長岡京 明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)お輿入れの城へ


■ 勝龍寺城とは
 この城は、暦応2年(1339)に細川頼春が京都へ進出してくる南朝方に対抗するため、北朝(足利尊氏)方の前線基地として築いたといわれ、京都盆地の南西部を防衛する要所にあった。
 応仁・文明の乱(1467〜)では京都南西部における西軍の拠点となり、戦国時代になると織田信長が上洛しこの地を攻略(1568)し、細川藤孝(のちの幽斎)に城が与えられ堅固な城に改修、そして天正10年(1582)の山崎合戦で明智光秀が本拠としたが落城した。
 この城は天正6年(1578)に光秀の娘玉(のちの細川ガラシャ)が藤孝の長男忠興のもとに輿入れしたところで、歴史とロマンを秘めた城として全国的に知られている。(勝龍寺城公園資料より)


  コースのあらまし(約6km 3時間コース)


  JR長岡京駅東口〜神足遺跡〜神足神社〜勝龍寺城の土塁と空堀跡〜観音寺〜勝龍寺城址〜勝龍寺〜恵解山古墳〜中山修一記念館〜与市兵衛の墓〜石田家住宅〜神足石仏群〜JR長岡京駅西口(ページ末のウォークマップ参考)

神足遺跡

  神足遺跡には、今から1万1千年前からの旧石器時代から室町時代までの複合遺跡が残っている。出土物には、石鏃、石剣、石包丁、石斧などの石器類や、壷、甕、高杯、鉢などの土器類が大量に見つかっている。桓武天皇が長岡京の都を造った時、都の中心になる朱雀大路(幅・約54mで平安京の朱雀大路に比べて狭かった)は長岡第九小学校校舎部分を南北に通っていたのが発見されている。朱雀大路に面した屋敷地から建物跡や井戸跡などが見つかっている。井戸の中から大量の土器と共に墨書土器や瓦、帯金具などが出土し、かなり位の高い貴族の邸宅跡と考えられている。



神足神社

 この神社は、旧神足村の産土神であり、延暦15年(796)創立と伝える古社で、第55代・文徳天皇の斉衡元年(854)に国の官社にあげられている。又、「延喜式」にある式内社の一つである。祭神は「舎人親王」、親王は「日本書記」を編纂したことでよく知られている。
 「桓武天皇の夢」として次のような伝説がある。
田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとしている悪霊を防いでいる夢を見た桓武天皇は、目覚めた後、田村に社を建てさせ太刀と絹を秘蔵させた。



勝龍寺城の土塁と空堀跡
 
 神足神社の参道の南側に残っている。勝龍寺城は、南北朝時代の暦応2年(1339)北朝方の前線基地として細川頼春が築いたとされ、元亀2年(1571)織田信長の命を受けた城主細川藤孝が改修を行い、二重の堀と土塁を設けた。水の溜まった形跡が無く空堀とみられる。現在も竹藪の中に一部が残っている。








観音寺

 この寺は、浄土宗で山号は「大悲山・観音寺」といい、「京都・洛西観音霊場第13番札所」となっている。過去帳によれば、文亀元年(1501)雪山が建立、宝暦年間に再建が行なわれている。本尊は南北朝時代作の十一面観音坐像である。













勝竜寺城公園(勝龍寺城跡)

 勝龍寺城は、暦応(りゃくおう)2年(1339)に細川頼春が築城したと伝えられている。この頃は南北朝時代で、男山八幡まで進出してきた南朝方に対抗する為、北朝方(足利尊氏)の前線基地として築いたと言われ、京都盆地の南西部を防衛する為の要所であった。天正6年(1578)に細川藤孝の長男である細川忠興(ほそかわただおき)のもとに、明智光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)がお興し入れをして来ます。忠興・玉ともに16歳で、二人はここで二年間の楽しい新婚生活をおくり、二人の子供をもうけている。天正10年1582)、明智光秀が本能寺の変を起こし、細川親子は、心ならずも主君織田信長を倒す事になる。本能寺の変で細川藤孝・忠興親子は、光秀に協力せず豊臣秀吉側につき、天王山の戦い(山崎合戦)となり、明智光秀は敗れ一時勝龍寺城に逃げ込むが、結局、坂本城へ戻る途中、小栗楢で落命する。
 
