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そうだ 比叡山麓へ行こう

宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場、一乗下り松幕末の志士、
梅田雲浜と妻信子の住居跡、曼殊院院から修学院へと歩きます。

一乗寺下り松

この松は比叡山延暦寺や近江の坂本に通じる道標として植えられたもので、保元物語や平家物語にその名がみえるもので、現在の松は4台目と言われています。  宮本武蔵が、吉岡憲法一門と決闘した所という定説があるが、確証はない。  また、古くは建武3年(1336)に足利尊氏が九州から上陸して官軍と戦った時、楠正成が布陣した所でもあり、徳富蘇峰の「大楠公戦陣蹟」の碑がある。


詩仙堂

現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺である。  江戸初期の儒者石川丈山が、閉居の地としてたてた山荘で、凹凸?(でこぼこした地に建てた住居)といい、詩仙堂は中国の詩人36人の肖像を狩野探幽に書かせた、一室である。  また、なぜか禁門の変で自刃した久坂玄瑞、寺島忠三郎の位牌が非公開ながら所蔵されているという。


八大神社

永仁2年(1294)皇居守護の12社の一つとして、都の北東隅表鬼門に創建されたと伝えられる。  宮本武蔵が一乗寺下り松で吉岡一門と決闘するに及んで、この神社で勝利祈願をしたというが、武蔵は常々神仏を信じたが、神仏に頼ることはなかったともいわれ、はたして実際はどうだったのか・・・  当時の松の古株が、本殿西に保存されている。


瑞巌山 圓光寺

臨済宗南禅寺派の名刹で、徳川家康の要請で、三要元佶(閑室)が開山する。本尊は千手観音坐像である。  関ヶ原の合戦の翌年伏見城に近い指月に円光寺を創建して文教政策の中心に据え、国の安寧を図ろうと施策を練った。当時の木製活字版が残る。  相国寺山内から寛文7年(1667)に現在地に移った。見事な庭園の奥に幕末の女性、村山たかの墓がある。


葉山観音

幕末の清貧の志士、梅田雲浜、妻信子夫婦が堂守りとしてしばらく仮住まいとしていたというが、その跡はない。  雲浜は尊王攘夷の指導者として、安政5年(1858)9月安政の大獄の志士逮捕第一号として伏見奉行所の手に捕らえられ、翌年江戸の獄舎で病死した。  雲浜夫婦は、志士有志たちの集会の場だった、東山五条坂の鳥辺山安祥院に葬られた。


武田薬用植物園

昭和8年に武田薬品の薬用植物の栽培試験場として開設され、世界各地の薬用・ 有用植物を多数収集して栽培されています。現在、2400種の植物が育てられ ています。 資料館は、明治初期の建築家野口孫一氏の設計で神戸市灘区にあった田辺貞吉邸 (元住友理事)を阪神淡路大震災後に移築したものです。


曼殊院

青蓮院・三千院・妙法院・毘沙門堂と並ぶ天台五門跡寺院の一つで、最澄の時代から比叡山山頂に草創された由緒ある寺院である。  天仁年間(1180−1110)に北野神社の近くの北山に別院を構えて寺号を曼殊院と改めた。その後足利義満の北山殿(金閣寺)造営のためなど移転を繰り返し、現在の東山山麓へと移り寺観を整えた。  枯山水の庭園は小堀遠州の作といわれ、絹本著色不動明王(黄不動)、古今和歌集は国宝、その他幽霊画の二幅も有名。


禅華院

臨済宗大徳寺派。文政9年(1826)に修学院離宮の中茶屋を拝領して本堂と した。その後、昭和御大典時の建物の一部を下賜され昭和4年に再建された。 庭の石仏は門前の畑から出土したもので鎌倉時代の作といわれている。


修学院離宮

江戸時代初期の後水尾上皇の別荘でした。上皇は慶長年間に即位した天皇でしたが、徳川幕府の度重なる干渉工作に嫌気が差し、34歳で退位し趣味の茶・書・花・詩などの文化芸術に生きた上皇でした。  今に残る京都の雅な文化遺構は、この上皇との係わりが多く、仙洞御所、円通寺、伏見稲荷御茶屋、水無瀬神宮燈心亭と、多くの庭園や建造物を残しています。


赤山禅院

第三代天台座主円仁が唐で修行中、赤山大明神が出現し、円仁を守護して日本へ来ると告げた。円仁が帰朝したのちその遺言により、この地に勧請したことが起源の延暦寺別院であるが、現在は独立寺院。  赤山明神の祭日に当たる五日に参拝して掛け取りに回るとよく集金ができるといわれ、商人の信仰も厚く、俗に五十払い(ごとばらい)といわれる商習慣ができたといわれる。


白川通一乗寺下り松バス停から約5キロ 2〜3時間のコースです

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