下嵯峨から太秦への史跡を探る

   
 
 嵯 峨 (さが)
  「嵯峨」という地名の由来については諸説あって明らかではないが、「嵯峨」の「サガ」は、地形語の一種が変化したものであり、この付近では古代の「葛野川・桂川」が運ぶ大量の土砂が渡月橋付近で堆積して「洲処・すが」を造っていた。
 「嵯峨」の地は、この「葛野川」に古代から大きく影響を受けて来た土地であるだけに、この付近一帯を「洲処・すが」と呼び習わすようになり、後になって、雅名(唐風)化をはかり、「嵯峨(さが)」という字を当てはめたのではないか、と言われている。


   

 太 秦 (うずまさ)
 「太秦」という地名の由来については、一般的通説として、「秦酒公・はたのさけきみ」が雄略天皇に献上した絹布や絹糸が、うず高く、さながら山の如く積み重ねてあったので、「禹都万佐(ウズマサ)」の号を賜り、以後、この地を「禹都万佐(ウズマサ)→→うずまさ(太秦)」と呼ぶようになった、と、一般的には紹介されている。


長慶天皇陵 

「長慶天皇」は後村上天皇の第一皇子で、興国4年(1343年)吉野山中に生誕し、正平23年(1368年)に即位した。南朝の財政逼迫の折から即位の式も行なわれた形跡が無い。その為古くから即位説と非即位説があった。  近年、皇嫡子海門承朝の入寺された嵯峨慶寿院の旧地に当たるこの地を陵墓に治定された。   御陵は皇子承朝王の墓と並んで西面する。


  
            長慶天皇嵯峨東陵                             皇子承朝王の墓



末丸稲荷  

  地元に残る伝承として、伊勢神宮に奉仕する皇女(斎王)が、「野宮神社(ののみやじんじゃ)」に籠る為におもむく道中の、ちょっとした休憩所が、この近辺に存在したらしい。このあたりの町名が「伊勢の上町」であることからも伊勢神宮にゆかりの地であったことが推測される。











鹿王院 (ろくおういん) 

 覚雄山という臨済宗の単立寺院である。康暦二年(1380年)、足利義満が普明国師(春屋妙葩)の為に宝憧禅寺を建立し、開山塔を建て鹿王院としたのが始まりである。
宝憧禅寺は室町時代には禅林十刹の第五位、天竜寺と宝憧禅寺をつなぐ大道を『天下竜門の道』といい付近には多数の塔頭があったが足利氏の衰退と幾度の大火によって宝憧禅寺は衰退し、開山塔を守る鹿王院のみが残った。 











尼門跡・曇華院 (どんげいん)

  曇華院は、室町幕府2代将軍・足利義詮夫人の母、智泉聖通(智泉尼)が創建した通玄寺が前身とされ、尼五山の一つに数えられていた尼門跡寺院で歴代の皇女が入寺された。江戸後期に光格天皇の皇女が入寺されて「竹の御所」の号を賜った。
 智泉尼は順徳天皇の曾孫にあたり、兄の無極志玄は夢想礎石の弟子で天竜寺二世。智泉尼が晩年に境内の東に庵を結び「曇華」と号したことから、通玄寺が後に曇華院と呼ばれるようになった。







西高瀬川(取水口) 全長15km 
 現在の西高瀬川は、江戸時代より、この川を「農業用水路」として活用していたと同時に、筏を流して「木材の輸送」に利用していた事は確実である。   このように、「農業用水路」及び「木材の輸送」に非常に重要な水路として位置づけられていたので、明治時代に入ってからの京都府における最初の大規模土木事業として、この西高瀬川の改修工事が行なわれた。

  
                  桂川(渡月橋下流)からの取水口付近 伏見区で鴨川に合流


斎明神社(神明神社)
 
斎明神社は、文明2年(1470年)まで当地に所在した天竜寺塔頭・慈斎院の旧境内に位置し、当社はその鎮守社であった。天照大神を祭神とし、「神明神社」とも呼ばれている。
 本殿は、身舎両妻に棟持柱(むなもちはしら)を建てた神明造りで、京都市内では数の少ない神明造りの一例であり、しかも建築年代が明らかで造営資料も揃っている点で貴重な建物である。 当初から覆屋の中に収められていた為に改造等が無く、保存状況も極めて良好である。


