琵琶湖疏水は長等山をくぐり、山科の北部をゆったりと流れ、日ノ岡の第3トンネルをくぐり、蹴上で第二疏水と合流し、ここで浄水用と発電用に分けられ、その一部は閘門により分線されて市内のあちこちに流れてゆく。
今回は蹴上で合流した疏水が、どのような経路で鴨川に流れ込むのかを見とどけます。と同時に、東京遷都で疲弊しきった京都に活力を取りもどすための「疏水プロジェクト」が、そのかたちを変えながらも、私たちの生活に深く浸透し、時を越え百二十年経過した今もなお、その恩恵を受け続けているという『事実』を再確認したいと思います。
<地下鉄蹴上駅より東へおよそ50m>
日向大神宮
日向大神宮は「京都のお伊勢さん」、「日向さん」と呼ばれている。伊勢神宮と同様に内宮と外宮があり、神明造りで築200年を超えている。 昔は、旅人たちの道中の安全祈願や伊勢神宮への代参として参拝者が多数あった。
第3トンネル西口洞門・蹴上ダム
日向大神宮に向う大神宮橋の上から、全景が見渡せる。850mある第3トンネル西口洞門には、初代内大臣・公家出身の三条実美の揮毫した「美哉山河」の石額がある。 全線トンネルを通過してきた第二疏水の水は、ここで第一疏水と合流する。
ここで水は浄水用と発電用に分けられ、一部は閘門(こうもん)によって分線に流されている。建設当初は疏水運河を上下する船を留め、水運調整を計ったところ。京都市によって復元整備され,一帯は公園になっている。
第二疏水トンネルの出口 第一疏水の第3トンネルの出口
九条山ポンプ室
第3トンネル西口洞門出口の西側にある。御所水道施設の一つ。九条山中腹の貯水槽に送水するポンプ室は、豪華な赤煉瓦造りの建物で、正面から見ることは出来ない。 蹴上、山ノ内浄水場の取水池となっている。
疏水一・二の合流点
琵琶湖疏水殉難碑
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義経地蔵
明治35(1902)年、工事犠牲者慰霊のため、田辺朔郎がこの地に自費で弔魂碑を建立。「一身殉事萬戸霑恩」(いっしんことにじゅんじばんこおんにうるおう)の銘と、裏面に犠牲者17名の氏名が刻まれている。大正8(1919)年疏水開通30周年式典に際し、京都市に寄贈された。田辺朔郎博士は、疏水の要といわれる蹴上の地、日向大神宮参道の途中の「大日山墓地」で静かに眠っている。
蹴上義経地蔵 「義経大日如来」。この蹴上には次のような義経伝説がある。
遮那王が奥州に向かう途中、平家の武者9人があとを追って来た。すれ違いざま、武者の乗った馬が水たまりの水を跳ね上げ、遮那王に掛けてしまった。遮那王は無礼を非難するが、武者達は平家の威光を笠に着て、返って傲慢な態度に出た。怒った遮那王は、9人の武者達を斬りすてた。冷静になった遮那王は、武者達が哀れになり、街道沿いに9体の地蔵を建てて供養をし、彼らの菩提を弔った。この地蔵はそのうちの一体だと伝えられている。この付近の地名を蹴上と言うのは、この伝説からといわれている。
山ノ内浄水場の導水管の実物
山ノ内浄水場への導水管は、蹴上の取水池から8km離れた浄水場へ1m65cm直径の鋳鉄管で送水される。送水能力は1日26万立方米である。
山ノ内浄水場の原寸大鋳鉄管
<インクラインの線路に沿って>
インクライン
蹴上に明治22(1889)年建設されたインクラインは、舟の移動用として日本初のもので、水平距離582mは当時世界最長といわれた。高低差のある蹴上の舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷設して、艇架台によって舟を運ぶ施設で、当時の舟運による交通事情がよくうかがえる産業技術遺産である。
サクラのインクライン
舟と台車
<インクラインから疏水記念館の地下入口へ>
琵琶湖疏水記念館
琵琶湖疏水竣工100周年を記念して、平成元年に開館。インクライン南端の南禅寺舟溜りに面しており、全国的に珍しく水道局が運営。
疏水記念館地下出入り口 疏水記念館の玄関前の竣工百年碑
<琵琶湖記念館から仁王門通りに出る>
蹴上発電所
