明治の偉業「琵琶湖疏水」をゆく


              ・・・山科疏水をちゅうしんに・・・


 琵琶湖の水を引く事は京都にとって積年のゆめであった。特に東京遷都後衰退しきった京都にとって切実なものとなった。 第3代知事北垣国道は明治18年琵琶湖疏水の大プロジェクトに着手した。それからおよそ120年、今も琵琶湖の水は長等山トンネルをくぐり、美しい運河となって流れている。京都市民のいのちを守りながら・・・。
今回は明治の先人たちの偉業を偲び、いのちの水に感謝しつつ、山科疏水の周辺を訪ねたい。


               




  

<JR山科駅北の道を東へゆく ・ ページ末に散策マップ有>  

諸羽神社

 貞観4年(862年)清和天皇の勅命で創建され、天児屋根命(あめのこやねのみこと)・天太玉命(あめのふとだまのみこと)の2神を祀り両羽大明神とよばれた。
 後柏原天皇のころに伊弉諾尊・素盞鳴命など六神が合祀されたため、諸羽神社と改称した。通称を四の宮という。
 



   本殿の右横の『琵琶石』





 仁明天皇第四皇子の人康(さねやす)親王は若くして失明し、山科宮とも呼ばれた。親王は文芸に秀でていたことから、同じ境遇にある盲人を中心に、琵琶や詩歌を教えていたという。琵琶を引くとき座っていたと伝えられているのがこの『琵琶石』である。琵琶石のすぐ右隣にある立板状の石が神が宿ると言われる「岩座」である。 右下の写真:
人康親王山荘跡(諸羽神社参道右側の石碑)









<諸羽神社境内より疏水に出る>







疏水公園と諸羽トンネル

 

   以前は真ん中の道の左側に疏水の流れが・・・                 諸羽トンネルの長さ 520m      

 四ノ宮の船溜りから安朱までの第一疏水は、昭和44年頃まで諸羽山の裾を迂回していた。45年5月に安朱と四ノ宮を貫通する諸羽トンネルが完成すると同時に、もとの川筋は埋め立てられ、昭和53年2月に山科地区疏水沿線を東山自然緑地公園として整備された。現在も疏水公園として利用されている。



母子地蔵
  
   

 琵琶湖疏水の完成から9年後の明治36(1903)年、疏水に落ちて水死する子が多かったことに心を痛めた船頭(善兵衛)が地元安朱の人達の協力を得て、ここに地蔵堂を立てた。旧志賀町の石工職人に地蔵を彫らせた。母親が左腕で子どもをしっかり抱きかかえて、しずかに目を伏せ子どもを慈しむ姿を刻んでいる。当時、疏水の帰り舟を曳く船頭さんたちのお参りの姿が見られたそうだ。


 母子地蔵の南側に何本かの低いコンクリートがある。この柱には板を挟み込むための溝がついている。ここに板をはめ込む。これは荷揚げの際の荷揚物流水防止のための装具である。その南側にある広場は荷捌き場であった。

写真:50p足らずのコンクリート柱







第二疏水は全工程がトンネルである

 第一疏水は明治18年工事を開始し、着工から5年後の明治23年に完成した。工事中に水力発電を採用出来た事で、京都の工場は電力を使用し、路面電車が走り、京都は次第に活力を取り戻していった。明治30年代に入ると、第一疏水の規模では電力需要の増大に対応できなくなり、飲料水としての需要も高まってきて、近代都市京都への脱皮を図るため、第2代西郷菊次郎は第二疏水を明治41年1月着工し、明治45年3月完成させた。
 この第二疏水の流量は、毎秒15.30立方メートル(550立方尺)であり、三保ヶ崎の取水点から第一疏水の北側にほぼ平行して建設され、水道水源として汚染を防ぐため全線を掘抜きトンネル又は鉄筋コンクリートの埋立てトンネルにしている。水路延長は約7.4キロメートル、蹴上で第一疏水に合流している。 明治45年4月蹴上浄水場より給水を開始した。



三角橋(第5号橋)

    

     
一番東に架かっている三角橋・ ここから6つの三角橋が残っている・・・


 側水の目的で造られた橋で、側水橋と呼ばれている。現在疏水べりには6橋架かっている。橋の両側に道路と平行して石段がついており、横から見ると石段の側面が三角形に見えるところから三角橋の名がついた。舟の通行のために1bくらい高く架かっている。


