坂本

 比叡山麓に位置する坂本は延暦寺、日吉大社の門前町として発展した。JR比叡山坂本駅の北側に最澄の像と生源寺の釣鐘がある。この釣鐘は織田信長が比叡山を攻め、焼き尽くしたとき、お山の異変を村人に伝えるために打ち鳴らされたものである。村人たちは何時もと違う鐘の音にいち早く異変を感じ取り、お山を後にしたと言われている。その際あまりにも強く打ったためにひびが入り、それ以後不思議な音色になったといわれる。
 







養老寿院
 800年ほど前、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に破れた平家の落人の子孫藤井忠治が住んでいた合掌造りの家を越中五箇山から移築したもの。













 
大神門神社
 祭神である天石門別神(あめのいわとわけのかみ)は、天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が三種の神器に添えた三柱の神の一神。日吉大社の門を守る神。老大木はムクノキ。樹樹200年。樹14米。周囲4米。老朽や落雷などにより、損傷激しく、平成11年上部伐採。










日吉茶園

  最澄(傳教大師)が中国(唐)より持ち帰った我が国最初の茶がここ日吉茶園で栽培された。現在も日吉大社の祭礼、日吉礼拝講などにはこの茶園で栽培された茶が使用されている。
 











 
 滋賀院門跡
  

 
1615年(元和元)慈眼太師天海僧正(1536〜1643)が御陽成上皇より法勝寺を賜り、京都岡崎よりここに移築された。1655年(明暦元)後水尾天皇より滋賀院の号と寺領一千石を賜った。御成門の両側に続く石垣は、坂本一といわれる穴太衆積みでおおわれている。滋賀院御殿ともいわれた。
  














                   境内に松尾芭蕉の句碑がある。<叡慮にて賑わう民や庭かまど

慈眼堂

  1643年(寛永20)徳川家光の命によって建立された慈眼大師(天海僧正)の廟所。慈眼大師は、徳川家康・秀忠・家光の三代に仕え、延暦寺の復興にも力を尽した。京都南禅寺の金地崇伝と並び、家康の顧問的存在であった。


                      
 
慈眼堂の北側には御陽成天皇をはじめ徳川家康、紫式部、清少納言などの供養塔がある。
 正面前の石畳の両側は美しい「すぎ苔」でおおわれていて、沢山の石灯籠とともにしっとりとした雰囲気をかもしだしている。



日光東照宮

 1634年(寛永11)日光東照宮に先だって天海僧正が創建した。日光東照宮のモデルとなった。正面前方が拝殿後方が本殿で、2つの建物は石の間でつながっている。いわゆる日本最古の権現造りである。関西の日光といわれ徳川家康の廟、日光東照宮が中央に祀られている。東照大権現は朝廷からいただいた徳川家康のおくり名である。明治以後は日吉大社の末社になった。
  


















早尾地蔵尊(六角地蔵堂)

 比叡山開祖傳教大師最澄上人自作の石地蔵尊で、子育て地蔵として里人の信仰を集めていた。ある日地蔵の姿が消えた。半世紀を経て人々が忘れかけた頃、再び六角堂に戻ったという。地蔵尊が姿を消した年は西教寺を復興した真盛の生まれた年で、再び戻った年は真盛の亡くなった年だったという。大師は童子養育の心を注がれながら彫られたもの。よって、子育て地蔵ともいう。




二宮橋
  
 日吉三橋の一つ。境内を流れる大宮川に掛かる大宮端、走井橋、二宮橋の三つがある。木造の造りに見えるが、花崗岩で出来ている。 586年(天正14)豊臣秀吉が寄進させたと伝えられる日本最古の石橋。いづれも重文。
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青かへでの三橋の茶屋におり着きぬ   井泉水
 





















日吉古墳群

 大津市坂本町所在の穴太野添古墳群の中に、明良・日吉・讃仏堂・塚穴・大谷北などの古墳群がある。その中の一つ日吉古墳群は、日吉大社境内にあり6〜7世紀の古墳時代後期の67基に及ぶ古墳群である。その多くは削平されていて原形をとどめていない。直径5〜18mの小古墳群で、内部の構造に朝鮮半島の古墳との共通点が見られる。