日本最初の水力発電所。明治24(1891)年11月に送電を開始。京都市内の時計工場や紡績工場に動力用電力として供給され、インクラインの運転動力もこの電力を利用していた。明治28(1895)年2月に開通した京都電気鉄道にも電力を供給するなど、新しい産業の振興に大きく貢献。
蹴上浄水場
京都で一番古い浄水場で、明治45年に日本最初の急速濾過方式を採用して竣工した。その後、改修や増強を重ね、現在1日20万立方米の能力を備えている。毎年5月初めの連休に一般公開される。
インクラインの上から見える浄水場の前景
ねじりまんぽ
煉瓦で特殊な積み方をしたトンネル。ねじりまんぽの両側の出入り口にある洞門石額に、北垣国道知事がそれぞれ「陽気発処」、「雄観奇想」と揮毫している。
ねじりまんぽ 北垣国道知事の石額「雄観奇想」
田邉朔郎博士の銅像・
顕彰碑
昭和57(1982)年に市民の寄付により銅像が建立された。明治21(1888)年28歳の時、米国の水運・水力発電調査に出発した横浜港で、撮影された写真をモデルに、京都の彫刻家江里敏明氏が作製した。
顕彰碑は、大正12(1923)年、京都府が博士の還暦を祝って加茂川と高野川の合流点に建てたが、戦時中の河川改修工事にともない、この地に移設された。高さ4.5mある巨大な石碑で、裏面に1,377文字で博士の略歴を刻んでいる。
設計図を持つ田邉博士像 顕彰碑
取水池・疏水分線小道
疏水公園の発電所取水口の鉄製架橋を通って裏側に出て、山裾に沿って疏水分線の横にある小道をたどると南禅寺境内にある水路閣に至る。
ここが琵琶湖疏水の心臓部???
取水口の架橋をわたり小道をゆくと、水路閣の裏にたどりつく
水路閣の南側
水路閣
水路閣は、この疏水事業の一環として、明治21(1888)年施工されたもので、延長93.17メートル、幅4.06メートル、水路幅2.42メートル、半円アーチ式煉瓦造りの優れたデザインを持った水路橋。毎秒2トンの水が流れている。設計は田邊朔郎。ローマ帝国の水道を参考に建設された。昭和58(1983)年7月1日に「疏水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。平成8(1996)年6月、国の史跡に指定された。
建設当時「環境破壊だ」として福沢諭吉など知識人は反対した。
しかし、今では観光京都の『顔』となっている
正面水路閣の真上 水路閣は全長およそ93m(東側) トンネルに入り、哲学の道へ
南禅寺三門(重要文化財)
重要文化財の三門は、寛永5(1628)年に藤堂高虎の寄進により再建。
山門の西側 五右衛門が「絶景かな!」と感嘆した 山門の東側
<南禅寺北門から出て野村美術館を西へ>
南禅寺舟溜り
インクラインの終点。
現在の舟溜り (奥の建物は動物園)
平安神宮大鳥居 明治28年建立 毎年3月下旬から5月上旬まで運行される
延勝寺跡碑(六勝寺の一つ)
六勝寺とは院政期、天皇や中宮の発願で鴨川東岸の白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院。いずれも「勝」の字がつくので六勝寺と総称された。
六勝寺のなかで最後に建立された延勝寺跡 疏水の向う側はみやこめっせ
夷川水力発電所
大正3(1914)年に建設されて以来、長期にわたって京都市内に電力を送電している。
明治23年(1890)年に琵琶湖疏水が竣工し、翌年にその水力を利用した我が国最初の事業用水力発電所である蹴上発電所が建設された後、下流の墨染発電所と同時に建設された。
第3代京都府知事北垣国道銅像
北垣国道の銅像は、琵琶湖疏水の建設に尽力された功績をたたえて、市参事会の議決により明治35(1902)年8月に建立されたが、第2次世界大戦中の金属供出のため撤去され、台座だけが残っていた。このたび、琵琶湖疏水竣工100周年記念事業の一つとして、その台座を使用して再建された。
疏水建設当時、北垣知事は「こんど来た餓鬼(北垣)は極道(国道)」などと張り紙されていた・・・・・
鴨川の四季の歌碑
源実朝・兵衛・後鳥羽院・藤原良経の歌人がそれぞれ春夏秋冬を歌っている。琵琶湖疏水の一部は夷川水力発電所で役割を終えたあと、この地で鴨川に合流し大阪湾まで流れてゆく。
鴨川の四季の歌碑 田辺橋と田辺小橋 田邉博士を偲んで名付けられた???
京都歴史ウォーク