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祇園花街歴史道

  高山彦九郎皇居望拝の像碑

この銅像は、高山彦九郎正之(1747年〜1793年)が京都御所に向かって拝礼をしている姿を写した物である。明治維新を成就した勤皇の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだといわれる。台座の書は東郷平八郎


  檀王法林寺(だん王)

慶長16年(1611)に袋中上人が再興した。本堂は、元文3年(1738)から寛延3年(1750)ごろにかけて再建されたもの。西門は、本堂は寛延4年(1751)に造営された朱塗の一間薬医門である。唐破風の正門正面には「持国天」・「増長天」裏面には「多聞天」・「廣目天」が安置されている。


  大将軍神社

素盞鳴命を主神とし、相殿に関白藤原兼家を祀る。桓武天皇が平安京を造営した際、大内裏鎮護のため四方四隅に祀られた大将軍神社のうち、東南隅の一つである。境内に樹齢800年と伝える銀杏の大樹があり、かつては鵺(ぬえ)の森とも呼ばれ、源頼政の鵺退治の伝説を伝える。


  有済校屋上の太公望楼

明治9年8月、京都市立有済小学校の木造校舎の上に望楼が造られ、太鼓を叩いて時刻を知らせたり、火事を知らせたりした。各小学校にあった望楼は明治末にはその姿を消し、現在では有済校にだけ残る日本唯一の文化財である。


  小川亭とてい女

小川亭の女将てい女は、勤王婆さんとして有名だった。しばしば勤王討幕の謀議処として使用され、宮部鼎蔵・山田信道・桂小五郎等が出入した。


  なすあり地蔵(なすありの径)

なすありの地蔵の謂れは、この道を「なすありの径」と命名された事。地蔵は昭和29年花見小路通りの水道管工事を行った時、白川の川底から姿を現した。


  新門前通(美術骨董街)

新門前通の看板は、もう百年も前から、「シンモンゼン」。古美術店の通りとして、世界に知られたインターナショナル・アートストリートである。


  新橋通・辰巳神社

この界隈は祇園発祥の地である。現在では白川が流れ町家が軒を連ねる新橋保存地区として、建築学上からも重要文化財に指定されている。


  英国公使パークス襲撃跡

攘夷から開国和親に転換した維新政府は、フランス・オランダ・イギリスの公使を京都に招き、天皇との朝見に踏み切る。当時イギリスの公使ハリー・スミス・ パークスは知恩院に宿泊していて、謁見当日の慶応4年2月30日宿舎を出発し御所へ向かった。警備は騎馬隊、歩兵をあわせて総数90名、沿道の警備は肥後 藩兵100名というものものしさであった。パークスの前後は薩摩の中井弘・土佐の後藤象次郎等が警護した。行列の先頭が新橋通りを、まさに弁財天町へ曲が ろうとした時、三枝蓊(さえぐさしげる)、朱雀操が襲撃した場所は新橋から東へ行った縄手小路だった。


  大和橋

大和橋は江戸幕府によって架けられた。白川の川幅は今より広かった。現在の橋は明治45年に架け替えられ、平成15年高欄の改修と石畳舗装を行なった。


  吉井勇の歌碑・巽橋

鞍馬石の歌碑「かにかくに祇園はこいし寝るときも枕のしたを水のながるる」吉井勇の有名な歌である。文芸芸妓、磯田多佳女が女将の茶屋「大友」跡。


  楽宴小路・火の見櫓

享保7年(1772)ごろ、この辺に膳所藩の京屋敷があり、膳所藩と郡山藩・淀藩・亀山藩の4藩が洛中の火災発見に努めたのが、この火の見櫓である。 蹲踞(つくばい)は「吾は唯足ることを知る」と読む。 この界隈は祇園発祥の地である。現在では白川が流れ町家が軒を連ねる新橋保存地区として、建築学上からも重要文化財に指定されている。


  歓亀稲荷大神

火伏せ(防火)の神として崇敬者が頗る多い。この辺は膳所藩京屋敷跡で、その広さは約4350坪もあった。


  祇園東歌舞練場(茶屋街・祇園会館)

祇園をどりは昭和27年(1952)に始まる。祇園東歌舞会の祇園をどりは11月初旬に開かれる。振付の流派は「藤間流」。芸妓16人 舞妓9人 茶屋12軒


  原了郭の店

原了郭の創業は元禄16年(1703)。赤穂義士47士の一人、原惣右衛門道元辰の子・原儀左衛門道喜が剃髪し、「了郭」と号し祇園に開業した。「黒七味」 鞍馬石の歌碑「かにかくに祇園はこいし寝るときも枕のしたを水のながるる」吉井勇の有名な歌である。文芸芸妓、磯田多佳女が女将の茶屋「大友」跡。


