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秀吉の栄枯盛衰夢の跡

東山に残された秀吉関連の史跡を中心に歩きました

豊国神社

秀吉没後、翌年の慶長4年(1599)方広寺東側の阿弥陀ヶ峰に埋葬されたが、その方広寺の鎮守社として建立された廟所にあたる。しかし、元和元年(1615)徳川によって神社は廃止、明治になって方広寺跡地に現社殿が完成した。


耳塚

朝鮮半島に侵攻した、いわゆる文禄・慶長の役(1592年〜1598年)では、この戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻を削ぎ落とし持ち帰って葬った塚を耳塚という。検分が終われば戦没者として丁重に供養された。慶長三年(1598)秀吉の死去を契機に朝鮮から撤退し、7年に及んだ戦いは終わった。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。しかし林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。2万人分の耳と鼻が埋められている。


専定寺 (せんじょうじ)

熊谷山専定寺と号し、浄土宗西山禅林寺派に属する。昔、専定法師という旅僧がこの辺りの松の木の木陰で休んでいると、2羽の烏が梢にとまり、「今日は、蓮生坊の極楽往生の日ではないか。我々もお見送りしよう。」と語り合い、南の空へ飛び立った。法師が不思議に思って蓮生坊の庵を訪ねたところ、烏が話していた同日(承元2年(1208)9月14日)・同刻に亡くなっていた。そこで法師は、ここを有縁の霊域と感じ、草庵を結んだのが当寺の起りといわれている。大仏(方広寺)七不思議の一つに数えられている。
本堂の本尊阿弥陀如来坐像は、後白河法皇の念持仏と伝え、平安時代後期の作風を示し、また、金箔による像内化粧を施してあるなど貴重なもので、京都市の文化財に指定されている。


方広寺石垣

方広寺大仏造営にあたり秀吉は諸大名に命じ、各地から巨石を集めさせた。諸大名はその大きさを争ったと伝え、巨石の表面にはそれぞれの家紋が刻まれていたという。俗に「石狩り」と云われた。延長約300mが現存する。
☆蒲生氏郷の石=2間(約3.6m)に4間(約7.2m)という大きな石で、容易に搬送することができず、遊女を石の上に乗せ、これを出迎えた秀吉は帷子を着て木やりを唄い、笛や太鼓ではやし立てて引いたと伝える。
☆前田加賀守泣き石(石垣最北端)=今でも石に白い筋「涙の痕」があり、前田利家が、あまりの重さに「泣き言」を言ったとか、石が加賀へ帰りたいと毎夜泣いたと伝えている。


梵鐘5

慶長19年(1614年)、慶長14年から秀頼が再建していた大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を東福寺塔頭天得院の長老 文英清韓に選定させていた。且元は全てを家康に逐次報告をしていたが、家康は梵鐘銘文に不吉な語句があるとして、大仏供養を延期させた。家康は金地院崇伝に鐘銘文を解読させ、「国家安康」は家康の名を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い、徳川家に対する呪詛を込めたものと曲解した。豊臣側の懸命な弁明にもかかわらず、豊臣討滅への口実に利用された。
鐘は、重さ82.7トン。日本三大巨鐘(東大寺・知恩院・方広寺)の一つ。三条釜座の鋳物師名護屋三昌作


妙法院

妙法院は天台宗の門跡寺院で、三門跡寺院(三千院・青蓮院・妙法院)の一つ。豊臣滅亡後、蓮華王院、三十三間堂、新日吉社(いまひえしゃ)、後白河法皇御影堂、大仏殿が、妙法院の管理下に置かれた。現在、当院に豊国社や豊国祭臨時祭の諸道具類をはじめ、秀吉関係の遺物を数多く所蔵している。江戸時代を通じて絶大な勢力をふるったが、明治維新後は衰微していった。
大書院は江戸時代建築の重要文化財建造物。後水尾天皇中宮東福門院の御所の旧殿を賜ったと伝えられる。壁・襖絵は狩野派によって描かれ、桃山時代の豪華な特色を見せている。通常非公開。
庫 裏は桃山時代建築の国宝建造物。文禄4年(1595)の建立。秀吉が方広寺大仏殿で千僧供養を行った際の台所として建てられたと伝える。二条城の二の丸御殿の台所(重文)とともに貴重な遺構である。
ポルトガル国印度副王信書(国宝)天正16年(1588)、ゴアにいたポルトガル国印度副王ドン・トワルテが秀吉に贈った手紙である。当時のヨーロッパの慣例で、羊皮紙に書いてある。文章は、一番はじめの言葉の頭文字Cを金文字とし、そのなかに秀吉が用いた桐の紋章を描いている。
使者は耶蘇会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニアーノで、天正19年(1591)1月8日に聚楽第で秀吉に謁見し、この手紙を奉呈した。この手紙の返信は同年7月25日付で発せられたが、秀吉はキリスト教の伝道は禁止するが、貿易は許可する旨を伝えたようである。
この手紙は、秀吉の宗教政策を背景にした外交公文書として、稀にみる遺品であるばかりでなく、公文書の書式やその周縁に描かれている絵画も、それぞれの分野で重要な価値をもっている。


