仁年間(1017〜21)に比叡山の定覚律師よって開かれた。光明山歓喜院引接寺と号し、死者に引導を渡して野べ送りにする寺である。かっては蓮台野への葬送の際、衆生の迷いを醒ますために境内の鐘をついたと言われ、現在も8月7日から15日の盂蘭盆会には精霊を迎える鐘が絶え間なく鳴り響いている。
引接寺は一般には千本ゑんま堂と親しまれ、冥界の閻魔庁を模したと言われる本堂に、小野 篁が造ったといわれる巨大な閻魔大王像が安置されている。
小野篁は、あの世とこの世を往来する神通力を有し、昼は宮中に、夜は閻魔庁に仕えたと伝えられている。
・ 普賢像桜 ― 室町時代には普賢像桜という桜の名所で、この桜が当地に千本あったことも千本通りの名の由来ともなっている。普賢像桜は咲いた時双葉を持ち、花冠のまま散ると言う珍しい桜。
・ 紫式部供養塔 ― 貴重な十層の多重石塔で、国の重要文化財に指定。 1386年(至徳3)円阿上人の勧進により、紫式部のあの世での不遇なお姿(愛欲を描いた咎により地獄に落ちる)を見て成仏せんがため建立された。
・ 千本ゑんま堂大念仏狂言 ― 毎年5月に行われる京都三大念仏狂言のうちの一つで、唯一の有声の狂言。京都市の無形民族文化財に指定されている。
猫のパワースポット
猫寺と呼ばれる称念寺は、本空山と号する浄土宗知恩院派の寺である。1606年(慶長11)に現在の茨城県の土浦城主・松平伊豆守信吉が師僧の嶽譽上人のために建立された。当寺に葬られた松平信吉の母が徳川家康の異父妹であったことから、徳川家の定紋の三つ葉葵が寺紋となっている。
{猫伝説}寺伝によれば、三代目住職のころには、寺は松平家と疎遠になり次第に荒廃した。この三代目は猫をかわいがっていたが、寺が貧窟しているにもかかわらず、この猫が名月の夜、本堂の縁側で美しい姫に化身してのんきに舞を舞ったことに腹を立てて、この猫を追放した。ところが数日後、猫は住職の夢枕の立って松平家と復縁を取り付けたことを告げ、住職に報恩し、寺は立派に再考したという。寺では猫の霊を厚く守護しており、本堂前の老松はその猫を偲び、伏した猫の姿になぞらえて植えられたものであるといわれている。今でも時々老松の陰から、真っ白い猫が「にゃーん」と本堂へかけていくのがみられるという。
京の都のパワースポット
船岡山は、高さ112m 東西200mに渡る山で、その姿が船の形に似ていることから「船岡山」と名付けられた。船岡山は、ちょうど平安京の中心軸「朱雀大路」の延長線上にあることから、船岡山が平安京造営の基準点ではないかと考えられている。山頂には、太古の祭祀遺跡巨石の磐座があり、神が祀られ、人々は霊媒師を通じて神のお告げを聞いた。
桓武天皇はこの磐座を悪鬼を封じるための一つにしたといわれる。
平安の中ごろまで、貴族たちはこの船岡山の麓で「子の日の遊び」を行った。「子の日の遊び」とは、正月子の日に岡に登って四方を望むと、陰陽の静気を得るという中国の故事にならって行った若菜摘み、蕨採りなどのどかな宴遊のことである。清少納言も山容が優しかったことから、「岡は船岡‐‐」と記したほどである。
・平安中期以降、麓は葬送の地・蓮台野となり、1156年の保元の乱では敗れた源為義、頼仲親子が斬首された処刑場でもあった。応仁の乱(1467〜77年)では、西軍の陣となり、都を焼け野原にした基点ともなった。
京都の歴史を眺めてきた岡ではあるが、この岡の中腹から東を臨めば、「ふとんきて 寝たる姿や 東山」と詠われた東山の穏やかな山並みが眺められる。
10月16日(日)は好天の中で、庶民の息遣いを感じながらパワースポットを辿りました。
