> 第00回史跡ウォーク-(洛西)ウォークの題名-
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京への入口・大山崎を探る

天王山と、京への入口、戦国歴史ロマンのまち・・・大山崎


妙喜庵(みょうきあん)


妙喜庵は江戸時代までこの地にあった地蔵寺の塔頭であったといい、明応年間(14921500)に俳人であり連歌師でもあった山崎宗鑑が隠居所として建立したと伝える。

同庵には二棟の国宝指定文化財があり、一つは千利休が山崎合戦(1582)直後に建立した草庵風茶室の代表的な遺構の「待庵・たいあん」である。 その規模は二畳で隅に炉を切り、塗り回しの洞床を用い、それぞれ異なった大きさの連子窓、下地窓を開くという変化に富んだ構成を見せている。

我が国の数寄屋建築の根本と言われる建物で、後の数々の茶屋に多大な影響を与えた。

今一つの建物は茶室から続く書院で、室町末期の文明年間(14691487)頃に建立されたものと思われ、桁行二間、梁間三間、一重切妻造、こけら葺きという室町期の優美さが漂う建物である。

離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)


 平安時代の初めの清和天皇の頃、貞観(じょうがん)元年(859)に九州の宇佐八幡宮から神霊を奉じて帰郷した行教(ぎょうきょう)という僧が、山崎津(つ:港)で夜の山に霊光を見た。そこで、この地を掘ると岩間に清水が湧出したので、国家鎮護のための「石清水(いわしみず)」の八幡宮をここに創建。ちょうど嵯峨天皇の離宮の地なので現在は「離宮八幡宮」と号している。

幕末の禁門の変の兵火で焼失したが、「西の日光」と言われるほどの広壮優美な社殿を構えており、神領は水無瀬川から円明寺に及ぶ広大なものであった。

鎮座後は対岸の男山にも分祀され、以後はそちらが「石清水八幡宮」と称されるようになる。

 やはり清和天皇の頃に、当社の神主が「長木(ながき)」という道具で「荏胡麻(えごま)→青紫蘇に似た植物の種」を絞って油(荏油・・えのあぶら)を採り、神祀(かみまつり)の灯火に用いた。 これが始まりで、室町時代ともなれば、宮廷はもとより全国の社寺や一般の人々で、油といえば山崎産のものを使わない人はなかった。

当社の神人(じにん)たちが独占的に油を製造し、売り歩いたからである。


関大明神


 創建は不詳であるが、従来この地は古代の山崎関跡といわれており、関守神や境の神(つじのかみ)としての疫神(えきじん)を祀ったとか、伯耆国・大山の大智明神を祀ったのが始まりとかも考えられている。  奈良時代から平安時代の初めにかけて、この地では病気流行のたびに疫神祭がおこなわれたという。 関が廃止された跡地には関戸院(公営宿泊施設)が設けられ、都から西国へ向かう貴族や官人の宿となった。 山城国と摂津国との国境であり、現在は、京都府と大阪府との府境の地である。



霊泉連歌講跡(れいせんれんがこうあと)山崎宗鑑冷泉庵跡


此の地、大山崎に隠棲した「山崎宗鑑」は、八幡宮社頭で月例会として開かれていた連歌会の指導や、冷泉庵での講を主催する一方、世に知られた『犬筑波集』を生みだした。 また書も宗鑑流として多くの人々から珍重された。


宝積寺(宝寺)


 

 宝積寺は、聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「内出」と「小槌」(内出と小槌は別のもの)を祀ることから、「宝寺」の別名があり、大黒天宝寺ともいう。

山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった。天王山(270m)の南側山腹にあり、寺伝では神亀元年(724)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝えられている。行基は、奈良時代に、架橋、灌漑などの社会事業を行い多くの寺を建てた僧である。

 

天王山


天王山は標高270.4m、淀川に面する南面は断層であり、登山道は急峻である。

このため、少し登ればその眺望は素晴らしい。山麓には鳥居前古墳、小倉神社、円明教寺、観音寺、宝積寺、大山崎山荘、などがある。


アサヒビール大山崎山荘美術館

 アサヒビール大山崎山荘美術館は、大正初期から昭和にわたり実業家としてすぐれた業績を残した加賀正太郎氏により建てられた文化的価値の高い山荘を修理、復元し美術館として開設されたものである。


日ノ岡大乗寺秀吉・天下取りへの一歩


天正10(1582)62日未明、明智光秀軍が突如、本能寺に泊まっていた織田信長を襲い、討ち取った。 歴史上有名な「本能寺の変」である。

明智軍はただちに京都や山城国内を掌握し、この乙訓も明智方の勢力圏内とした。

しかし明智軍も摂津国には進出できず、ここ大山崎が明智方の西の最前線になった。


山崎院跡(やまざきいんあと)

山崎院は、奈良時代の高僧行基によって創建された寺院。

行基は、神亀2(725)に山崎に来て淀川に「山崎橋」を架けた。橋を管理し、併せて行基の教えを広める道場として、天平3(731)に山崎院を建立した。

大山崎瓦窯跡


 平成16(2004)12月、平安時代初期に操業していた未知の瓦窯跡が発見された。 

瓦窯跡の西には山崎聖天観音寺があり、東方や北東、南西方向に視界が開け、長岡京跡、平安京跡、淀川、男山などが見渡せる風光明媚な場所である。

調査の結果、平安時代前期の瓦を焼いた平窯が六基まとまって発見された。

観音寺(山崎聖天)

 

本堂の十一面観音より、境内の聖天堂に祀る歓喜天(聖天)によせられる信迎があつく、俗に「山崎の聖天さん」として親しまれている。

寺伝によれば、昌泰3(900)の創建と言われているがあきらかでない。

延宝9(1681)木食以空上人(もくじきいくうしょうにん)が住友・三井などの富豪の支援によって再建され、寺運は隆勢におもむいたが、元治元年(1864)の兵火にかかって一山灰燼に帰した。その後、島本町にあった西観音寺を移して本堂とし、併せて聖天堂

や鐘楼・鎮守社などが再建された。

 

東の黒門跡


五位川のところで街道が屈曲しているが、中世には此処から南にしか人家が無かったので、ここに門を作り夜になると閉めていたという。

この「東の黒門」に対して、島本町(大阪府)に、「西の黒門」があった。


「石敢當」(いしがんとう・せっかんとう) 魔除けの石で、相撲好きな高槻屋さん(東の黒門の南東の角の家)の子供が夭逝するので、子供の無事を祈って、贔屓の力士、太孝山が建てたと伝えられている。

山崎津跡

平安時代より「淀」と「山崎」は、南方・西方へ通じる最も重要な地点であった。
これらの地が重要視された一つの理由は、そこが、陸路と水路(淀川)の中継点という大きく重要な機能を担っていたからであり、平安時代では、淀川の水運が頻繁に利用され、淀・山崎は主要な「津(川の港)」として利用されていた。 淀川は、瀬戸内海へ通じる航路の大動脈であり、「淀・山崎」は平安京と海とをつなぐ出入り口でもあった。


大山崎界隈の地図

 

平成21年6月21日(日)、JR山崎駅から赤線のコースを訪れました。

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