新日吉神宮

平安時代末期の永暦元年(1160)、後白河上皇が法住寺殿の鎮守社として、坂本の日吉山王(ひえさんのう)七社(日吉大社)を勧請したのが始まりである。祭神として、後白河天皇のほか、皇居守護神山王七柱を祀り、酒造、医薬、縁結びの神として信仰を集めている。豊臣氏が滅亡して、徳川幕府により豊国廟が破却された跡地へ移転。その後、度々再建が行われた当神宮本殿の前の猿は大神の使者で、信者の災禍を=去る=という。常に御幣を捧げて悪気を祓い、凡ての災厄を退け、幸福を授ける。神猿(真猿)=魔去る=勝る神。「京都の鬼門、御所の鬼門」の「猿」がここにも登場。金灯篭はかつて豊国神社の本殿の軒下に釣り下げられていたもので、片桐且元・貞隆の寄進である。


阿弥陀ヶ峯

豊国廟は山麓の拝殿から563段の石段を登った阿弥陀ヶ峰の山頂に、秀吉を葬る。戒名「国泰祐松院殿霊山俊龍大居士」当初は恩顧の諸大名の参詣は絶えなかったが、元和元年(1615)豊臣氏滅亡後、徳川家康は豊国廟を破棄し、その参道中央に新日吉(いまひえ)神宮を移して墓参の通行をさまたげ、社殿は朽ちるままに放置された。
明治13年(1880)豊国神社が方広寺の地に再興され、明治30(1897)年、秀吉の300年忌に際し、黒田・蜂須賀等の旧家臣等が豊国廟を再建し、頂上に巨大な(高さ10メートル)五輪石塔が建てられた。
太閤坦とはもと豊国廟社殿のあった平坦地をいう。今は拝殿と社務所・御供所等があるにすぎない。その北隅には秀頼の子国松墓および秀吉の側室京極竜子(松丸殿)の墓がある。墓石はいずれも五輪石塔。国松は大阪落城後、伏見にかくまわれていたのを見付けられ、元和元年(1615)5月23日、六条河原において斬られた。享年8歳。遺骸は京極氏が貰いうけ、その菩提寺である誓願寺に葬られたが、明治37年(1904)松丸殿の墓とともにこの地に改葬された。


智積院

山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)、本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥、真言宗智山派総本山の寺院である。傘下に千葉県成田市の成田山新勝寺、「川崎大師」の通称で知られる川崎市の川崎大師平間寺、八王子市の高尾山薬王院がある。興教大師覚鑁(かくばん)上人が紀州(和歌山)の根来山で営んだ真言教学の寺院が前身。天正3年(1585)、秀吉に刃向い、全山焼打ちに遭い寺院は滅亡してしまった。豊臣家滅亡後の元和元年(1615)5月、徳川家康は日頃から帰依していた智積院住職へ土地を寄進した。その土地とは、秀吉が長男の鶴松(棄丸)の菩提を弔うために建立した祥雲寺である。智積院は祥雲寺の建物や寺宝、豊国社(現豊国神社)の堂宇や梵鐘など全てを引き継ぐ形でこの地に中興した。
庭 園  江戸初期・池泉鑑賞式・京都名園の一つ。
障壁画  長谷川等伯・久蔵の[桜・楓図」(国宝・桃山)
鐘 楼  豊国神社の神廟内から運び出されたもの。(洛中洛外図屏風)


南大門

 三十三間堂の東南にある壮大な八脚門。大仏殿は焼けたが方広寺の西門と南門、それに続く築地塀の一部は現在に遺った。西門は現在東寺の南大門として移されている。南大門は虹梁(こうりょう)の刻銘により慶長5年(1600)の建立と判明。間口18.25m
「太閤塀」(重文)南大門につづく築地塀は秀吉が寄進した塀で、高さ5.3m、長さ92m。昭和25年〜26年に屋根修理があり、その時「天正16年8月、大ふつ殿瓦(花押)」の箆(へら)書のある瓦が見付かっている。軒先の瓦は桃山様式を著す桐(桐紋様を太閤桐)が用いられている。熱田神宮(名古屋市)の信長塀、西宮神社(西宮市)の大練塀と並び、日本三大塀の一つ。


養源院

淨土真宗遣迎院派の寺院。 養源院の寺名は浅井長政の院号から採られた。
文禄3年(1594年)に秀吉の側室・淀殿が、父・浅井長政の供養のために、秀吉に願って成伯法印(長政の従弟で比叡山の僧)を開山として創建された。その後、焼失するが、元和7年(1621年)、徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願いにより再興された。以後、徳川家の菩提所となる。本堂は元和5年に破却された秀吉の伏見城の遺構を移築したものといわれている。本堂の正面と左右の廊下の天井は血天井として知られる。


9月25日(日)好天の中、約4キロ程のウォーキングを楽しみました。(^v^)

                      
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