西賀茂の名刹と牛若誕生の地を巡る
 
 
                                    西賀茂の丘に立つ平成の「十一面観音菩薩像」

 西賀茂は賀茂川を隔てて上賀茂の西方に位置するので、西賀茂の名で呼ばれている。もとは愛宕郡賀茂村に属し、上賀茂神社の神領地であるが、中世は賀茂六郷のうちの川上郡となり、近世以降は愛宕郡西賀茂村と称し、川上・今原・鎮守庵・総門・田尻からなる農耕集落となる。船山や薬師山などのなだらかな丘陵山岳を背後にし、前方は賀茂川の清流を望む景勝地で、古くは桓武天皇や仁明天皇がしばし猟をした。また平安京造営に用いた瓦が多く製造されたところとして歴史的に由緒ある土地である。昭和6年(1931)京都市北区に合併された。戦後、宅地開発が進み市バスも延長され都市化されている。今回は、「獅子の児渡し」と呼ばれる名庭の古刹等、太田蓮月尼の晩年の住処を巡り、後半は、義経シリーズのしめくくり、牛若誕生の地を訪ねます。

西賀茂の名刹と牛若誕生の地を訪ねて<約6km・3時間コース>
スタート:西賀茂バス車庫前〜川上大神宮社〜霊源寺〜正伝寺〜法雲寺〜西方寺〜太田垣蓮月の墓〜大将軍神社〜神光院〜大宮交通公園〜久我神社〜総神社〜義経産湯遺跡〜牛若丸胞衣塚〜常徳寺 (ページ末にmapあり)

川上大神宮社 (北区西賀茂南川上町

 正しくは大神宮社といい川上集落の産土神である。社殿によれば淳和天皇の天長10年(833)創祀、もともと上賀茂神社の読経所の鎮守社と伝える。一つには安良居神社ともいう。毎年4月第2日曜日に行われる「やすらい祭り」の行列は美しく、鉦や太鼓をはやしつつ悪疫退散を祈る。境内にはスサノオノミコトを祀る一宇がある。近くに醍醐の森があるが、ここには平安京造営当初の瓦を供給していた窯址があった。

 醍醐の森(恵観山荘跡)(川上大神宮社の北)
 後水尾天皇・近衛信尋の弟で、明正・後光明天皇の摂政関白を務めた一条昭良の山荘跡。恵観は剃髪した後の号である。昭良は寛永18年(1641)頃この地に山荘を営んだ。『温故録』には「慶安4年西賀茂山荘造作」とあり、襖絵に「慶安5年7月22日」の墨書名があったとするが、金閣寺の鳳林承章の日記によると、これ以前、正保3年(1646)11月3日、昭良に西賀茂( 山荘)へ招かれ、茶の湯と連句のひとときを持ったことが記されるから、山荘はほぼ10年の歳月を要して慶安初年に完成したと見られる。書院、数奇屋があり、苑池を隔てて茶屋のあったことがしられる。この山荘は昭良の次男、冬基の興した醍醐家に伝領され、明治に至り建物の多くは荒廃し、昭和34年(1959)鎌倉の山田宗囲邸に移築された。茶屋は田舎風の入母屋茅葺で二重屋根、内部は主室が長4畳、次の間6畳、3畳、3畳、4畳半が縦に並び、その両側に一間の緑座敷がつく。襖の引き手の「月」や「の」の字の京極高弘(安智)の娘の筆になると伝え、また金森宗和作 という二階棚がある。緑座敷には新上東門院の御殿のものという杉戸が6枚あり、立花図や人形操図が描かれている。桂離宮や修学院離宮などともに寛永文化の代表的遺構であった。


霊源寺 (西賀茂北今原町)

 
 

 船山の東麓、清涼山と号する臨済系の単立寺院で、寛永15年(1638)後水尾天皇が一糸文守(いっしぶんじゅ 仏頂国師)の為に一宇を建立し、霊源庵と称されたのが当寺の起こりである。寛文6年(1666)上皇は親しく臨幸され、庵を改めて寺号とし「清涼山・霊源寺」の勅額を下賜された。さらに数年経て寺域を拡大し、清涼殿を移して仏殿とされた。霊元法皇は勅願所となし、享保14年(1729)親しく当寺に行幸されたことがある。爾来、歴代皇室の厚い帰依を受け、今日に至っている。什宝には下賜の御物、文守関係の墨蹟等を有する。現在の仏殿は単層、寄棟造り、桟瓦葺のむくり(上に向かって膨れている)屋根とし、堂内には本尊釈迦如来像および後水尾上皇・開山像を安置する。開山一糸文守は岩倉家の出身であるため、同家と関係が深く岩倉尚具は明暦年間(1655−58)山県大弐・藤井右門と朝権回復を計って失敗し、当寺に蟄居し、さらに文久2年(1862)の秋には岩倉具視がちょっけんを蒙り、当寺において約1ヶ月落飾隠棲したことがある。現在境内には尚具の墓や具視の歯牙塚があり、明治維新史跡の一に数えられる。