順徳天皇皇曾孫 志玄王墓  
 「無極志玄(むごくしげん)」は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧であり、父は順徳天皇の孫「尊雅王(そんがおう)」である。  
1346年、夢想国師の法を継いで、京都・天竜寺の第2世となった。王墓は斎明神社の西隣にあり天竜寺塔頭・慈斎院の旧境内にあたる。

 


桂川(葛野川) 

「秦氏」の業績は多いが、その最大のものは「葛野川→(桂川)」の大改修、即ち、それは葛野川に築いた大きな取水堰、「葛野大堰(かどのおおい)」であり、そして、「葛野川自体の大改修」である。
 五世紀の中頃過ぎまでは、狭い谷間をくぐり抜けたこの川は、流れるにまかせ、ある時は土砂をどっと運び込み、ある時は勝手気ままに川筋を変えるなどして、どうしようもない荒々しい川として人々に恐れられていた。 当然、現在のように急カーブ(右図)せずに、真っ直ぐに東進していたと推定される。 この荒々しい川を、渡来人である「秦氏」の集団が当時における最高の土木技術でもって、「葛野川の開発」に乗り出した。 真っ直ぐ東進していた「葛野川」を、現在は半円を描いて急カーブしている地点で堤防を築き、長期間をかけて安定した川筋の確定に挑み、渡月橋近辺においても、「葛野大堰(かどのおおい)」として伝えられている「取水堰」建設の偉業に取り組んだ。
  


車折神社 (くるまざきじんじゃ)

 祭神は、天武天皇の皇子舎人親王の子孫である「清原頼業(きよはらよりなり)」。
この清原氏は、代々家学として「経書と法律の学問」を伝えて来たが、頼業公は特にこの両道に秀で、明経、明法の博士(経書及び、律令、格式の大学博士)を兼ね、高倉天皇に御講書をする侍読(じどく)という役を勤め、又、穀倉院別当(穀類を保管した平安時代の官庫の長官)、などの要職を務めた。 後、「後嵯峨天皇(在位1242年〜1246年)」が大堰川に遊覧の際、この社前において牛車の轅(ながえ)が折れたので、「車折大明神」と御神号を賜り、正一位を贈られた。 以後「車折神社」と称するようになった。

 
  御願成就なり奉納された「神石」                     富岡鉄斎の筆塚


芸能神社 
 祭神は天宇受売命(あめのうずめのみこと)。神代の昔の、「天照大神」と「すさのおのみこと」との故事に基づき「一般芸能道の祖神」としてお祀りしている。 映画・演劇・和洋舞・茶道・華道はじめ多くの芸能関係者の信仰あつめ、境内一面に玉垣が奉納されている。

 
  







 葵 忠 社(きちゅうしゃ)

「福田理平衛翁」を祀る。
 幕末の動乱期、長州藩の志士達は「勤皇倒幕」の旗を掲げ、京都で活動していた。
 彼らを財政的に支えた有力者の一人が、下嵯峨村(右京区嵯峨)の総年寄りとして村人からの信頼を一身に集めていた材木問屋「福田理兵衛」であり、長州藩の経理一切を任されていた。
 この時、「長(州)に奉ずるは 即ち国に奉ずるの道なり」、と決意している。
  「禁門の変」で理平衛は、長男の「信太郎」とともに長州藩に多大なる協力をするが、長州復権の夢は砕かれて天竜寺に敗退したが、薩摩、会津兵に阻止され、下嵯峨の家には戻れず、各所を転々、理平衛は山崎から大坂に下り、「長州あっての自分だという信念」から、高砂から海路「萩」に向かい、元治元年(1864年)八月二十一日、萩に到着する。
 一方、下嵯峨では薩摩、会津兵により、理平衛の家屋敷は破壊され、家財道具一切は全て没収されて、金五千両が村民に分配された。 この厳しい処分は、京の商人に対する見せしめであり、村民への分配は、いわば、大義名分のための薩摩・会津の人気取り政策に他ならない。
  明治政府は、維新時の勤皇の志士の労苦に報いるために、明治四十四年六月一日、「故福田理平衛」に「従五位」を贈った。  旧宅地の隣の「車折神社」の境内に、子孫により「葵忠社(きちゅうしゃ)」が造営され、毎年桜の花咲く四月、理平衛の子孫が一堂に会して「葵忠祭(きちゅうさい)」を行ない、新しい時代を夢見て、長州藩の為に自分の財産も家族も、そして自分の人生そのものまで捧げた先祖「福田理平衛」の偉業を偲んでいる。

