第一疏水は明治18年工事を開始し、着工から5年後の明治23年に完成した。工事中に水力発電を採用出来た事で、京都の工場は電力を使用し、路面電車が走り、京都は次第に活力を取り戻していった。明治30年代に入ると、第一疏水の規模では電力需要の増大に対応できなくなり、飲料水としての需要も高まってきて、近代都市京都への脱皮を図るため、第2代西郷菊次郎は第二疏水を明治41年1月着工し、明治45年3月完成させた。
この第二疏水の流量は、毎秒15.30立方メートル(550立方尺)であり、三保ヶ崎の取水点から第一疏水の北側にほぼ平行して建設され、水道水源として汚染を防ぐため全線を掘抜きトンネル又は鉄筋コンクリートの埋立てトンネルにしている。水路延長は約7.4キロメートル、蹴上で第一疏水に合流している。
明治45年4月蹴上浄水場より給水を開始した。
三角橋(第5号橋)