春爛漫 鴨東の岡崎六勝寺は今盛りなり






 院政華やかし頃の岡崎周辺を訪ねながら、往時を偲び散策しました。満開時期を少し過ぎていましたが、花冷えの所為か所々の桜は、今だ、花吹雪の最中にあり、史跡探訪を十分に楽しませていただきました。

     熊野神社(東山丸太町)をスタート、約5km3時間弱のコースです。
                  散策マップはページ末を参照ください。


岡崎の名前の由来
 
同地は神楽岡(吉田山)、栗原岡(黒谷山)の南側に突き出た崎にあることから、こう呼ばれた。中世は貴族の別荘や寺院が建てられたが兵乱で荒廃、近世には岡崎村が黒谷の門前村として田園地帯が広がっていた。江戸時代後期には風光明媚なことから多くの文人墨客が居住することとなった。なお、明治の歌人与謝野鉄幹は明治6年、岡崎天王町にあった願成寺の住職の子として生まれている。

 
熊野神社
 聖護院の僧増誉が白河法皇の命により同地に勧請し、聖護院の鎮守社として祀られる。若王子神社、新熊野神社(いずれも後白河上皇が勧請)と共に、京都の三熊野と称された。兵乱で荒廃していたところ、寛文6年(1666)聖護院道寛法が社殿を再興、現在の本殿は下鴨神社の式年造営の建物(旧本殿)を移建したもので、流れ造りの代表的な建築物である。
熊野信仰とは
 熊野三山とは、本宮、新宮、那智の三社をいい、仏教的には阿弥陀、薬師、観音にあたる。古代の熊野詣の特色は平安時代末期の院政時代にみることができる。延喜7年(907)宇多上皇に始まり、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇の頃には最も盛んになった。上皇や女院、貴族たちが足裏に血をにじませ、はるかな山河を越えて熊野に向かわせたものは、既成宗教に飽き足らなくなり、きびしい山岳宗教に救いを求めたからであろう。熊野信仰は自然に根ざした原始信仰に神道と仏道、修験道が合体したものである。

聖護院
 天台宗寺門派(三井寺)智証大師円珍が岩倉の長谷に創建した常光院が始まりとされている。寛治年間(院政の始まり)三井寺の僧増誉が当地に移し寺名を聖護院と改めた。増誉は白河上皇の熊野詣の先達をつとめ、熊野三山の検校職に任ぜられた。以後修験道の本山派の山伏を統括することとなった。後白河天皇の皇子静恵法親王が四世門主に入ったことから、代々法親王が住持することから聖護院門跡・聖護院宮と称された。
修験道とは
 日本人は昔から山には神々が宿ると信じ、山の神を信仰してきた山岳信仰、自然崇拝に源を発した民俗信仰を持っています。これは日本の国土が山に覆われ、四季折々に変化する大自然と信仰が結びついていたからです。山自体をご神体(法体)として拝むことに始まり、山の中、つまりご神体の中に入って修行することにより呪術的な験力を得る事を望んだのです。また仏教が伝えられると仏教と融和し、神道・儒教・道教・陰陽道等をも融合して、仏教的神道的色彩の濃い日本独自の神仏習合・権現信仰の色彩が強い修験道が完成されてきます。修験道では今から約1300年前に誕生された役行者神変大菩薩を開祖と仰ぎ、聖護院では平安期の高僧、第5代天台座主智証大師円珍を中興の祖と呼んでいます。修験道は山岳崇拝の精神を基とし、厳しい山々で修行し、困苦を忍び、心身を修練し、悟りを開いて仏果を得る、という出家・在家を問わない菩薩道、即心即仏を実修する日本古来の宗教です。
聖護院大根
 京野菜の一つ。大型の丸大根。重さ1〜4キロ。品質優良で煮食に適する。文政年間(1818〜30)尾張国から黒谷の金戒光明寺へ奉納した宮重大根から聖護院の農民田中喜兵衛が円形に育成固定。明治に入り、洛東一帯に立地を拡大したが、市街化あるいは病害のため産地は鞍馬口・大宮・鷹峰・太秦・田中・一乗寺と順次移動。現在は洛南久御山町が主産地。



積善院準堤堂
 聖護院の院家で山伏の事務を代行していた寺。本山派の筆頭寺院。明治初年に「ナギの坊」と準堤堂合併して大正3年に現在地に移った。お俊・伝兵衛恋情塚は、近松門左衛門作「近頃河原達引」の中で、お俊・伝兵衛が、聖護院の森で心中したことに因み、二人の霊を慰めるために昭和27年に建立した。