  花見小路

北は三条通から南は安井北門通に至る全長約1キロ。祇園町の中央を南北に貫くのが花見小路通。四条通を境に南北に分かれ、南は茶屋に置屋、料理屋がほとんど。京格子に駒寄せ、二階には簾、はんなりした祇園情緒を伝えている。 建仁寺の境内は、江戸期には64院もの塔頭があったが、明治期には14院のみとなった。空き地となった7万坪余りの土地は「祇園甲部お茶屋組合」が明治7年(1874)に譲り受けて、つくられた町が、現在の祇園町南である。


  一力(万亭)茶屋

一力は茶屋で、家名を万家また万春楼といい、万の字を一と力に分けて一力と通称した。「仮名手本忠臣蔵」で大石内蔵助遊興の場を祇園一力と設定されたため著名となった。もと四条通りに面して入り口があった。 鞍馬石の歌碑「かにかくに祇園はこいし寝るときも枕のしたを水のながるる」吉井勇の有名な歌である。文芸芸妓、磯田多佳女が女将の茶屋「大友」跡。


  有楽稲荷大明神

この地域は、織田信長の弟である織田有楽斎長益の本屋敷跡とされる。この一帯に大火が有り建物が焼失、創建は大正初期と想定される。


  ハ坂女紅場

女 紅場は明治5年(1872)、丸太町土手町に女子教育の機関として生まれたのが始まり。祇園・上七軒・宮川町などの花街にも設立された。祇園では下京第 15区女紅場と呼ばれ、明治14年(1881)八坂女紅場学園となり、それ以降芸舞妓の歌舞音曲・茶道・生け花などの研鑽の場とされた。


  祇園甲部(新地)歌舞練場

起源は、八坂神社に参拝する人々に白湯や茶菓子などをだしていた水茶屋が、次第に酒やつまみなどや料理もだすようになり、歌や踊りも披露して客をもてなすようになり、それを専門にする芸妓たちが現れ、発達した。17世紀半ばには100軒をこえた。現在は芸妓86人 舞妓28人 茶屋74軒。 ★ 舞妓から芸妓への歩み@仕込み=「仕込みさん」と呼ばれ、およそ1年の修業期間がある。A店出し=「仕込み」を終え晴れて舞妓として座敷にでられる。B襟 替え=舞妓が晴れて芸妓となること。舞妓時代の赤襟が白襟に替わることからいう。髪型が「割りしのぶ」から「先竿(さつこう)」をへて「島田」にかわる。 振付の流派は「井上流」である。


  正伝永源寺(織田有楽斎墓所)

建仁寺39世無涯仁浩和尚が創建し、肥後細川家の菩提寺であったが、明治6年(1873)廃寺となったため、祇園にあった正伝院(有楽斎の再興)をこの地へ移し、のち永源の名を受けつぎ今の名に改めた。 有楽斎の墓は、昭和37年(1962)に祇園有楽町から、有楽斎正室お清、孫長好の三基とともにここに移された。他に細川家の墓がある。 この地域は、織田信長の弟である織田有楽斎長益の本屋敷跡とされる。この一帯に大火が有り建物が焼失、創建は大正初期と想定される。


  豊川稲荷陀枳尼尊天

陀枳尼尊天は、当寺の中興の祖、三江紹益(さんこうじょうえき)(1572〜1650江戸初期、建仁寺の高僧)の厳父慈母が深く崇神された霊神である。


  宮川町歌舞練場

寛文6年(1666)、「四条河原、祇園社ノ前ニアルニヨリ宮川トイウ」通が開通し、寛文10年(1670)鴨川護岸の石積みが完成し、急速に宮川町の町並みが整い、流行の歌舞伎の役者が多く住んだ。茶屋町として発展してきた。京おどり振付の流派は「若柳流」。現在芸妓40人 舞妓27人 茶屋37軒。  宮 川町歌舞伎練場は、大正5年(1916)に竣工、木造瓦葺入母屋造り2階建、外壁を真壁造とし四方に寄棟造の破風を飾る大正期・書院造の本格的な和風建築 物である。本年10月8日、新調の緞帳「群鶴」が披露された。12羽の鶴をあしらった図柄で、左京区の川島織物セルコンがつづれ織りで制作した。


京阪三条から祇園を経て宮川町歌舞練場まで約二時間コースです。

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