正伝寺 (西賀茂北鎮守庵町)
 船山の南の山腹にあり、吉祥山正伝護国禅寺と号し、臨済宗南禅寺派に属する。当寺は文永5年(1268)東厳慧安(とうがんえあん)禅師が聖護院の執事静成法印の後援によって創建された。始めは今出川烏丸にあった。宋のごつあんふねい禅師が慧安にあたえた「正伝」の寺額をもって寺名にしたといわれる。慧安が元寇のあたり、岩清水八幡宮に祈念し『末の世の末の末までわが国はよろずの国にすぐれたる国』とうたって戦意高揚につとめたことは史上有名である。この慧安の行動に対し、亀山天皇から山号があたえられて寺運も隆盛になったが、それをねたんだ聖護院の執事宣朝僧正と叡山衆徒によって破壊された。慧安は門弟数人を伴って関東に赴き、大休正念の壽福寺を訪ねて賓客として迎えられ、さらに奥州の太守平泰盛から聖海寺の開山として招ぜられ、建治3年(1277)11月3日63歳で没した。正伝寺はその後弘安5年(1282)賀茂の森経久の尽力によって現在の地に再興された。後醍醐天皇から勅願所の諭旨を賜り、足利義満も祈願所とした。往時は寺運も盛んであったが、応仁の兵火によって多くの塔頭子院ともに焼亡し、明治維新後は全く衰微するに至った。今は方丈(本堂)と庫裏および鐘楼を有するにすぎない。

方丈 (重文・桃山時代)
 承応2年(1653)伏見城の御成殿を移したと伝えられる。桁行3間、梁間4間、単層、屋根は入母屋造でこけら葺。前面に1間の広縁を設け、背後に張り出しを造り、南と西および東北一部に落縁を付している。内部は6室に分かれ、前面中央を室中とし、天井は折上小組格天井としている。その奥に仏間があって、中にごっあんと慧安両禅師の頂相、本尊釈迦尼仏を安置した祠堂がある。方丈の広縁の天井は関が原の戦いの直前、伏見城に立て籠もった徳川方の重鎮、鳥居彦エ門元忠以下千二百余名が落城の際、割腹し果てた廊下の板を天井としたものである。今も、板状の残るおびただしい血痕は当寺の悲惨な武士道を物語っている。

庭園(江戸時代)
 本堂の前にあって、比叡山を借景とし、白砂とつつじの刈り込みによって七五三調の配置を見せた江戸時代の枯山水庭園である。龍安寺の庭を「虎の子渡し」というのに対して、俗に「獅子の児渡し」の名がある。


法雲寺
安土桃山時代豊臣秀吉に請願し建立された。本堂には阿弥陀三尊をまつり、地蔵堂には洛陽地蔵菩薩48体のうち、29番西院の河原地蔵を安置している。昭和58年に下京四条大宮から移転。移転10年の記念として建立した十一面観音菩薩像(平成4年)は御影石の一刀彫の石像としては日本一の高さを誇る。本堂正面に比叡山を望み風光明媚な寺院である。











西方寺

 来迎山と号し浄土宗。承和年間(834−848)に円仁(慈覚大師)が創建した。もとは天台宗山門派に属したが正和年間(1312−1316)道空上人が浄土宗に改め、以後六歳念仏の寺として知られる。毎年、8月16日、五山送り火の一つの 船形万燈籠が終了後、境内で六歳念仏が行われる。当寺の六歳念仏は鉦や太鼓を使って念仏を唱えるきわめて古風なものである。境内には皇室制度や神道史の研究家として知られるイギリスのリチャード・ボンソンビー(昭和12年60歳没)の碑がある。また、小谷墓地には太田垣蓮月、北大路魯山人、「汽笛一声新橋を」と歌いだす『鉄道唱歌』の作曲(明治33年・1900)で有名な多梅雅(おおのうめわか)の墓がある

  

