祇園祭のルーツ駒形稚児を出す街

太古の桂川は、現在よりも西にあり、久世地区はそれに接した湿地帯で巨椋池等を臨む湿地帯であった。しかし、仏教伝来とともに大陸から技術者の入植等で、飛躍的に発展し、交通の要衝としても古から歴史に名を成した地域、久世として今に至る界隈です。

光福寺・蔵王堂

西山浄土宗、医王山と号す。寺伝に拠れば、天暦9年(955)浄蔵貴所が吉野山の金峰山で修行中、一体の蔵王権現が現われ、それを祀る場所を捜し、当地を訪れると弁財天が現われ指示を得たので、此処に一宇を建立、蔵王権現を安置したのが興りとされる。又、当寺は「国中神社」の神宮寺として創建されたともいわれる。 本堂(蔵王堂)には、蔵王権現を中央に左右に「役の行者」「浄蔵貴所」「観音」「地蔵」を安置している。此れは此処が平安京の裏鬼門に当たるのでこれ等の仏像を安置したとされる。又杉村親信筆の「板絵著色玄孫講図」(江戸期)がある。 南の仁王門は、室町期の創建で、金剛力士二躯は南北朝期の作で、寄木造り、玉眼入りで鎌倉期の雄渾な彫りを残すが残念ながら全体に損傷が激しい。 又、当寺は久世六斎の行われる場所でもある。


安禅寺

栖雲山(せいうんざん)と号す西山浄土宗、京都洛西観音霊場の番外寺、後花園天皇の第一皇女「観心女王」が開基とされる。開基当時は、御所の中に在ったとされるが、その位置其の他の資料は無い。後、第二十三代の「義空栖雲」(ぎくうせいうん)が、元禄年間(1677〜1703)に当地に移した。「義空栖雲」は、中興の祖として寺名にもなったが、後、数度の桂川の氾濫で、建物は流されたが、その都度再建され今日に至っている。現建物は約200年以前(江戸期)の建物とされているが、手入れを行っているので以前の形態を留めるのみである。 現観音堂には、西国三十三札所の小型の観音像を安置している。但しこの観音像の制作年代は不明であるが、建物と同時期と思われる。


綾戸国中神社(あやとくなかじんじゃ)

現在は上久世の産土神社である。当社は「綾戸神社」と「国中神社」の二社からなっている。 綾戸神社の祭神は、「大綾津日神」(おおあやつひのかみ)と「大直日神」(おおなおびのかみ)である。両神とも穢れを祓う神で、大堰川(桂川)、渡月橋の大井神社の祭神でもあり大堰川(桂川)を守る神でもある。 此処でも桂川を守り、船を守る神であり、綾戸神社も過っては「大井神社」と呼ばれ天暦九年(955)に綾戸神社と呼ばれるようになった。 国中神社の祭神は「スサノオノミコト」で、「スサノオノミコト」は、祇園八坂神社の祭神でもある。八坂神社の「スサノオ」は「ニギミタマ」であり、国中神社は「アラミタマ」とされる為、二神を持って一体となる。此れが祇園祭の七月十七日の御神幸に久世駒形稚児の供奉となった。 その国中神社は、戦国期(1560年頃)に蔵王堂光福寺から綾戸社の境内に移された。理由は不明であるが、以来綾戸国中神社と称する。 社殿は過っては西向き二社殿であったが、昭和九年の室戸台風で崩壊、約20m東北に移設し、南向き一社殿の二扉の本殿と拝所等を昭和十一年秋に再建した。しかし昭和三十九年に新幹線が頭上を通過、やむを得ず社殿等を東の現在地に移転した。


久世橋と久世畷

桂川に架かる久世橋は、久世地域と京都市内を結ぶ重要な橋であり、今も昔も西国街道を西に向う要衛の橋であった。平安期以来「渡し船」が往来の人、物資を運んだ、 徳川中期から明治初期まで中州を利用した簡単な土橋が架けられたが、人が渡れる程度の橋で、洪水や筏の材木の流失等により度々流されていた。流され橋の補強は大変で当時通行料を二文取っていた。又何軒かの茶屋が両側にあった。それが、今も西側に川舟料亭として残っている。又、橋の西詰に常夜灯が立っていたが、今は蔵王堂光福寺に移されている。大正2年3月に堅牢は橋が架かった再度流され、昭和29年鉄橋が架かり昭和49年に第二橋が架かり現在に至る。 久世畷は西国街道と鳥羽造り道を結び畷であり、この畷も桂川を渡り千代原口方面に伸びていた。鳥羽造り道や久我畷、久世畷は低地を進む為、度々泥道となったが、逆に坂等が少なかつたので、晴天続きの時は資材運搬に活用されていた。 此れに対して西岡を進む西国街道は高台で展望も良く乾いた道であったが、坂道が多く資材運搬には難渋したとされる。


