> 第00回史跡ウォーク-(洛西)ウォークの題名-
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山科の里・日ノ岡と北花山から上花山へ

京と近江間に位置する山里は今


琵琶湖疏水煉瓦工場跡(びわこそすいれんがこうじょうあと)


鏡山・天智天皇陵を背景に疏水建設に必要な煉瓦製造工場が設けられた。 京都府は自給の方針を立て、若き技師菊田宗太郎を起用し、明治19年(1886)7月に操業を開始した。そして、明治22年10月に閉鎖されるまで、1370万個を製造した。

粟田口名号碑・題目碑(あわたぐちみょうごうひ・だいもくひ)


安祥院開基木食養阿(1687〜1763)が、1717年(享保2)
刑場に建立したものである。粟田口刑場で処刑された罪人の鎮魂のため、
「南無阿弥陀佛」の名号碑を建てた。
題目碑・昭和14年法華倶楽部、小島愛之助翁(法華倶楽部創設者)が処刑者の霊の冥福を祈るために石の玄題塔断片を基石として供養塔を建立し毎年春秋に亡霊供養を行い立正平和と交通安全を併せて祈っている。

京津国道改良工事記念碑


 府道三条通りは、五条通りが出来るまでは「国道一号線」で、三条大橋まで続いていた。大津〜三条間は「京津国道」と呼ばれ、1933年(昭和8)に大規模の改修工事が行われた。その改修工事を記念した碑が建てられている。改修工事に際して、旧東海道で使われていた「車石」が沢山でてきたので、記念碑の土台に使われている。



車石(くるまいし)


 宝永4年(1707)の前年の11月から翌年の3月にかけて、三条街道の普請が行われている。この普請の目的は、単に道路改修のみでなく、車道と人馬道を分けることにあった。



修路碑(しゅうろひ)


 

 日ノ岡の南側の山麓に立てられている「修路碑」には、《峠を行く旅人や牛馬は大変に難儀をしていた。江戸中期の元文3年(1738)に木喰正禅養阿上人が、3年がかりで道路の改修工事を完成させた》と記している。

文化5年(1808)には、脇坂義堂が一万両の工費をかけて大津から三条大橋まで牛馬専用の道として「車石」を敷設したという。


粟田口刑場跡


 木食養阿は享保2(1717)年、京都町奉行所の許可を得て
11ヶ所に石碑を建立した。ここ粟田口のものは高さ約4メーター
もあった。刑場には仏教各宗派が供養の石碑を建て、その数は15基を数えたという。刑死者1000人に一基ずつ建てられたとのことである。



日ノ岡光照寺(ひのおかこうしょうじ)

平安時代の末期、1183年(寿永2)7月に木曽義仲が京都に入洛し、洛中が戦乱の中に巻込まれた際、法然上人は一時、行基菩薩の開基したこの草庵に身を隠したという。


日ノ岡大乗寺


約300年前に京都七本松近くに建立され、尼寺として知られていたが1992年(平成4)の暮れ、この山科の現在地に移転してきたという。

 当時は雑草におおわれ『草庵』にひとしい荒れ寺を、当時の住職(岡澤海宣)が、ツルハシ1本で参道から造りはじめ、現在では芙蓉の寺として知られようになった。傍ら吟道宣洲流瑛心会と云う吟詠会を興し、其の吟友からの勧めにより酔芙蓉の木(挿し木したもの)100本ほどの寄贈を受け、毎年100数鉢に挿し木して現在では1300本を超えるまでに増えている。                      




明(妙)見道道標

 この道に、「右 明見道道標」「二条講中」と記した道標がある。またその横に「右 かさんいなり道」「亀山正七 中川直次郎」と記した小さい道標もある。いずれも建立年は不明である。


亀の水不動尊


日ノ岡峠車道の普請に尽力した木食正禅(養阿)は梅香庵(木食寺)をたて、道路の管理と旅人の休息所とした。亀の口より井戸水を量救水(りょうじすい)という石水鉢に落として、旅人や牛馬の渇きを癒すようにしたと言う。亀の口から落ちる清水は絶えることがない、と言われている。


JR東海道線・北花山分水路

   丘陵地帯に属している花山地域は、常に「水利」は死活問題であった。1815年(文化12)2月には、比留田家に対し北花山村の庄屋から「田地用水の築堤築造」を願い出る口上書が提出されている。1891年(明治24)からはじめられた「北花山分水路」建設によって、はじめて解決をみた。

 東山トンネルの花山側には「古今相照」と「山紫水明」の扁額が刻まれている。


北花山六所神社(ろくしょじんじゃ)


 第58代光孝天皇の仁和3年に創立され、伊勢の天照皇大神、尾張の熱田大神、山城の賀茂下上神、大山城の八幡大神、大和の春日大神、近江の日吉大神の六神を奉祀している。




元慶寺(げんけいじ)

僧正遍昭を開基とし、元慶元年(877年)に建立された。西国三十三箇所霊場の番外札所である。本尊は薬師如来。寛和二年(986年)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた。花山寺とも呼ばれ、大鏡では花山寺と記述されている


遍照僧正陵墓(へんじょうそうじょうりょうぼ)


 僧正遍昭は桓武天皇の孫、良峯安世の第8子、俗名を良岑宗貞(よしみねむねさだ)という。仁明天皇に勤仕して寵を得たが、天皇崩御によって出家剃髪し、叡山にのぼって名を遍昭とあらためた。のち花山に元慶寺を創建して座主となった。寛平2年(890)1月29日寂、年75。 

あまつ風 雲の通ひぢ 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとゞめん



福応寺


当寺は「遍昭山清淨蓮院福応寺」と号し、遍昭僧正(816〜890)の開基。北花山・元慶寺にいた遍昭がこの地で講義を行った所から始まる。本尊は阿弥陀如来像で、本堂の北隣にある地蔵尊は、平清盛の子である小松重盛(平重盛)の持念仏と伝えられている。1718年(享保3)第7世の心誉誓運大徳によって建立された鐘楼の梵鐘には、開祖遍昭の銘が記されている。


山科界隈の地図

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平成21年9月13日(日)、地下鉄東西線「御陵駅」から赤線のコースを訪れました。

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