須賀神社
 鳥羽天皇の中宮美福門院得子の御願寺である歓喜光院の鎮守社として創祀された。元は、平安神宮内の西天王塚付近にあったと伝える。東天王社(岡崎神社)に対して西天王社と呼ばれた。現在地は、旧お旅所で大正13年に造営され、本殿が二つに分かれ、右が須賀神社、左が交通神社である。「縣想文売り」平安時代に行われていたが、その後廃れ昭和三十年に復興された。(烏帽子水干姿に覆面とした人が、梅の木の枝に結んだふみを希望者に授与する。この文を人知れず鏡台箪笥の引き出しに入れておくと、容姿は端麗になり、着物も増え、果ては良縁を得るといわれている)。




錦林小学校
 明治2年に上京区第三十二番組小学校(川端丸太町上がる)として誕生。秋築町に移転し錦織小学校に改名。明治31年に現在地へ。名前の由来は、この一帯が聖護院、熊野神社の森であったことから愛宕郡聖護院村字錦織と呼ばれ、秋には木々が色づき、錦の林の景観を呈していたことから名付く。


小沢蘆庵宅址
 江戸後期の歌人。名は玄中。通称帯刀、別に観荷堂と号した。元は尾張犬山藩士。交友関係が広く、上田秋成・本居宣長・伴蒿蹊・香川景柄、景樹・頼春水、山陽等で、特に国学に通じ、朝廷に事があれば殉じる志を持ち、蒲生郡平(寛政の三奇人の一人、高山彦九郎、林子平)の天皇陵調査に協力、自宅に宿泊させた。蒲生郡平は「山稜志」を著し、幕末尊王論の魁となった。




岡崎別院
 真宗大谷派の別院で享和元年(1801)に達如上人により創建された。親鸞上人の旧跡(叡山から下山し当地にしばらく住んだ)とされ、岡崎御坊と呼ばれ明治に今の名前に改められる。越後へ配流になるとき同地から赴いた。その時に姿を映した、姿見の池や手植えの「八房の梅」と称する紅梅がある。




岡崎神社
 元慶年間(877〜)に清和天皇の皇后藤原高子の御願により建立された東光寺の鎮守社として創祀された。東光寺は応仁の乱で焼亡するが、同社のみ残る。祭神は須佐之男命・櫛稲田比売命とその子八柱を祀る。西天王社(須賀神社)に対して東天王社と呼ばれ、岡崎町の産土神。祇園祭に鉾を出し、祇園社から分祀されたと記されている。祭礼には剣鉾11本が巡行していた。



与謝野鉄幹生誕地
 現在の岡崎中学校の地にあったといわれる西本願寺派の寺院、岡崎願成寺で生まれる。父は岡崎願成寺の住職で礼厳という。礼厳は幕末、勤皇僧として国事に奔走、そのため寺は荒れ放題となり、現在では所在も判明しない。





白河院址
 藤原良房(平安時代前期の公卿,冬嗣の次男)の別荘で、良房が白河大臣と呼ばれたことから白河殿と言う。子孫に代々伝領され、藤原氏出身の后妃の御所となった。上等門院(一条天皇中宮)も居住。藤原師実のときに白河天皇に献上された。天皇は白河院を改築して法勝寺を造営した。

六勝寺址
 岡崎一帯に建立された寺院郡。寺名に勝という字が付くことから六勝寺と称した。承暦元年(1077)から久安5年(1149)の72年間の院政時代に建立された寺院郡で、東山を背景に荘厳な諸堂が甍を並べていた。







法勝寺
 白河法皇が建立する。北は冷泉小路(夷川)、南は押小路、東は白川、西は岡崎広道で二町四方、総面積約63,500平方メートルで創建当初は金堂・阿弥陀堂・講堂・五大堂・法華堂の諸堂が造営され、奈良仏教、平安密教、浄土信仰を総合する寺院である。永保3年(1083)に薬師堂・八角堂は鎌倉時代に雷火により焼失。その他の諸堂は兵火により焼失。室町の末期には廃滅した。法脈は大津坂本の西教寺に伝えられ、薬師如来像坐像が遺仏とされている。白河法皇は同寺の他、蓮華蔵院、証金剛院、円徳院、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、を含め10ヶ寺を建立。

円勝寺
 鳥羽天皇中宮持賢門院上璋子の御願寺で4番目に建立された。金堂を中心に、五大堂、薬師堂、東塔、中塔、西塔、があった。中世の兵火により焼亡。

最勝寺
 鳥羽天皇の御願寺で三番目に建立された。寺域は方一町で、塔が三基、金堂、薬師堂、五大堂、が建っていたが、災害等で建物が破壊され鎌倉末期は青蓮院が管理していたが、応仁の乱で焼亡。