 
舟形と円仁
 送り火は、盆に帰った先祖の霊が再び冥土に戻ってゆくのを送る宗教行事であることは知られている。「では、送り火はいつ誰が始めたか」は、はっきりわかっていない。しかし、元祖は「円仁ではないか」という説がある(弘法大師説、足利義政説等があるが)。船形は、円仁の開基になる麓の西方寺が仕切っている。円仁は承和年間、唐からの帰途暴風雨に遭い、「南無阿弥陀仏」の唱和により無事帰朝できた。その奇跡をあまねく天下に及ぼすべく船形万燈籠をはじめたのではないかと伝えられる。学術的に創始の時期をは1100年前に遡ることには無理があるようだが、送り火の原形は最も古いのではないかと考えられる。

太田垣蓮月尼の墓
 蓮月は西方寺の奥にある西賀茂小谷墓地に眠る。説明は神光院の欄に記載

大将軍神社 (西賀茂角社町)

   

 当社は西賀茂の産土神。本殿は天正19年(1591)造営の上賀茂神社の片岡社本殿を寛永5年(1628)から同13年の間に移建された。釣燈籠も片岡社から譲り受けたもので『賀茂片岡金燈籠天正19年□□』の銘がある。平安時代の頃には官の御用の瓦を焼いていた鎮守社と伝えられる。元は須美社と称した。「すみ」は賀茂建津身命(かもたけずみのみこと)に因むものといわれている。 一説に桓武天皇が王城鎮護のために京都の四方に大将軍社を建てた一つで、ここは西北の隅にあたるので、隅が須美となったとも言われているがあきらかではない。建物は一間社流造で装飾的要素がなく、賀茂系統の本殿の特色を残している。なお上・下賀茂社のなかでも最古の遺構である。S60年6月1日、指定有形文化財に指定された。

西賀茂窯遺跡10ヶ所
 上ノ庄田・蟹ケ坂・醍醐ノ森・河上・鎮守・角社・山ノ前瓦窯遺跡群7ヶ所・船山須恵器・正伝寺須恵器・大深町須恵器窯遺跡3ヶ所。大将軍社に接する北側の地にあたる。『延喜式』に記す瓦窯は、賀茂川をへだてて岩倉、幡枝の瓦窯とともに広く称されていた。窯址は発掘のさい破壊されてあきらかでないが、火焚口は東に向かい、規模は大であった。出土遺瓦は千本丸太町付近の大内裏址より発見されたものと同じである。大内裏や東西両寺の造立に用いた瓦をここに造ったことは明らかで、きわめて貴重な史跡地である。遺瓦は神光院に所蔵している。



神光院 (西賀茂神光院町)

  

真言系の単立寺院で、放光山と号する。当寺はもと上賀茂神社の境内にあったが、鎌倉初期の建保5年(1217)、社務松下能久が一夜本宮に参詣した時、霊光があって、その映ったところに一宇を建立すべしとの神託を受け、堂宇をこの地に建てたのが起こりと伝える。その後、醍醐三宝院の兼帯所となり、明治維新後には一時廃寺となったが、近年再興された。本堂に安置する本尊弘法大師像は、大師42歳の像といわれ、世に厄除大師として尊敬されている。
 
  

蓮月尼旧栖之茶所
 門内左手にあり、4間3間、平屋建ての小さい建物で、内部は5畳と3畳の居間と台所からなる。土間には竈を築き、ひねもす歌と陶器造りに余生を楽しんだ蓮月をほうふつさせる。蓮月は幕末の歌人で名は誠(のぶ)と言い、知恩院の寺侍太田垣家の養女である。2度目の結婚後も、夫と愛児に死別し、世をはかなんで出家した。市内各地を転住し、慶応2年(1866)この地に移住したのは76歳の秋である。その頃の神光院は竹薮と畑にかこまれ、境内からは上賀茂の森をへだてて比叡山や東山連をのぞみ、夜は賀茂川のせせらぎが聞こえるという蓮月の晩年にふさわしいところであった。ここで10年すごし、明治8年(1875)12月10日『願わくはのちの蓮(はちす)花の上にくもらぬ月を見るよしもがな』『ちりほども心にかかる雲もなしけふをかぎりの夕くれの空』の時世の歌を2句よみ85歳の波乱の生涯をとじた。蓮月が愛した茶所の前の梅は今も早春にはふくいくたる花を咲かせ、そのそばには富岡鉄斎の撰文になる蓮月尼碑がある。墓は西賀茂小谷墓地にある。

大宮交通公園
 この公園は実際の町中と同じ様に信号や横断歩道もあり、交通ルールをまもりながらゴーカートを運転します。公園内を散歩している人も交通ルールを守って行動します。「遊びながら交通ルールが学べる公園」です。又京都の市電と蒸気機関車も展示されています。この公園から100メートルのところに『お土居』があります。現在、お土居は9ヶ所残っていますがそのうち5ヶ所は紫野周辺にあります。