 
正定院 
 浄土宗捨世派。ご本尊は松尾の谷堂にあった仏像八体のうちの一体を祀っている。福田家先祖の福田三郎左衛門家久が天文20年(1551)に称念上人を開山として創建。本堂裏の墓地に「福田理平衛」が眠っている。



斎宮神社 

 天照大神を祭神とする。 「斎宮」とは、伊勢神宮に仕える未婚の皇女、または女王の称であり、「斎王」ともいう。斎王が有栖川の近くに「野宮」を建て精進潔斎された。
この神社はこうした野宮の一つで、有栖川禊の旧跡である。
 
有栖川
「有栖川」は、短い川ながら昔から名高く、「斎川(いつきがわ)」とも称され、古い記録には「有巣河」とも記されている。嵯峨・観空寺谷の渓流と広沢池からの水源が合流して桂川に注ぐ。





千代の古道        

  
さがのやま御幸絶えにし芹川の千代の古道跡はありけり 
                                  在原行平

 「千代の古道」は、平安時代より幾多の歌に詠まれてきたが、「在原行平(818〜893年)」の詠んだ歌がその最初であるらしい。
平安時代、京から嵯峨院(大覚寺)へ通う道であり、コースとしては四コースほど伝えられており、どの道(コース)が本当の「千代の古道」であるのかは今となっては確かめようがない。

  
さがのやま千代の古道跡とめてまた霧わくる望月の駒
                               藤原家定





 
桓武天皇皇子仲野親王高畠墓 
 仲野親王は桓武天皇の皇子、藤原大継の娘河子を母とし、延暦十一年(792年)に誕生。
式部卿を経て、後に大宰師となり、貞観九年(867年)76歳で薨去。この地に埋葬された。
 

  


東映京都撮影所               
 京都には、映画の草創期より多くの撮影所が設立された。しかし、現在京都に残っているのは、この太秦にある「東映京都撮影所」と、「松竹京都映画撮影所」の二撮影所のみである。









 いさら井 
 この井戸は、洛西有数の名水として江戸時代からつとに知られていた。
 現在は水も涸れて用をなさないが、「いさら井」とは「イスラエルの井」がなまって「いさら井」になったとも伝えられている。







広隆寺

  真言宗御室派で、「秦河勝(はたのかわかつ)」の創建した「蜂岡山・広隆寺」という。
広隆寺の創建にかかわる逸話(伝承)が幾つか残されている。最も有名なのは、『日本書紀・推古11年(603年)』に記されているもので、或るとき「聖徳太子」は群臣を前にして、「私は尊い仏像をもっている、誰かこの仏像を祀るものはいないか」と、尋ねられた。その時、「秦河勝(はたのかわかつ)」が、「わたしが祀りましょう」と名乗り出て、聖徳太子から仏像を拝領した。
そして、その仏像を祀る為に建てた寺が、この「広隆寺」の前身である「蜂岡寺」であるという伝承であり、この時の「仏像」が、国宝指定第一号の「弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)」であると伝えられている。  「京都三大奇祭」の一つ「牛祭り」は「大酒神社」の祭礼である。





 
国宝・弥勒菩薩半跏思惟像 (宝冠弥勒)
 聖徳太子から秦河勝が貰い受けたと伝えられる、国宝指定第一号の「弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)」である。 この像は他の飛鳥仏とは異なり、赤松を材としている。
この像と瓜二つの形式の金銅像がソウル国立中央博物館にあり、又、弥勒信仰が、新羅において盛んであったことも、この像が新羅系の仏像であることを示している。
 





 京都歴史ウォーク





 ウォークマップ <青点線に沿って歩いて下さい>JR嵯峨嵐山駅から広隆寺まで約 3時間