 
 安祥寺川の上を疏水が直角に交差している。



    安祥寺川源流・あと旧安祥寺川となり、山科川に合流する


安祥寺

 文徳天皇の母である藤原順子(藤原冬嗣の娘)を発願者として9世紀の中ごろにできた寺である。早くから国家の手厚い保護を受け、寺領もたいへん広かった。毘沙門の境内地も安祥寺領であった。
 建物は兵火で焼失し、仏像も焼失した。そのころの作といわれる五智如来像は京都国立博物館に、五大虚空蔵菩薩像は東寺観智院に保存されている。現在はひそりと留守番の人を残すのみ。



    琵琶湖からの鮎を釣る???



天智天皇山科陵

  

 天智天皇は舒明天皇を父に、皇極(斉明)天皇を母とし、大化の改新後7年間の称制期間を経て近江大津宮で即位した。天智天皇は671年12月3日、大津宮で崩御。御陵の土地が選定されたが、この間に壬申の乱が起こり、天智天皇の死後28年たった699年に、ここ山科陵に決まった。




昭和5年に起こった疏水堤防決壊事件

 琵琶湖疏水の工事計画時に京都市側がもっとも心配したことは琵琶湖の水位の異常上昇と疏水流路のどこかが決壊して、琵琶湖の大量の水が京都市側に流れ込むことだった。その点には充分な配慮がなされていたが、昭和5年に一度だけ決壊トラブルが発生している。

                        

「琵琶湖疏水の100年」誌によると、昭和5年1月18日の午後0時30分に天智天皇山科陵裏を流れる「第一疏水」の左側堤防が延長9メートル、幅18メートルにかけて決壊した。御陵近くの薬大の生徒さんが堤防決壊工事にかりだされたと報じている。



山科疏水の優雅な流れ・・・

 山科疏水の水は、諸羽トンネルをくぐりぬけてから、美しい曲線を描きながらゆったりと流れている。これは開削当時の目的である舟便のための工夫で、舟に抵抗力を持たせるためのものであった。

 

          美しくゆるやかなカーブを描きながら流れる・・・  山科疏水




当時のままに残る三角橋

                        現在残る6つの三角橋の一つ

  






 イノシシに注意の張り紙が・・・
















本圀寺

 大光山本圀寺。入口にある通称「赤門」と呼ばれている開運門は1592年加藤清正が寄進したもの。秀吉の姉、日秀尼(にっしゅうに)等により復興された日蓮宗のお寺。
 昭和44年に下京区堀川六条からこの地に移ってきたが、昭和58年に大改造された。加藤清正の祈願所・菩提所で清正廟がある。



   昭和44年下京区堀川六条から移って来た・・・



疏水洞門

疏水の大津三保ヶ崎から京都蹴上間に3本のトンネルがある。それぞれの出入り口の石造洞門には政府の高官たちの扁額が掲げられている。その内の一つ、第1トンネル東口には伊藤博文筆『気象萬千』、西口には山県有朋筆『廓其有容』が掲げられている。

  第2トンネル東口付近・・・


 第2トンネル東口には、井上馨の『仁以山悦智為水歓』(仁は山を以って悦び智は水と為るを歓ぶ)が掲げられている。国の史跡に指定されている


<疏水の道をはなれトンネルの西口へ(左側の道)>




<ふたたび疏水に戻る(第2トンネルの西口)>


 西口洞門には、西郷従道の『随山至水源』(山に随いて水源に至る)が掲げられている。扁額に蔦がからまりよく見えないが、陽の文字で刻まれている。ここも国の史跡に指定されている。

                
                  東口とは異なったデザイン
                  南禅寺水路閣に似た雰囲気が・・・




日本最初の鉄筋コンクリート橋  

 第三トンネル東口前にある橋アーチ型の小橋は、日本初の鉄筋コンクリート橋。昭和7年に京都市が建立したものである。日本で最初の鉄筋コンクリート建造物ができたのが明治34年(1901)。このコンクリート橋は明治36年に出来ている。国の史跡に指定されている。



   アーチ型で手すりが無かった・・・               田辺朔郎が立てた碑



<疏水と別れ三条通りへでる(地下鉄・御陵駅)>


 


                             平成18年6月18日実施 所要時間約2時間半

     京都歴史ウォーク