久我神社 (北区紫竹下竹殿町)

  

 大宮通の北、「大宮の森」と俗称される地にあり、古くは大きな鎮守の森が存在していたものと思われる。『山城国風土記』には加茂氏が大和葛城から山城国の岡田に至り、最後に賀茂川の上流久我の国の北山基に鎮したと伝えている。他にも岡田鴨神社(相楽郡加茂町)、久我神社(伏見区久我森の宮)があり、加茂氏の定住に伴って祭祀されたものとされている。神社の詳しい創建年代は不明だが、文献では『三代実録』貞観元年(859)正月27日条に久我神社が正六位から従五位下に加階されたとあるのが初見である。平安時代後半頃からは賀茂社の末社となったらしく、賀茂社の『嘉元年中行事』には末社と記載されており、鎌倉時代には確実に末社になっていたようだ。祭神の賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は上賀茂神社の別雷神の外祖父にあたる。江戸時代には氏神社と称していたが、明治5年(1872)に再び久我神社と改められ現在に至る。上賀茂神社第八摂社。檜皮葺の本殿と拝殿があり、寛永5年(1628)に建てられたものを19世紀中頃に改築されたものである。拝殿は、切妻造りで左右に庇がつき、妻が正面となる特殊な建物である。この神社は、京都の発展にきわめて重要な役割を果たしてきた賀茂氏との関係が深く、その歴史の解明に欠くことができないものと見られている。市街地と化した付近環境のなかにあってその価値は極めて高いものである。


紫竹の産土神 総神社 (大徳寺通紫竹南下ル 西南町)
 総神社は山城国一之宮賀茂別雷神社三十八社の一つである。賀茂御読経所聖神寺の鎮守社として社僧の崇敬した神社である。創祀年代はあきらかではないが、社僧の始まりは白鳳年間と伝えられているので、その時代と考えられる。当社の森が「菅宿の森」と呼ばれたのは、菅原道真公が筑紫に流刑される際、当社に住んでおられた叔母を訪れ、別離の情をのべ、遂に一宿されたという故事に依ると伝えられている。紫竹地区は古来源氏と縁深い土地であり、源義朝の別邸があったとされている。源義朝の妾、常盤御前が牛若丸(義経)をここにて出産したと伝えられており、古図に「常盤の森」と記入されている。






源義経産湯井の遺址  「碑陽北向行十六字」
 此ノ地ハ源義朝ノ別業ニシテ常盤ノ住ミシ所ナレバ平治元年義経誕生ノ時此ノ井水ヲ産湯二汲ミキトノ伝説アリ後二大徳寺玉室大源庵ヲ建立セシガ荒廃シテ竹林トナリヌ茲二大正十四年十二月紫竹区劃整理成ル二当リ井泉ノ原形ヲ失ヒタレバ其ノ由緒ヲ後昆二伝ヘムトス  大正十五年十月

  
    
源義経産湯井遺跡            牛若丸誕生井碑                  牛若丸胞衣塚

牛若丸誕生乃井碑 (北区紫竹牛若町)
 当地一帯は、牛若母子にまつわる伝説が多い。牛若町の畑の中に「牛若丸誕生の井」の石碑(大正7年建立)が建っている。一説によれば父義朝の別邸もこの辺りにあったといわれ、牛若丸出産の産湯の水をくみとったとされる深さ10mの石組みなどから高貴な人物が住んでいた事が推察されている。傍らの御影石に「牛若丸産湯井応永二年調之」と刻まれている。

牛若丸胞衣塚(えなづか)
  牛若丸誕生の井の後方近くに「胞衣塚」と呼ばれている古塚がある。牛若丸の胞衣とへその緒が埋められていると言われている。一方、九条家ゆかりの東九条にも義経伝説の地がある。牛若丸の胞衣を埋めたと伝承される「判官塚(ほうがんつか)」だが、昭和の始めの頃に整地され姿を消した。


常徳寺  (北区紫竹東栗栖町28)
 日蓮宗妙顕寺派。知足山と号し、本尊は十界大曼荼羅。寺伝に平安期の創建といい、関白藤原忠実の隠居所知足院が前身とも伝える。寛永5年(1628)不受不施派の開祖日奥が、金工家で京都三長者の一後藤家の帰依を得て日蓮宗に改宗、現寺号を定めて再興した。本堂に安置してある地蔵像は、知足院の旧仏で常盤御前が牛若丸の安産を祈願したと伝え、俗に「常盤地蔵」と称されている。墓地に後藤家歴代の墓がある。 

   

 <おわり>    最寄り駅 市バス「常徳寺前」

  京都歴史ウォーク