木下神社

祭神は、「コノハナサクヤヒメ」この神は大変美しい神で、「ニニギノミコト」と結婚し安産と火伏せの神として又、産土神として信仰されてきた。 ◎ 神話 「オオヤマズミノカミ」(松尾大社の祭神)の娘の「コノヤサクヤヒメ」は、ニニギノミコトに見初められ姉「イワナガヒメ」と共に結婚、しかし姉イワナガヒメは醜いので、帰された。為に、以後天皇の子は石の如き強い子は生まれないとする説と、コノハナサクヤヒメが一夜で懐妊したので、ニニギは怪しみ、自分の子ではないのでは疑がったので、コノヤは、このお腹の子が他の子であれば幸はないでしょう。夫ニニギの子であれば幸があると、出入り口のない産屋を造りその中に入って室内を壁土で塗り込め、産屋に火を付け燃え盛る火中で三人の御子を無事出産した。 「ホデリノミコト」(海幸彦)「ホスセリノミコト」「ホオリノミコト」(ヒコホホデミノミコト)(山幸彦)である。 この神社の境内には「力石」がある。 昔は風水害に備えて道具、土嚢、材木、板など非常用具材を備えていた。又災害時には、人力が必要で力持ちが重宝された。為に、若者は常に体を鍛え、訓練として、重い石を持ち上げ鍛え競い合った。そして競技終了後は「一升取り」と云われる一升のもち米で餅を作り楽しんだ。 力石は五斗(75kg)、六斗(90kg)八斗(120kg)の三種があり相当の力の持ち主であったのである。


厳嶌神社

祭神は、「宗像三神」で、@「タギリヒメノミコト」A「イチキシマヒメノミコト」B「タキツヒメノミコト」である。 これ等の神々が此処久世に祀られていることは、明らかに秦氏との関係で桂川の交通守護となり、川下の「山崎津」から淀川、瀬戸内海と続く人、物の水の道の守護として祀られていたのであろう。 神話は、アマテラスと弟スサノオが天の安川原で誓約を行った時、アマテラスがスサノオの佩いていた「十拳剣」を三段に折って、「天真名井」(あまのまない)の聖水を降りすすぎ、噛んで吹き棄てた。その息から生まれたのが「宗像三神」である。 末社に八王子神社と大将軍神社がある。


琴弾橋

西国街道の厳島神社前にある小橋で、延喜元年(901)道真が、大宰府に左遷される我が身を案じて琴をひき、その音色の悲しさに付近の農民を感動させた。他説では、道真が通行するのに橋が無かったので、自分の琴を橋とした、以後、出来た木橋を「琴弾橋」と呼んだ。いずれにしても道真の説話は山崎まで続く。    現在の橋に当時の面影はなく、うっかり通り過ぎることに、時代の変遷を感じます。


福田寺

迎錫山(げいしゃくざん)と号す、西山浄土宗に属します。 福田寺縁起に拠ると、奈良中期の養老2年(718)、元正天皇(生没680〜748)の頃「行基」が霊夢を見た。それは二人の僧の誘いで、園林に行くと、二人の僧が大木を指して、此の木を持って二尊像を造れと言う、行基は、怪しく思い、かく言う貴方がたは如何なる人かと問えば、一人は、此の土地の教祖である。今一人は菩薩と言う。行基は不思議な夢を見たと思ったが、後、教えに従い景勝の地を訪ねていると、此処に来た。見ると一つの園林があり、夢に見た場所に似ていた。 又、園林には二株の樫の木があり、暫くは、此処で念仏を唱えると、二株の樫は光明を放ち、さながら白昼の如く、光の中に二仏の姿を見、それは「即釈尊地蔵」の像形であった。行基は歓喜して二株の樫を持って「二尊」の像を刻み、安置して方八町の囲みを定め精舎を建立「迎錫山・福田寺」とした。 この「釈迦如来立像」と「地蔵立像」は共に奈良期の行基の作とされ本堂に安置されている。 又弘法大師空海が中国の皇帝より頂いたとされる「麻耶夫人像」がある。 「麻耶夫人」は、お釈迦さんの母であるが、釈迦を生んだ七日後に死去した。 これが中国では、女性が難産で苦しむのを救う為、「麻耶夫人縁起」起り、麻耶夫人像を崇拝した。此れを当時唐へ留学中の「空海」が聞き「麻耶夫人像」を、平城天皇(生没774〜824)の頃に持ち帰り、摂津国の寺に安置したが、後、戦乱を避けて当寺に安置されたとされる。 龍神堂には、「俊恵」(しゅんえ)が、当寺で隆雨祈願を行った時、井戸から現われた言われる面の怪意な龍神像を安置している。 尚此の寺も平安期には、七堂伽藍を有し東寺よりも壮大な規模であったが、応仁の乱で衰微、以後、寺域も縮小された。 此処は平安末期の歌人「俊恵法師」(しゅんえほうし)との関係が深く祈雨の他に福田寺の衰微を嘆いた歌「ふるさとの板井の清水水草(みくさ)いて 月さえすまず なりにけるかな」は有名で境内に「俊恵法師之塔」の供養搭があり歌碑も設置されている。 「板井の清水」は、元は境内より東北100m程の所の田畑にあったが、既に水は涸れ、今は姿を消した。「板井」とは板で周囲を囲み井筒とした井戸の名称で付近には板で囲んだ井戸は幾つかあった。従ってこの井戸のみを言うのでなく一般的なものであった。


JR桂川駅東口を起点に、5キロメートル、約2時間のハイキングコースです。

Copyright ? KYOTO SHISEKIGUIDE VOLUNTEER KYOKAI and KAMO SQUARE. All Rights Reserved.