 細川藤孝・忠興は秀吉から明智家と親戚関係を持っていると思われる事を嫌って、玉を表面上のみ離縁して宮津から更に北になる味土野(みどの)という寒村に幽閉する。ここで2年間寂しい生活をおくった玉は、許されて大阪玉造の細川家へ戻るが、関ヶ原の合戦で石田三成ら大阪方の人質になるのを拒んで、38歳の生涯を閉じる。玉は戦国の世の有為転変に不信を抱き、キリスト教に入信して「ガラシャ」(恩寵の意)という洗礼名をうけた。

 
勝龍寺・春日神社

   

  勝龍寺は、山号は恵解山(えげさん)、真言三宝宗で、洛西観音霊場14番札所である。寺伝によると、大同元年(806)に帰朝された空海が唐(中国)長安で修行した青龍寺の名をとって創建,観音堂をはじめ99坊が建てられたといわれている。村上天皇のころ(946〜967)大旱魃、大飢饉となり、天皇は心を痛め住職の千観上人に7日間の雨乞い祈祷を命じ、結願の日に雨が降り出した。天皇は非常に喜び「龍神を呼び龍神に勝った。以後、勝龍寺と名乗れ」と勅命を下したと伝わる。
 境内には勝龍寺村の氏神である春日神社があり、慶長9年(1604)再建と伝えられている。


勝龍寺城大門橋の跡

 暦応2年(1339)南北朝時代、後醍醐天皇を擁する南朝方は、男山八幡宮まで進出して京都をうかがう情勢にあり、これに対抗するかたちで、北朝方の足利尊氏は細川頼春に命じて、京都を守る為に前線基地として勝龍寺城に土塁を盛って周囲を固めた。織田時代に細川藤孝は、鉄砲戦術に対応する為、この場所に「大手門」を構築した。
 







恵解山古墳    
 
  昭和54年(1981)に国の史跡に指定された乙訓地方最大の前方後円墳である。古墳は、全長約120m、前方部の幅約76m、高さ約6.5m、後円部の径約60m、高さ約8m。恵解山古墳は、今から約1500年前(古墳時代中期)に築造され、当時の乙訓地方を支配した首長の墓と言われている。昭和55年の調査で前方部中央から武器類を納めた埋蔵施設が発見され、鉄鏃472点、鉄刀146点、短剣52点が出土した。
 





中山修一記念館 
 
  長岡京市久貝に居住していた、故中山修一先生(京都文教短期大学名誉教授)は、古代の都・長岡京に並々ならぬ関心を持たれ、戦後、私財を投じてその発掘調査に当たられた。 周辺地域の教員をしながら、長岡京の発掘を手がけ、「幻の都」でなく「現の都・(うつつのみやこ)」であった事を立証した。
 









与市兵衛の墓・・伝説の墓
 この地は江戸時代に作られた赤穂浪士(萱野三平・かやのさんぺい)をモデルにした歌舞伎芝居や人形浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」の五段目<山崎街道鉄砲渡し場>のゆかりの 地と伝えられている。
 元禄15年の吉良上野介邸討ち入りを前に、早野勘平の義父与一兵衛が、「勘平」を赤穂浪士の一員に入れるため、嫁の「お軽」を祇園に身売りし、その50両を持って西国街道を山崎に急ぐ途中、この地で浪人に殺された。後世、与一兵衛の死を悼んで供養塔が立てられたと伝わる。










 
西国街道        

   


石田家住宅

 石田家住宅は、旧西国街道沿いにある旧家で、江戸時代後期から明治時代初期に建てられたと言われている。百数十年の間に、「紙屋」「医院」「茶屋」と変遷してきたが、街道に面した茶屋格子、虫籠窓、犬矢来、下地窓、煙出し、など往時のまま保存されている。
 平成12年、国の有形文化財として登録された。









神足石仏群

 <神足・こうたり>と<古市・ふるいち>の共同墓地。墓地に入って右側に並んでいるのが、六地蔵。 左手にあるのが、五王像である。正面(北)には死者と最後の別れをする<がんせんどう>がある。
蓮座の上に棺桶を置き、台石の上に供物を置き、死者を弔った。又、右側には入り口に近い方に釈迦如来坐像が、その奥に阿弥陀如来坐像がある。石仏群は、死後の一連の恐怖から逃げようとする庶民信仰から造られたと言えるであろう。

  

   ・・・おわり・・・(最寄駅 JR長岡京駅まで約3分、阪急長岡天神駅まで約5分)

  京都歴史ウォーク