尊勝寺
 堀河天皇の御願寺で2番目に建立された。寺域は方四町で、法勝寺に次ぐ大きさがあり、金堂、講堂、阿弥陀堂に東西五重塔が甍を並べていた。鎌倉末期までに災害等で建物が荒廃しまもなく廃絶した。


成勝寺
 崇徳天皇の御願寺で五番目に建立された。寺域は方一町で、金堂、経堂、鐘楼等が建っていたが、建物規模は一番小さかった。当寺は、崇徳天皇が保元の乱により讃岐で憤死したことから、天皇の霊をなだめるために境内に神祠を建て霊を祀った。他の寺院同様中世の兵火により焼亡。

延勝寺
 近衛天皇の御願寺で最後に建立された。寺域は南北一町、東西二町の横長に金堂をはじめ塔、一字金輪堂、回廊の建物があり、後に近衛家から九体阿弥陀堂が移建され、寺観を整えたが、他の寺院同様中世の兵火により焼亡。





妙傳寺 日蓮宗
 関西の身延山として日蓮上人のお骨を祀る。はじめは下京区西洞院綾小路にあったが、その後秀吉により京極二条に、宝永の大火で現在地に来る。境内には初代片岡仁左衛門始め歴代の墓がある。



聞名寺 時宗
 光孝天皇ゆかりの寺で、一遍上人が再興して時宗道場とした。宝永の大火で現在地に来る。本堂前に光孝天皇塔がある。本堂裏の墓地入り口に鎌倉時代の阿弥陀石仏がある。石像寺(くぎ抜き地蔵)と同様である。香川一族の墓がある。





本妙寺 日蓮宗
 赤穂浪士吉田忠左衛門(家来寺坂吉衛門)・同沢右衛門・貝賀弥座衛門と妻おさんの四人の墓があり、義士ゆかりの寺と知られる。天野屋利兵衛のモデル棉屋善右衛門が墓を建立。寺宝として書簡や古文書の他、四十七士の像を安置。



満足稲荷
 秀吉が霊験あらたか(文禄の役の戦勝)なことから伏見城内に祀る。元禄年間に徳川綱吉が現在地に移す。法皇寺(宇多天皇が出家後入寺した乙訓寺が中世、名を法皇寺と改め南禅寺派に属し、同地付近に移転。現在は南禅寺に移転し塔頭となっている)の鎮守社。出世稲荷とともに秀吉ゆかりの神社。



寂光寺 顕本法華宗
 天正の頃、同寺の塔頭「本因坊」に囲碁に優れた僧が居て、信長、秀吉、家康に碁を教え、信長から名人の名を送られた。家康から幕府の碁所に指定された将軍家の指南役や全国棋士の昇進査定役を行った。毎年江戸に上り、江戸城で「城碁」を行った。代々囲碁に強い人が住職を勤めたが昭和14年に世襲制を廃止し、日本棋院で試合を行い勝った実力者が本因坊を襲名することとなった。歴代の本因坊の墓がある。






頂妙寺
 日祝上人が文明年間(応仁の乱真っ最中)に細川治部少輔勝益(土佐守護代。頼之の一族)の帰依を受け四条柳馬場(勝益邸)に創建。天文法華の乱を中心に寺地を転々とする。現在地へは寛文13年に移った。同寺の仁王門は右に持国天、左に多聞天が安置され多くの人々が信仰し、参詣したことから門前通りを仁王門とよばれるようになった。










善導寺 浄土宗
 本尊阿弥陀如来。永禄九年(1566)に六角堂の南側に創建。天正年間に現在地へ来た。善導寺型石灯籠(火袋に茶碗・炭斗・火鉢・火箸・茶釜・柄杓・五徳の彫り物がある)。弘安元年(1278蒙古襲来)の銘がある釈迦三尊石仏がある。幕末、九条家緒大夫「島田左近」(安政の大獄)は尊襄派の志士に狙われ、九条家別邸に現れたところを、薩摩の田中新兵衛らに襲われ、同寺に逃げ込んだが殺害され四条河原にさらされる。





島津創業記念資料館
 昭和五十年、島津製作所が創業百年を記念して開館。同地は、二代目島津源蔵が]線撮影に成功、蓄電池の製造にも活躍したゆかりの地。創業以来の理化学実験用製品、機械器具など三百数十点を陳列。


  
京都歴史ウォーク