八講千体地蔵尊

  
 延暦寺へ修行に行けない庶民があちこちに地蔵を祀った。近年耕作したら、あちらこちらから石の地蔵さんが出て来た。誰いうともなくここへ集められた。昔、この辺に八講堂があった。
  








西教寺(天台眞盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺)
  
 聖徳太子によって創建されたといわれ、のち恵心僧都源信が民衆の修行道場としたが、その後長い間荒廃していた。1483年(文明15)眞盛上人が入山し、恵心僧都の天台浄土教を発展させ、一派を開いた。1571年(元亀2)織田信長が比叡山と共に西教寺全山を焼き払った。
   















明智一族の墓

 比叡山焼き討ちの翌年、坂本城城主であった明智光秀が再建、庫裏も建てた。1582年(天正10)明智光秀が没し、先に葬られていた熙子(ひろこ)夫人や一族と共にここに葬られた。

  













 ※煕子夫人の墓               ※芭蕉の句碑

                                                <月さびよ明智が妻の拙せん>               
『明智光秀之墓 秀岳宗光禅定門 天正十年六月十三日寂』
南無阿弥陀仏の6文字の一字一字が列を乱している。
逆臣の業永劫に刻まるる碑の名号の列は乱れていかるがの声透きとおる山寺忘れられたる光秀の墓。逆臣の汚名を着せられた光秀を葬るのに世間への遠慮か。光秀自身の生前の罪業が死後、こういう形で現れたのか。逆臣の代表のようにいわれることもあるが、部下を愛し、領民をいたわる人情家でもあったという。悲運の武将か



明智光秀と西教寺

  1571年(元亀2)の織田信長の比叡山焼き討ち後、坂本城城主とな
った明智光秀は西教寺の壇徒となり、西教寺の復興に力を尽した。昭和36年に庫裏が改修されたとき、光秀の寄進を示す棟木がでてきた。書院に保管されている。

 












                                                         
眞盛上人(1443〜1495)宗祖円戒国師慈摂大師。 伊勢の出身。紀貫之の一族。14歳で出家、19歳で比叡山に上り慶秀和尚に師事、20年間山に籠り天台の学問を究めた。
 1483年西教寺に入り不断念佛の根本道場とした。
  



  
 
生源寺
  
 天台宗の開山傳教大師が生まれたといわれる。比叡山西塔の総里坊格の寺。     傳教大師御産湯井 



※傳教大師(767〜822)平安初期、日本天台宗の祖。
  最澄は12歳で近江国分寺で得度。20歳で東大寺戒壇院で具足戒を受けた。804年唐で天台数学を深め、日本で顕蜜一致の天台宗の基礎を作った。鎌倉期には、浄土宗の法然、、浄土眞宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮の各宗派の宗祖たちが比叡山延暦寺で傳教を学び、下山してそれぞれの道を歩んだ。比叡山は日本佛教の母山であるといわれる。866年(貞観8)傳教大師とおくりなされたが、これは日本の大師号の最初。叡山大師、根本大師、山家大師ともいわれる。
 

※穴太衆積み

  
















自然の石を加工せず、野面石を自由に使い積み上げた石垣。石の面や角の使い方、石の大小の組み合わせに特色を持ち、奥行の深い積み方に角も美しく堅子固である。近江が誇る穴太衆と呼ばれる石工集団は近世初頭、石垣のある城が各地に登場し、織田信長の安土城で注目され、伏見城、名古屋城、小倉城、金沢城、和歌山城、伊賀上野城、熊本城、彦根城などの石垣工事に参加したといわれる。江戸幕府からは『穴太頭』の地位を与えられた。滋賀門跡院正面門の石積みは、穴太積みの代表である。




 

 

天台里坊と石積みの門前町坂本



西に比叡の霊峰を拝し、東に近江富士
を湛える鳰の湖を望むまち・坂本。
50余カ寺にのぼる天台里坊群と美しい穴太
積みに囲まれた坂もとのまちを散策しよう